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JINさんの陽蜂農遠日記

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2021.12.07
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カテゴリ:国内旅行
「迫間眼鏡橋」を後にして、この旅行の最初の続日本百名城の「鞠智城(きくちじょう)跡」に
向かって県道18号線・鞠智鹿北線を北に向かって進む。
途中ルート上にあるはずの「袈裟尾高塚古墳」に立ち寄りたかったが案内板が見当たらず
諦めて更に進み「歴史公園鞠智城駐車場」に到着する。時間は11:44。
車を降りると、北側には八角形の建物が。



復元した「八角形鼓楼」をズームして。「温故創生館」を見学後に訪ねたのであった。



東側にはこれも八角形の土産物屋「長者館」が。



「歴史公園 鞠智城」案内板も。



そして右側にあったのが「歴史公園鞠智城・温故創生館」。



「温故創生館」に向かって進むと、右手にあったのが「鞠智城跡周辺案内図」。



「温故創生館」前から再び「長者館」を見る。



「温故創生館」を正面から。
鞠智城が築かれた時代やその役割、城の構造について、展示と映像で学べる施設。
1階には[展示解説室]があり
「Ⅰ.鞠智城とは」、「Ⅱ.鞠智城跡の調査成果」、「Ⅲ.鞠智城跡の整備」、
「Ⅳ.各地の古代山城」といったテーマごとに、パネルや写真、出土遺物、復元模型などを使って
わかりやすく解説していくれていた。



「温故創生館」。
熊本県によって平成6年度から歴史公園として整備が進められ、平成14年4月にオープンした
施設で、鞠智城から出土した遺物や、展示品と映像(復元様子やミニ映画)で、鞠智城とその
時代を紹介している施設。また2階の休憩室からは鞠智城跡を一望できる。
内部にはいろいろな資料や模型が展示してあり、当時の生活用具や武具などがも分かりやすく
展示してあったのだ。



「温故創生館」に入館、入館料は無料であった。
コロナ感染予防の消毒・検温、記帳をして入館する。
[映像解説室]では鞠智城の見どころや菊池川流域の文化財を紹介する映像が
上映されていたのでしばしの鑑賞。



鞠智城(きくちじょう)は、熊本県の山鹿市と菊池市にまたがる台地状の丘陵に築かれた、
日本の古代山城である。城跡は、2004年(平成16年)2月27日、国指定の史跡「鞠智城跡」に
指定されている。



鞠智城跡では、国内の古代山城では似かよった例を見ない、4基の八角形建物跡が見つかって
いると。韓国の二聖(イーソン)山城でも同じようなものがあり、注目される。
特別な性格の施設であったことをうかがわせる、八角形という特殊な形であったことから、
鼓の音で時を知らせたり、見張りをしたりするための「八角形鼓楼」として復元したと。
復元した「八角形鼓楼」は、高さ15.8mで、重量約76トンの瓦が載る建物。



1991年の調査で発掘された八角形建物の柱跡。
八角形建物跡は極めて少なく、前期難波宮など数ヵ所のみであると。



4基の八角形建物跡が見つかっていると。
復元されたものは高さ:15.9m、最大幅:8.2m。1層目の柱数は48本、2層、3層目には
16本の柱にて支えられている。3層には連絡用の太鼓を置いていたと考えられている。 



「なぜ鞠智城はつくられたのか?
鞠智城は、7世紀後半(約1,300年前)に大和朝廷が築いた山城です。当時、東アジアの政治的情勢は、
非常に緊張していました。日本は、友好的であった百済を復興するために援軍を送りましたが、
663年の「白村江の戦い」で唐と新羅の連合軍に敗北しました。このため、事態は急変し、直接
日本が戦いの舞台となる危険が生じました。そこで九州には、大宰府を守るために大野城(福岡県)、
基肄(きい)城(福岡県・佐賀県)、金田城(長崎県)が築かれました。鞠智城は、これらの城に食糧や
武器、兵士などを補給する支援基地でした。」



