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カテゴリ:鎌倉市歴史散歩
『鎌倉散策 目次』👈リンク
この日の散策「古都「鎌倉」を巡る」はここまでとし、これから先の北側は次回とした。 「英勝寺」を後にして、帰路には来た道を戻り、「寿福寺踏切」まで戻る。 「寿福寺踏切」を渡り、左に進むと右手にあったのが「扇谷上杉管領屋敷迹」碑。 「内大臣藤原高藤十三代ノ裔(すえ)に重房アリ 宗尊親王ニ従ヒテ鎌倉ニ下リ 食邑(しょくゆう:禄地)ヲ丹波國上杉荘ニ賜リテ 始メテ上杉氏ヲ稱セルカ 其ノ曽孫(ひまご) 憲顯管領基氏ノ執事ト為リテヨリ一族勢力ヲ關東ニ占ム 門葉數家 重房五世ノ孫 顯定 扇谷家ヲ創ム 文明ノ交(1469-1487) 扇谷家六代ノ主 定正 賢臣太田道灌ヲ用ヒテ 家聲を揚(あ)クルヤ 世ニ宗家山内ト共ニ两上杉又ハ两管領ト稱ス 此ノ地即チ其ノ邸址ナリ」 【藤原高藤(たかとう)より数えて、十三代の子孫に藤原重房(しげふさ)という人がおり、鎌倉6代 将軍となった宗尊親王(むねたかしんのう)に従って、鎌倉に行きました。そして、京都の上杉に 領地をもらったので、名前を上杉としました。その3代後の上杉憲顕(のりあき)は、将軍基氏 (もとうじ)の高官となり、一族の勢力は関東に広がりました。さらに重房から5代後の顕定 (あきさだ)は、扇谷家を起こしました。文明(1469‐1487)頃、扇谷家の6代目の 定正(さだまさ)は、太田道灌を用いて勢力を拡大しました。世間の人々は、 山内(やまのうち)家と共に、両上杉または両管領(かんれい)と言いました。 この場所がその屋敷の跡です。】 石碑の前の道路の反対側には小川が流れていた。 「扇川(おうぎがわ) この川にはヨシノボリ(魚)やモクズガニのほかにホタルの幼虫の餌となるカワニナ(貝)など の水生小動物が生息しています。 良好な水辺環境をみんなで創り育てましよう。」そしてその隣りにあったのが「護国寺」の案内表示。 「令和二年 竜ノ口発迹顕本七五〇年 令和三年 日蓮大聖人御聖誕八〇〇年」円柱塔。 日蓮大聖人の「発迹顕本」とは、御自身が竜の口の法難を機に、宿業や苦悩を抱えた 凡夫という迹を開き、生命にそなわる本源的な慈悲と智慧にあふれる仏 (久遠元初[くおんがんじょ]の自受用報身如来[じじゅゆうほうしんにょらい])という 本地を凡夫の身のままで、顕されたことをいう のだと。 「ここは 日蓮正宗 立正山 護国寺」 総本山 多宝富士大日蓮華山大石寺 開基上人 総本山第66世日達上人 開創 昭和44年1月10日 開創縁起 日蓮大聖人の竜ノロ法難・発迹顕本の意義を末永くとどめるために建立 この鎌倉で日蓮大聖人は捕われ、竜ノロ法難が起こりました。 大聖人には、身命に及ぶ迫害を受けながらも、説き顕すべきものがありました。それは苦悩に あえぐ人々を無上の幸福境界に導く南無妙法蓮華経の教え(三大秘法)でした。 そのお心を、御生涯の一大事として本門戒壇の大御本尊に顕し、本弟子六人の中でただ一人、 日興上人に託されました。 日蓮正宗では、日興上人の開いた富士大石寺に七百年来大御本尊を厳護しつつ、大聖人の 三大秘法を広宣流布し、人々の真の幸福と平和な世の中を築くことを目指しています。 心の支えをお探しの方、悩みをお持ちの方は、是非当山をお訪ね下さい。」 「掲示板」 「日蓮大聖人御聖訓」 日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外(ほか)未来までながる(流布)べし。 日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり。 無間地獄の道をふさぎぬ。(叔恩抄)」 「本年(令和三年)は日蓮大聖人御聖誕八百年の大佳節を迎えます。 今の世の中は、法華経に五濁悪世と説かれるように、様々な濁りの中で人々は生きています。 その苦悩を救うべく御本仏大聖人は出見し、本門の題目を弘められました。