朝鮮半島西部の白村江で倭軍と百済の連合軍は唐軍と戦ったが、倭軍が大敗。
朝鮮半島から撤退した。その結果、大和朝廷は唐や新羅の来襲に備え、665年から667年にかけて
福岡、佐賀、山口、奈良、香川、対馬に城を築き国防の備えとしたのであった。



そして順路に従い、自宅での復習を目的に館内の展示パネルをデジカメで追ったのであった。



「Ⅰ.鞠智城とは
 1.鞠智城とは
鞠智城は7世紀後半、今から約1300年前に大和朝廷によって築城された古代山城です。この当時、
朝鮮半島では、「高句麗」、「百済」、「新羅」の三国の争いに、中国の「唐」が加わり、
社会的な緊張が続いていました。
660年、唐と新羅の連合軍によって、日本と友好関係にあった百済が滅ぼされます。日本は、
百済の復興を支援するために援軍を送り込みますが、663年の白村江(はくすきのえ)の戦いで
唐・新羅連合軍に大敗し、百済の救援に失敗しました。その結果、今度は唐と新羅による
日本侵攻の脅威に、直接対処せざるを得ない情勢になります。
そこで、大和朝廷は西日本を中心に防衛体制を形成します。九州では最前線基地として
金田城(長崎県対馬)が築城され、大宰府を防衛するために大野城(福岡県)、基肄城(きいじょう
佐賀県・福岡県)が築かれます。それらの背後に位置する鞠智城は、防衛施設であったと同時に、
食糧や武器なとを前線へ供給するための兵站基地であったと考えられています。しかし、結果と
して唐と新羅による日本への侵攻はありませんでした。
鞠智城はその後、役所的な役割を持つ施設や食料を貯蔵する施設などに変化し、10世紀半ばまで
存続しました。」



「2. 7世紀の東アジア世界
7世紀の東アジア世界は、どのような状況だったのでしょうか。
朝鮮半島では、唐の高句麗遠征などをきっかけに、高句麗・百済は唐と敵対するようになります。
その一方、新羅は唐の制度を積極的に導入し、唐と親密になっていきます。
そのころ、日本は大化の改新の最中で国内の政治体制を整備し始めたばかりの時期にあたります。
しかしながら、百済と友好関係にあったため、まだ国内が十分に整わないうちにこの東アジアの
大きな動乱に巻き込まれていきます。そして、660年に百済が唐・新羅に滅ぼされると、日本は
積極的にこの動きに関わっていきます。中大兄皇子は、663年、百済遺臣の求めに応じて百済
復興のための軍勢を派遣します。
この日本軍と唐軍が、今の韓国忠清南道の錦虹河口にあった白村江において激戦を繰り広げ、
日本は大敗を喫し、百済復興の道は閉ざされます。
このとき、日本はその国家史上初めて、外敵からの脅威にさらされることになるのです。」



「白村江の戦い」当時の九州内の最前線の城と朝鮮半島の城の地図。



「3. 古代山城とは
「白村江の戦い」ての敗戦後、日本はその国家史上初めて外敵からの脅威にさらされることに
なります。この時、大和朝廷はそれに対するために、西日本の各地で防衛体制の強化を行います。
この防衛体制の強化については、『日本書紀』に記載されています。まず664年には、対馬、壱岐、
筑紫に防人と烽(とぶひ)(烽火・のろし)が置かれ、筑紫には水城が築かれます。その翌年には
長門国(山口県)に城が築かれ、また大宰府の周囲に大野城・基肄城が築城されます。さらに
667年には高安城(大阪府)、屋嶋城(香川県)、そして対馬には金田城(長崎県)が築かれます。
このような流れの中で、7世紀から8世紀ころに築城された西日本の山城を総称して「古代山城」と
いいます。なお、古代山城の中でも『日本書紀』や『続日本紀』などの歴史書に記載のある城を
「朝鮮式山城」、記載のない城を「神籠石(こうごいし)式山城」と呼びます。鞠智城は、
『続日本紀』などの文献に記載があるため、朝鮮式山城に分類されます。
古代山城のうち大野城と基肄城については、、『日本書紀』の中に、「日本に亡命して来た百済の
達率(たつそつ)である憶礼福留(おくらいふくりゅう)と四比福夫(しひふくふ)を派遣して
築かせた」との記述があります。古代山城には、朝鮮半島の最新の土木技術が使用されて
いました。」



「4. 古代山城の分布
白村江での敗戦後、大和朝廷が国家防衛のために築城した
古代山城は、西日本各地に分布しています。特に、北部九州、大宰府の周辺に多くの古代山城が
築城されています。当時の大和朝廷が、北部九州の防衛を非常に重要視していたことが
わかります。
また、下の分布図を見ると古代山城は北部九州から瀬戸内にかけて、分布していることが
わかります。これは、当時の都であった、「難波宮」や「近江大津宮」なとに至るルートです。
大和朝廷が唐・新羅の連合軍による都への侵攻を想定し、防備を固めたようとしたことが
うかがえます。



古代山城の分布図。



「5. 文献に見る鞠智城
鞠智城が初めて文献に登場するのは、『続日本紀』の文武天皇2 (698)年5月25日の、
「甲申、大宰府をして大野、基肄、鞠智の三城を繕ひ治めしむ」という記事です。大野城と
基肄城は『日本書紀』に665年に築城されたという記事があります。この2城と同時期に修繕
されたということから、鞠智城の築城もこれに近い時期であったと想定てきます。
その後、再び文献に登場するのは、『文徳実録』天安2(858)年閏2月の「丙辰、肥後国言す、
菊池城院の兵庫の鼓自ら鳴る」、「丁巳、又鳴る」という記事です。この時期には、「菊池城」と
字が変わっています。
さらに、同年6月20日の「肥後国菊池城院の兵庫の鼓自ら鳴る」、「同城の不動倉十一宇火く」と
記事は続きます。長者原や長者山で、大量の炭化米や、火を受けた礎石が発見されたことは、
不動倉11棟が焼失したという記事を裏付けるものでしょう。
『三代実録』元慶3 (879)年3月16日の記事には、「丙午肥後国菊池郡城院の兵庫の戸自ら鳴る」と
みえます。
こうした一連の不吉な記事が記載された後に、鞠智城のことは一切文献に登場しなくなります。」



「地名の変化
昔から伝わる地名は、読みは同じでも漢字が変わる例が多く見られます。
例えば・・・
倭(やまと)    →大和(奈良県)
下毛野(しもつけ) →下野(栃木県)
上毛野(こうづけ) →上野(群馬県)
泉(いずみ)    →和泉(大阪府南西部)
近淡海(おうみ)  →近江(滋賀県)
遠淡海(とうとうみ)→遠江(静岡県西部)
針間(はりま)   →播磨(兵庫県南西部)
沖(おき)     →隠岐(島根県岐諸島)
三野(みの)    →美濃(岐阜県南部)
木(きい)     →紀伊(和歌山県)
多遅麻(たじま)  →但馬(兵庫県北部)
粟(あわ)     →阿波(徳島県)
これは奈良時代初期の和銅6 (713)年に、日本全国の国名、郡名、郷名などを好字
(良い意を持つ字。縁起の良い字)のニ文字に統一するようにとの命令がだされたことによります。
鞠智城の『鞠智』も、このような流れの中で『菊池』と文字が変わったものと思われます。」



「6. 鞠智城の位置
鞠智城は熊本県北部に位置し、山鹿市と菊池市にまたがって所在します。北側にそびえる
ハ方ヶ岳(標高1052m)から南に広がる台地の一つである「米原台地」上に位置します
(標高約140m)。そのため、鞠智城からは菊鹿盆地を一望でき、遠くは雲仙島原の山々も
眺めることができます。
山鹿、菊池の両市にまたがる広大な菊鹿盆地は、古代から県内有数の穀倉地帯として知られて
います。また、古代には「車路」と呼ばれる道路(古代官道)か通っていたことが想定されて
います。今日でも多くの幹線道路か縦横に通っており、交通の要所となっています。
このようなことは、鞠智城がこの地につくられた大きな要因だったと考えられます。
鞠智城は、大宰府から直線距離て約62kmも離れています。そのため直接的な大宰府防衛の城
ではなく、後方支援基地であったと考えられています。また、古代山城で最も南に位置し、
南方を広く眺望できるという点から、南方の隼人への対策という役割があったことも
想定されています。」