この大慈悲は 末法万年の闇を照らし、人々を限りなく幸福に導くのです。(住職榎木境道)」 ユニークなデザインの「護国寺」の「本堂」。 富士の裾野の様な屋根、軒は、ドーナツの様な丸み。 設計者は早稲田大学理工学部建築学科卒の横山公男氏であると。 「日蓮正宗 立正山 護国寺 総本山 多宝富士大日蓮華山大石寺 開基上人 総本山第66世日達主人 開創 昭和44年1月10日 開創縁起 日蓮大聖人の竜ノロ法難・発迹顕本の意義を末永くとどめるために建立 この鎌倉で日蓮大聖人は捕らわれ、竜ノロ法難が起こりました。大聖人には、身命に及ぶ迫害を 受けながらも、説き顕すべきものがありました。それは苦悩にあえぐ人々を無上の幸福境界に導く 南無妙法蓮華経の教え(三大秘法)でした。そのお心を、御生涯の一大事として本門戒壇の 大御本尊に顕し、本弟子六人の中でただ一人、日興上人に託されました。 日蓮正宗では、日興上人の開いた富士大石寺に七百年来大御本尊を厳護しつつ、大聖人の 三大秘法を広宣流布し、人々の真の幸福と平和な世の中を築くことを目指しています。」 英文による案内板も。 中央に「発迹顕本讃仰之精舎」碑。 その左側には 「四条金吾殿御消息 滝口に日蓮が命をとヾめをく事は法華経の御故なれば寂光土ともいうべきか」と刻まれた 石碑があった。 「本堂」への入口。 内陣は撮影禁止であったがご住職が「護国寺」👈リンク について丁寧に説明して下さった。 内陣を護国寺HPより 【https://www.kamakura-gokokuji.or.jp/the-auspicious-establishment-of-gokokuji-temple/】より 「横大路」を東に進んでいくと、左手にあったのが「不動茶屋」。 「厳窟不動尊(いわやふどうそん )」と書かれた木札が入口に。 入口左にあった「山林奉納 不動尊?」と刻まれた石碑。 奥に向かって進む。左手には庚申塔など多くの石碑が並んでいた。 岩窟の中にあった五輪塔や宝篋印塔、庚申塔も参道に並べ直されている。 5基の庚申塔、左から、 ● 唐破風付笠塔婆型 上辺に「日月」、中央に六手の青面金剛像を刻み、下に三猿の浮き彫り があり、左側面の銘は寛政3年(1791)の銘。 ● 駒型 下に一猿が横を向いて浮き彫りにされており、文化12年(1815)の銘がある。 ● 自然石 中央に「猿田彦大神」と刻み、文政6年の銘(左側面)がある台座にのっている。 ● 舟型 上辺に「日月」、中央に合掌した六手の青面金剛像を刻み、下には、三猿。 ● 駒型 上辺に「日月」、中央に「青面金剛」を刻み、下に三猿が浮き彫りにされている。 文政八年(1825)の銘がある。
その先に五輪塔が並んでいた.。 突き当りに鎮座する「窟堂(いわやどう)」は、「不動明王」を祀る岩屋のお堂。 源頼朝が鎌倉入りする前からあったと伝えられている。 かつては、街道が山の上を通っていたため、岩屋も山の上にあったが、街道が山裾を通るように なったことや、大地震によって崩れたりしたことから下方へ移動したのだという。 窟堂は、江戸期まで東隣にあった松源寺に管理されていた。 松源寺は、頼朝が源氏再興を祈願した伊豆日金山の地蔵を模造した日金地蔵を祀った寺。 頼朝の位牌も祀られていたという。 明治の神仏分離により廃寺となり、頼朝の位牌は白旗神社(西御門)へ、日金地蔵は横須賀の 東漸寺に移されている。 鳥居には扁額「厳窟不動尊」 岩窟不動尊の祠の隣に『重軽石』という丸い石が置いてあった。 この石は、願い事を占う石。石を持ち上げて重く感じれば身の丈以上の願いなので叶わず、 軽く感じるようであれば叶うと。 「重軽石の持ち上げ方 まずはひざまずいて手をあわせます。 『重軽石さま、重軽石さま。私は◎◎市に住む◎◎◎(名前)と申します。わたくしに神仏の 御威光(おちから)をお示しください。まず、持ち上がらないほど重くなってください。』と 唱えます。 この後、両手で重軽石をもちあげる。 次に『ありがとうございます。それでは持ち上がるほど軽くなってください』と唱えます。 