「7. 鞠智城の範囲
鞠智城の範囲は、山鹿市菊鹿町米原の長者原地区を中に東西約1 .6km、南北約1 .3kmで、
外郭線の総延長約5.3km、総面積約120haの規模をもっています。そこは、中域である内城地区
(約55ha )と自然地形を取り込んた外縁地区(約65ha )に区分されます。さらに外側を包括する
ような地域も城の範囲とする「広域説」があります。
内城地区は、南を南側土塁線(図の土塁線②)で区切り、西は西側土塁線(図の土塁線①)て区切る、
周長約3.5kmのラインになります。鞠智城の遺構のほぼすべてが内城地区に集中しており、
現在はこのラインによって区画された範囲が、国の史跡に指定されています。
広域説の範囲は、池ノ尾門から大門、さらには頭合(ずごう)、木野、立徳(りゅうとく)と
北に延びる低山の尾根をつたい、金頭(きんがしら)の山々(標高211 .8m )をつたう馬蹄形を
呈するライン(図の外郭ライン①)をいいます。
広域説については、調査がまだ進んでいないため、今後確認していく必要があります。」



「Ⅱ鞠智城の調査成果
8. 鞠智城跡の遺構
鞠智城跡からは、国内の古代山城では唯一の検出例である八角形建物跡をはじめとする72棟の
建物跡、銅造菩薩立像や木簡をはじめとする様々な貴重な遺物が出土した貯水池跡、3カ所の
城門跡、土塁跡などの遺構が検出されました。
建物跡には、堀立柱建物、礎石建物があり、これらの建物は倉庫や官舎、兵舎などであったと
考えられています。
また、貯水池跡では、木材を蓄えるための貯木場や水汲み場などがみつかっています。
城門跡からは、門の礎石などが発見されました。
土塁には「版築」という技術が使用されており、朝鮮半島とのつながりが認められます。」



鞠智城周辺のジオラマ。
「青銅菩薩立像」の出土地点が示されていた。



「ジオラマ 製作 県立熊本工業高校」。



鞠智城の平面配置画。



倉庫群 板倉、兵舎が並ぶジオラマをズームして。



「9. 鞠智城の調査の歴史
・1967年(昭和42年)
   昭和40年代に始まった米原台地の水田化工事(農業構造改善事業)に
 伴う調査事業を開始。
・1981年(昭和56年)
 宮野礎石群の全面露出、※周溝より平安時代の須恵器、土師器、白凰期の鬼瓦が出土。
・1981年(平成3年)
 八角形建物跡を南北2箇所で検出
・1996年(平成8年)
 貯水遺構の存在が明らかとなる、
 貯水池跡で1号木簡「泰人忍□五斗」出土。
・1998年(平成10年)
 貯水場跡を検出
.2008年(平成20年)
 百済系の銅像菩薩立像を検出



「10. 鞠智城跡の変遷
鞠智城跡は、様々な検討から約300年間にもわたって存続したことがわかりました。
また、その存続期間の中で下表のように、大きく5期におよぶ変遷が把握されました。」



「11. 鞠智城Ⅰ期の特徴
鞠智城の創建期にあたります。堀切、深迫、池ノ尾の各城門や、南側・西側土塁線を含む城の
外郭線が急速に整備されていきます。それにあわせて、長者山東側の裾部と長者原地区中央部に、
掘立柱建物群が構築されます。また城の北側谷部に貯水池が造成されます。これらの年代は7世紀
第3 ~ 4四半期と考えられます。
城の施設が整備された段階てすが、掘立柱建物は多種多様で、総柱の建物が少なく小型の側柱建物
が多く認められます。このことから、外郭線を急速に整備する一方で、城内建物の整備はそこまで
進んていなかったと言えます。つまり白村江の戦い後、中央政権が百済高官の指導のもと対外的な
危機に備えて各地に古代山城を築城しますが、まずは城としての最低限の防御機能を備えることを
重要視していたことが考えられます。」