この後、もう一度重軽石を持ち上げる。 最後に『ありがとうございます。改めてお願いを申し上げます』と伝え、自分の願いを伝える。 そして最後に、重軽石を持ち上げる。 最後は『本日はありがとうございました。」 「不動明王像」。 当初の不動明王像」は弘法大師の作といわれ、岩屋内部の壁面に彫られていたが、 永い年月の間に風化してしまったため、後に彫られた石像が祀られたのだという。 お顔に近づいて。 見上げて。 「岩窟不動尊」の先の奥まった場所にあったのが「鎌倉彫再興碑」。 明治の鎌倉彫先駆者、後藤齋宮(いつき)と運久、三橋鎌山と鎌岳の二家の父子を 顕彰する碑であると。 かつての仏所であった場所に、1979年(昭和54)、後藤俊太郎によって建てられたた と。 「~武家社会・禅宗文化の発展と仏師の活躍~ 源頼朝が鎌倉に入り、武家の都を創る上げると、運慶をはじめとする慶派の仏師たちが 奈良から東国に入り活躍するようになる。 そして、宋の文化が流入し禅宗寺院が興隆するようになると、仏具なども作られるようになった。 これらの元となったのは、宋から陳和卿が持ってきた彫漆工芸を運慶の子康運が真似て 作ったもの。 建長寺の「須弥壇」や円覚寺の「前机」などの仏具がその代表で、奈良の慶派の仏師たちに よって作られたものといわれ、鎌倉彫の原型とされている。 その技術は、鎌倉仏師にも受け継がれ、茶が普及するようになると、「茶入」、「香合」、 「香盆」などが作られるようになっていった。 壽福寺の周辺(扇ヶ谷)には、多くの仏所があったといわれている。 ~伝統工芸への道~ しかし、政治の中心が鎌倉を離れると、多くの仏所がなくなり、江戸時代後期には鎌倉仏師の 流れを受け継いでいるのは、後藤家と三橋家のみとなった。 明治に入ると廃仏毀釈の運動によって仏師たちの造仏の仕事がなくなり、その技術は工芸品の 制作へと移行していく。 昭和に入り、後藤家28代目の俊太郎は、戦後の鎌倉彫の普及に努め、1979年(昭和54年) には「伝統的工芸品」の指定を受けるに至った。」と 【https://www.yoritomo-japan.com/sangyo/kamakurabori.htm】より。 石碑の裏には、 「鎌倉彫は鎌倉五山の建立に伴いて興り、桃山期全国に広まる。此処扇ヶ谷壽福寺周辺は 佛師多く住して佛所を成し、造佛の業と共に佛器鎌倉彫の技を伝承す。時移り文化年間 鎌倉三勝日記に依れば、運慶屋敷跡今に残りて佛師相続けりとあるも、天保十二年 新編相模風土記は佛所僅かに三橋後藤の二家を残すのみと記す。幕末、其の衰微の底より 後藤斎宮、運久、三橋鎌山 鎌岳らは伝統の技能を新時代に順応せしめ、近代工芸品たる 鎌倉彫を再興せり、今日此の業を営む家百廿余軒工人四百余人、正に鎌倉を象徴する産業と なれり、茲に四師の功を讃え記念の碑を建つるものなり」 更に東に向けて進むと左手に石積みの上の黒塀が現れた。 「鎌倉市川喜多映画記念館」の屋敷内への遊歩道への入口が前方に。 「鎌倉市川喜多映画記念館」掲示板。 「鎌倉市川喜多映画記念館 鎌倉市川喜多映画記念館は、この敷地内にあった旧川喜多邸母屋を、周囲の景観と調和のとれた 鎌倉らしい佇まいを楽しめることができる、和風の平屋建てに建て替えたものです。 この記念館は、本市における映画文化の発展に資するため設置したもので、映写機能を持った 映像資料室、映画に関する資料等の展示室等を備えています。 また、敷地内にある旧川喜多邸別邸(旧和辻邸)は、哲学者の和辻哲郎(明治22年一昭和35年)が 江戸後期の民家を居宅として使用していたものを川喜多夫要が練馬区からここに移築した ものです。 なお、敷地内の遊歩道は、鎌倉らしい緑の中を散策できるように整備したもので、記念館を ご利用にならない方でも自由にご散策いただけます。」 前方に見えて来たのが「鎌倉市川喜多映画記念館」の建物が見えて来た。 奥に見えたのが「旧川喜多邸別邸(旧和辻邸)」の姿が見えた。 こちらが「鎌倉市川喜多映画記念館」への入口。 