出土した鞠智城築城以前の須恵器や土師器。



「鞠智城筑前以前の集落
鞠智城一期よりも昔の、古墳時代後期から米原台地上には集落があつにことか確認されています。
ここに展示してある土器は、その集落などから出土したものです。
鞠智城築城直前まで、この集落が存続していたことが確認されています。集落に住んでいた
人たちも鞠智城の築城に何らかの形で関わっていたのかもしれません。」



「製塩土器について
「天草式製塩土器」と呼ばれる土器が見つかっています。
火がよく当たり、碗に入れた海水がよく煮詰まるように長い脚が付けられているのが特徴てす。
海水が煮詰まっ塩ができると脚の部分を打ち欠き、塩が付着したままの碗のみか消費地へ出荷
されます。
そのため、塩の生産地では脚部が大量に見つかり、消費地遺跡では碗部のみが見つかります。
製塩土器の存在から、鞠智城へも天草や宇土半島で生産された塩が持ち込まれたことが
判明しました。」



「天草式製塩土器関連遺構」の地図。



「12. 鞠智城跡出土の土器
鞠智城跡からは多くの土器が出土しています。それを詳しく検討していくと、長期間にわたって
土器が出土していることがわかります。鞠智城築城以前の土器が存在するのは、鞠智城が築城
される前に古墳時代の集落があったためです。
鞠智城が築城される7世紀の第3四半期には土器の量は若干増加し、城の修繕時期にあたる7世紀
第4四半期から8世紀第1四半期には土器の出土量が最も多くなります。
その反面、土器が全く出土しない時期もあるなど、
時期によって土器の様相は大きく異なっています。」



「鞠智城Ⅰ期の土器」。



「武器の手入れ
武器の手入れは兵士達にとって、とても大切な作業てした。なぜなら、戦場において武器の
良し悪しは、すぐ自分の命にかかわったからです。兵士達は、訓練や警備の合間に刀や、矛、
弓の手入れをしました。」



さらにパネルを追いかける。



「13. 貯水池跡
貯水池跡は、長者原地区の北側に位置する谷部から発見されました。その後の調査で、総面積は
5300m2となることが判明しました。
池遺構は国内の古代山城で初めての発見であったため、その重要性から数カ年にわたって調査が
実施されました。その結果、建築部材などを保管するために木材を水漬けした貯木場跡、水汲み場
として利用した木組遺構なと、当時の技術を知ることができる多くの遺構を検出しました。
また、「秦人忍ロ(米力)五斗」と墨書された荷札木簡や百済系の銅造菩薩立像などの極めて
重要な遺物のほか、大量の土器片などが発見されました。」



「14. 貯木場跡
貯木場跡は、貯水池の中につくられた、水に浸して木材などを保管した施設てす。貯木場跡は、
大きくA地区、B地区に分けられます。A地区では建物の柱に使うような大型の木材が保管されて
いました。B地区では蔓や細材が端を揃え、束ねた状態で保管されていました。このように、
場所ごとに保管する木材を仕分けしていにことがわかりました。
これらの木製品などを保存するためには、水に十分に浸す必要があります。そのため、瓦を重し
として木材や木製品の上に載せるなとの工夫がされていました。」



「15. 木製品について
木製品は、木簡、柄・横槌・鍬などの農耕具、建築材、杭、木錘、男性器形木製品などが
貯水池跡から出工しました。
木簡は熊本県内では初の発見であり、現在でも鞠智城跡出土例と葦北郡芦北町岡木崎遺跡出土
木簡の2例しかみつかっていない貴重な資料です。「泰人忍□(米力)五斗」と墨書されており
米を納める際に使われた荷札木簡と考えられます。
農工具はどれも粗い加工までなされたもので、最終的な加工を行えはすぐに使用できる
未成品でした。そのため、建物などの修繕の時に備え、計画的に貯木場に建築材などを貯木
すると同時に、建築材を加工するために必要な工具類も一緒に貯木したものと考えられます。
この他、男性器形木製品は貯水池の水枯れを防ぐことを目的とした祭祀など、水辺における
祭祀行為に使用された祭祀具であったと考えられます。」



「男性器形木製品 出土地点:貯水池跡」。



建物の柱に使うような大型の木材。



「16. 銅像菩薩立像の解説
貯水池跡池尻部から出土した銅造の菩薩立像です。ほぞを含む高さ12.7cm、幅3.0cmで、
横から見ると優雅なS字曲線を描いています。下部のほぞは、台座に差し込むためのもの
で、太く造り出しているのが特徴てす。
その表情は、丸みを帯び穏やかで、三面の宝冠、肩まで垂らした垂髪、両肩にかけられに
天衣などもよく表現されています。また、舎利容器と考えられる持物を、へその前で両手で
抱えるように持っています。
この仏像は、7世紀後半の百済仏の特徴を持っことから、百済で造られ日本に持ち込まれた
可能性が高いと考えられています。このような仏像は、百済でも相当身分の高い人のみが
持っことができたものてす。『日本書紀』には、古代山城の築城を百済の亡命貴族が指導した
という記事があります。この仏像は鞠智城へ築城の指導に来た、百済の亡命貴族が持って来た
ものかもしれません。」



頂いたパンフレットより。
平成20年10月23日.貯水池跡池尻部から出上した鋼造の菩薩立像(ぼさつりゅうぞう)です。
ほぞを含む高さ12.7 cm(像のみで9.79cm )幅3.0cmの小型仏で、横から見ると優雅なS字曲線を
描いています。下部のほぞは台座に差し込むためのもので太く造り出しているのが特徴です。
仏像は、丸みを帯びた穏やかな表情で、頭部に付けられた三面の頭飾、肩まで垂らした垂髪
(すいはつ)、両肩にかけられた天衣(てんね)なとがよく表現されています。また、持物(じもつ)を
へその前で両手で抱えるように持っています.
この菩薩像は、7世紀後半に朝鮮半島の百済で造られたと考えられており、『日本本書紀』の記述
にもあるように、百済の亡命貴族の指導で築かれたと考えられる「鞠智城」の歴史的背景を物語る
貴重な資料です。



「青銅菩薩立像」H= 10. 5cm
大韓民国 忠清南道 禮山郡 大興面 校村里
※下部に台座に差し込むためのほぞが付く。



「17. 銅像菩薩立像の出土状況
銅造菩薩立像は、貯水池跡の最も北側に位置する池尻部から出土しました。池尻部は、池の水を
排水する水門や水路なとが整えられていたところて、池の機能を維持するうえで、非常に重要な
地点です。
この池尻部の最も下に位置する土の中から、銅像菩薩立像は出土しました。仏像は、頭を西に
向けた、仰向けの状態て検出されました。なお、この部分の土は他の部分よりも硬く締まって
いたため、意図的に埋められていた可能性もあります。
池は城内の生活や城を維持する上で非常に重要な施設てす。そのため、池で最も重要な地点である
池尻部に、貴重な仏像を埋納し、池が壊れないようにお祈りしたのかもしれません。」



「18.鞠智城Ⅱ期の特徴(7世紀末~ 8世紀第1四半期前半)
鞠智城の隆盛期てす。「コ」の字に配置した掘立柱建物群や八角形建物が出現します。
また長者山に掘立柱建物の倉庫が築造されるなど、I期に比べて城内施設の充実が図られて
います。この城内施設の拡充は、『続日本紀』698年にみられる鞠智城の「繕治(ぜんち)」に
よるものと考えられます。建物を「コ」の字形に配置するのは、当時の役所に認められます。
このことから、鞠智城Ⅱ期になると城としての機能たけでなく、役所的な機能も備えたという
ことができます。その背景には、城の近くを古代官道(車路)が通ること等の鞠智城の立地条件も
大きく反映していたのでしょう。
貯水池における貯木場の建設部材は、このⅡ期段階に貯木されたものが多いと思われます。また、
Ⅱ期の土器の出土量が最も多いことから、鞠智城に多くの人員が配置され、施設の充実や、拡大
した機能を維持する任務に携わっていたと考えられます。」



「百済系菩薩立像(くだらけいぼさつりゅうぞう レプリカ)
出土日:平成20年IO月23日
出土地点:国指定史齣智城跡
     貯水池跡・池尻部
法量:全高12.7cm (像高9. 7cm)、幅3. 0cm
製作年代.:7世紀後半