「鎌倉と映画を愛した川喜田長政・かしこ 川喜田長政 明治36年東京生まれ。大正12年北京大学文学部を中退し、ドイツに留学。昭和3年に洋と西洋の 和合を意味する「東和」と名付けた東和商事を設立し、ヨーロッパ映画の輸人を行う。 「アスファルト」「自由を我等に」等をわが国に紹介。昭和26年東和映画を設立し社長に就任、 かしことニ人三脚で映画による国際交流に尽力。以後、東宝東和会長、東宝取締役等を歴任。 フランス芸術文化勲章、藍綬褒章、勲ニ等瑞宝章受章。昭和56年5月に78歳で逝去。」 川喜田かしこ 明治41年大阪生まれ。フェリス女学院を卒業後、昭和4年東和商事に人社。同年秋社長の長政と 蛄婚。長政とともにヨーロッパ映画の輸人に携わり、「制服の処女」「禁じられた遊び」等、 数多くの名作を紹介するとともに、各地の国際映画祭で審査員を務め、映画を通じた国際交流に 貢献し、わが国の映画文化の振興に尽力。これらの業磧から、勲三等瑞宝章、菊池寛賞、 フランス芸術文化勲章、同国家功労賞などを受賞。 平成5年7月に85歳で逝去。」 近くにある「鎌倉市 鏑木清方(かぶらき きよかた)記念美術館」案内ポスターも。 そして「鎌倉市 鏑木清方記念美術館」まで足を延ばす。 「鎌倉市 鏑木清方記念美術館」掲示板。 この日は展示作品の見学はしなかった。 近代日本画の巨匠 鏑木清方画伯の終焉の地、鎌倉雪ノ下の旧居跡に建てられた美術館である。 古都鎌倉の閑静な住宅地の中に、和風建物が端正なたたずまいをみせている。 鏑木清方は、明治11年、東京神田に生まれる。幼い頃から文芸に親しんで育ち、その画業の はじまりは挿絵画家からであり、のちに肉筆画に向い、清らかで優美な女性の姿や、 いきいきとした庶民生活、肖像、愛読した樋口一葉や泉鏡花などの文学を主な題材として 描かれた作品は、市井の人々への共感や慈愛のまなざしが感じられる。 鎌倉とのゆかりは、昭和21年に材木座に居を構えた時からである。昭和29年、文化勲章受章の 年よりここ雪ノ下に画室をもうけ、昭和47年に93歳で亡くなるまでの間を過ごした。 清方は晩年、自らの境地を「市民の風懐(ふうかい)にあそぶ」と称して、庶民生活を題材に した作品を多く手がけた。情趣あふれる日本画作品、また典雅な文体による随筆を多く 残している。 平成6年、遺族より鎌倉市にその画業と創作の場を後世に伝えてほしいという趣旨のもと、 美術作品・資料と土地建物が寄贈された。これを受け、平成10年4月に記念美術館として 開館した。 そしてこの日の予定の散策を完了し「小町通り」を鎌倉駅に向かって歩く。 この日はかなりの人出があった。 JR鎌倉駅手前の地下道を進む。 「街路灯マンホール蓋」 鎌倉駅の駅舎と 市の木ヤマザクラ 市の花リンドウをデザインしたもの。 リンドウは源氏から来ていると。 GAIROTOUの文字が入っていた。 線路下の東口地下道を潜る。 路には2面にわたって展示ケースが設置されており、「地下道ギャラリー」という位置づけで、 年間にわたって鎌倉市の施設(文化施設や学校等)が活動内容や成果物を展示しているのであった。 そして西口にあった「とんがり帽子の時計台」。 この時計台は、1916年(大正5年)に建てられた旧駅舎の象徴だったもの。 長い間、「とんがり帽子の時計台」として市民に親しまれてきた。 新しい駅舎の建設により、旧駅舎が取り壊されることになるが、「せめて時計台だけでも 残して・・・」という市民の願いにより、 時計塔として残されたのだという。 鎌倉駅の旧駅舎は、1984年(昭和59年)に新しい駅舎に建て替えられたと。 そしてこの日は横須賀線で大船まで戻り東海道線、小田急線を利用して帰宅したのであった。 この日の歩数は27,230歩であった。 ・・・もどる ・・・つづく・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2022.05.19 15:58:33
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