百済系菩薩立像(くだらけいぼさつりゅうぞう 復元)
指導:大西修也氏(九州大学名誉教授)
主な復元箇所
・肘の内側を通り足下まで垂れる天衣(てんね)及び
 裳(も)の襞(ひだ)。
・胸元に 捧持する台付の円筒形舎利容器。
・黄土色の皮膜に覆われている瓔珞(ようらく)。
・鍍金。」



「19. 鞠智城Ⅱ期の遺物
鞠智城Ⅱ期は、他の時期に比べ圧倒的に多くの日用品として使われた土器が存在します。
その大半が須恵器で、土師器がほとんど出土しないという特徴があります。
土師器の出土は若干数ですが、ヘラミガキ調整や暗文など畿内の土師器の特徴をもっことから、
畿内からもたらされたり、畿内の土師器を真似してつくったことが想定できます。
須恵器は、福岡県大野城市一帯の牛頸窯跡群のものや、熊本県宇城市周辺の宇城窯跡群のものが
認められますし、その他にも様々な生産地の須恵器が出土しています。古代山城は、
当時の国家プロジェクトとして築城されたものですので、土器など必要なものは様々な生産地から
集められて、城に供給されていたのでしよう。また、土器の多さから、この時期に最も多くの
人々が鞠智城に駐留していたと考えられます。」



八角形建物前を通る役人(想定)。

須恵器
・4世紀末頃、朝鮮半島から技術(ロクロ、窯)が伝わる
・登窯で焼く(1100度以上の高温)
・色は、灰色っぽい
・非常に硬い
・水が浸透しにくい→貯蔵具(水瓶等)にもってこい
・火にやや弱い(割れる)→煮沸具(鍋や甑(こしき))にはやや不向き


土師器
・弥生土器から続く伝統的な土器製作技術
・野焼き(800 ~ 900度の低温)
・色は、赤っぽい
・須恵器に比べるとやや軟質
・水が浸透しやすい→貯蔵具(水瓶等)にはやや不向き
・火に弱い→煮沸具(鍋や甑)にもってこい



各種の土師器。



「20. 鞠智城Ⅲ期の特徴(8世紀第1四半期後半~第3四半期)
鞠智城の転換期です。Ⅱ期に築造された掘立柱建物の一部が、小型礎石を使用した礎石建物に
建て替えられます、この段階で初めて、鞠智城に礎石建物が出現します。礎石建物への構造的な
変化は、建物の耐用年数を長くするためで、長期にわたる城の存続を意図していたことが
うかがえます。しかし、鞠智城ではⅢ期に該当する土器はほとんど出土しません。
これは、城に多くの人員を常駐させず、維時・管理に必要な最低限の人員のみを配置して
いたためと考えられます。
貯水池跡出土の木簡はこのⅢ期のものです。この木簡と同じ形状の木簡は、大宰府が管轄した
西海道の範囲や、平城宮で出土する西海道関連の木簡に認められます。
このようなことから、鞠智城はこの時期も太宰府の管轄のもとに維持管理がなされていたと
いえます。なお、「コ」の字の建物配置はⅢ期にも存続していることから、役所的な機能は
継続していたといえます。」



「21. 鞠智城Ⅳ期の特徴(8世紀第4四半期後半~9世紀第3四半期)」
鞠智城の変革期てす。小型礎石の礎石建物から大型礎石を使用した礎石建物へ建て替えが行われて
おり、礎石建物の大型化が図られています。一方、「コ」の字配置の建物群はなくなり、倉庫が
多く認められる建物構成へと変化が生じます。
また、礎石建物の礎石の多くに火災の痕跡が認められることから、『文徳実録』天安2 (858)年の
条に記載のある不動倉11棟の焼失記事との関連を指摘できます。
貯水池ても、貯木場を含む池中央部の維持管理作業(泥さらいなど)が行われなくなります。また、
Ⅳ期の終わりには池ノ尾門の石塁の崩壊も生じています。
なお、Ⅳ期の土器は須恵器が一部に認められるものの、そのほとんとが土師器となり、在地の
ものが主体となります。
これらのことから、Ⅳ期は鞠智城の機能が大きく変化する時期といえます。特に、食糧等の貯蔵
施設としての役割が大きくなっています。太宰府との関連も認められず、在地との関係が強く
なっているように思われます。」



「22. 鞠智城Ⅴ期の特徴(9世紀第4四半期後半~10世紀第3四半期)
鞠智域の終末期です。Ⅳ期に起こった火災による礎も建物の焼失などで、城の機能が著しく
低下しています。しかし、新たに大型の礎石建物などが建てられ、また貯水池の北側半分も
これまでどおり機能していることから、域は存続していたものと考えられます。この時期に新たに
建てられた建物は、倉庫と考えられます。礎石建物の倉庫が焼失した後に、大型の礎石建物の
倉庫を建て直していることから、この時期の鞠智域は倉庫群が建ち並んだ貯蔵施設としての機能が
その役割の中心であったと考えられます。
『日本三代実録』には、879年「肥後国菊池郡城院の兵庫の戸がおのずから鳴る」との記事が
あります。この記事中の「院」は古代の役所などに付随する大きな建物のことてす。この菊池郡
城院の「院」は、V期の大型礎石建物のことと考えることができるのではないでしようか。
この時期を最後に、鞠智城は廃城します。その時期は貯水池が機能を停止する10世紀の第3四半期と
考えられます。」



「炭化米
米倉の周辺を発調査した時に、大量の焼けたお米が見つかりました。天安2(858)年に鞠智城の
米倉11棟が焼失したという記事が『文徳実録』という歴史書に残っています。炭化米は米倉が
焼失した時に一緒に焼け、堆積し、現在まで残っていたものと考えられます。」



発掘された土師器、須恵器。



「鍛冶関連遺物について
貯水池跡からは、鞴の羽ロや鉄滓が出土しています。鞴は金属の熱処理や製錬に用いる送風器で、
鉄滓は製錬や鍛冶の作業を行う過程で残った不要物です。これらの存在から、鞠智城内でも
鉄生産に関係する作業を行っていたはずてす。
鞠智城跡の東側隣接地点の菊池市稗方には、剛健で、折れず、曲らない刀として知られている
「同田貫」の発祥地である「同田貫屋敷跡」があります。この屋敷跡で砂鉄を原料とした刀を
製作していました。「同田貫」は南北朝期に、菊池氏が山城国(京都)から招いた延寿の分派と
考えられています。「同田貫」の名を世に知らしめたのは、明治1 9年に天皇が御覧になられた
試し切りで、兜に斬りこみを入れたことてす。
鞠智城でも隣接地である菊池市稗方で生産された鉄を原料として持ち込み、鍛冶を行ったと
考えられます。そうであれば、古代での鉄生産の実績があった鞠智城周辺に、「同田貫」発祥の
ルーツがあると言えます。」



漆が付着した土器や砥石、鞴(ふいご)羽口、鉄滓。



「23. 瓦について
鞠智城跡からは、軒丸瓦、丸瓦、平瓦が出土しています。その数は、大・小の瓦片を含めて
約1万900点にのほり、その中でも平瓦が約7800点と70 %以上を占めます。軒丸瓦については、
総数18点を数えます。
これら瓦の大半は、建物遺構が多く所在する長者原・上原地区から出土したことから建物に瓦が
葺かれていたと考えられます。また、貯水池跡や、堀切門跡、池ノ尾門跡などから
も出土が認められます。
軒丸瓦には、単弁ハ葉蓮華文と呼ばれる文様が施されています。これは、朝鮮半島の瓦の影響を
受けたものといわれます。
平瓦は、粘土板桶巻き作りという製作技法によりつくられたものがほとんどです。表面に残る
タタキの痕跡及び調整技法から、いくつかのグループに分類することが出来ます。
鞠智城跡の瓦の年代ですが、ほとんどのものは7世紀第3四半期から8世紀第1四半期のものと
考えられます。」



                              ・・・​もどる​・・・



                  ・・・​つづく​・・・





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Last updated  2021.12.14 10:24:59
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