|
カテゴリ:JINさんの農園
加賀山代温泉 みどりの宿 萬松閣 この日は2023年12月1日(金)、都内五反田駅近くで18時から開かれた久しぶりの元同僚との 飲み会に参加。 テレビでは神宮外苑のいちょう並木は真っ黄色に色づいている、とのことで、朝早くから 自宅を出て向かったのであった。 小田急線、千代田線、半蔵門線を利用して「青山1丁目」駅で下車。 「青山1丁目」交差点に出る。 国道246号・青山通りの「青山1丁目」交差点を渡る。 正面にあったのが、「赤坂警察署青山一丁目交番」。 交番の横に「青山1丁目周辺案内図」。 現在地はここ!! 最初の目的地の「外苑いちょう並木」まで240m と。 近づいて。 この先、右側に「外苑いちょう並木」。 「青山通り」の反対側のビル・「POLA青山ビル」の壁には大きな形状の物体が飛び出していた。 「ポーラ・オルビスグループの不動産会社である株式会社ピーオーリアルエステートは、2024年 2月下旬竣工予定の「ポーラ青山ビルディング」敷地内に新進気鋭の現代美術作家SHIMURAbrosの アート作品を設置する運びとなりました。今の時代でこそ表現しうる現代アートをパブリックに 展示することで、アート・人々・地域を繋ぐ新たな文化拠点を目指します。」 とネットから。 「時空を超えて豊かに広がる樹葉をイメージした高さ約8m、横幅4mに及ぶ作品を、 青山通り側の外壁から大きく張り出すように設置し、その関連作品2点を公開空地に展開します。 ポーラ青山ビルディングでは、他にもアーティストによる作品の設置やイベントの企画を予定 しており、今後も情報を発信して参ります。」 とも。 芸術センスのない私には、大好きな缶ビールのプルトップの如く見えたのであったが・・・。 そして前方に「外苑いちょう並木」が始まる「青山2丁目」交差点が見えて来た。 前方右に黄色く色づいた「外苑いちょう並木」の姿が現れた。 「国道246号・青山通り」。 東京都が通称道路名として定めている青山通りは、千代田区永田町の内堀通りの三宅坂交差点から 渋谷区渋谷の明治通りの渋谷駅東口交差点に至る延長5kmの往復6~8車線の道路で、道路法上は 全線が国道246号になっています。青山通りの先は玉川通りになります。 青山通りの都心側には最高裁判所のほか自民党本部などの政治関連の建物が多く、次いで 衆参両院議長公邸や赤坂御用地があり、渋谷側は表参道や渋谷などの流行に敏感な地域を 通ります。青山通りの下にメトロ半蔵門線と銀座線が通っています と。 「青山2丁目」交差点。 そして「外苑いちょう並木」 。 まずは「青山2丁目」交差点の横断歩道を渡りながら「外苑いちょう並木」その先に 「聖徳記念絵画館」を見る。 ようやく青空も姿を現して来た。 いちょうの黄葉は今が盛り!! 再び横断歩道を引き返すと、左側に案内板と大きな石碑があった。 大きな石碑には「明治神宮外苑之記」と。 昭和54年4月いちょう並木東の植樹帯より青山口現在地に移設されたものと。 「明治神宮外苑之記 明治神宮奉賛會總裁元帥陸軍大将大勲位功二級載仁親王篆額 明治四十五年七月明治天皇遽に不予にましまし、尋で大漸に渡らせらるヽや、上下憂懼措く所を 知らず、二重橋外日夜を連ね市民の沙上に拝跪して御平癒を祈る者万を以て数ふ、其の三十日 遂に崩御あらせらるヽに及び、億兆悲慟天地為に黯澹たり、八月の初め東京市民は葵藿向日の 至誠を披瀝し、山陵の地を帝都に卜せられんことを内願す、其の桃山に決定せらるヽに及び、 更に神宮の奉祀を懇請し、帝国議会も亦其の議を決せり、是に於て政府は神社奉祀調査会を置き、 委員を挙げて審議せしめ、神宮鎮座の地を郊外代々木に相せり、大正三年四月昭憲皇太后崩御 あらせらるヽに及び、合祀の事を治定あらせられ、明治神宮造営局を置き社殿を営ませ給ふ、 然れども国民孺慕の心は之を以て足れりとせず、明治神宮奉賛会を興し、神宮外苑を設け、 以て記念の事業を永遠に遺さんとす、事 天聴に達し畏くも御内帑金三十万円を賜ふ、天下翕然 として貲を献じ、遠く海外に在る者亦争ひて之を賛く、是に於て衆議旧青山練兵場を以て外苑の 地に擬定す、蓋し此の地は大帝屡観兵の式を行はせられ、彼の憲法発布の慶典及び日露戦役の 凱旋に当りて其の儀特に厳粛を極めさせられたる遺躅を留め、且つ大葬に際しては亦実に葬場殿を 置き給ひし所なるを以てなり、奉賛会は先つ政府より此の地の提供を受け、進みて隣接の地を 購ひ合せて十五万五千坪を得たり、乃ち工事を造営局に託して、地域を修治し、林泉を布置し、 葬場殿の故址は樹を植ゑて之を標す、其の前方に聖徳記念絵画館を建て、大帝並に皇太后御一代の 重要なる御事蹟に関する画幀八十を館中に掲ぐ、多くは御事蹟に縁故ある縉紳若くは公私団体等の 献納に係り、当代名家の手に成れるものなり、苑の東辺に憲法記念館を置く、館は原と赤坂仮皇居 に在り、大帝親臨して帝国憲法及び皇室典範制定の議を重ね給ひし所にして、公爵伊藤博文に 賜ひしものなり、苑の西辺に競技場・野球場・相撲場等を設く、起工以来十閲年、其の間総裁 伏見宮貞愛親王殿下薨去あらせられ、閑院宮載仁親王殿下後を承けて此の事業を完くし給へり、 而して国民上下洪恩の万一に報い奉らんとし、至情の溢るヽ所或は労役に服し、或は貲財を献じ、 但後れんことを是れ懼れ、人をして遠く仁徳天皇の古を想見せしむるものあり、嗚呼大帝の 盛徳大業は誰か仰ぎ奉らざらん、皇太后の淑範懿行は誰か慕ひ奉らざらん、今此の苑の設け一に 仰慕の微意を寓せり、若し夫れ今後来りて神宮を拝するもの、内苑の崇高森厳なるには俯仰の間 粛然として威霊の尊きを感じ、外苑の曠遠開豁なるには優游の中穆然として恩徳の深きを思ふもの あらん、内外両苑相須ちて神域の規模是れ備はり、神人相和して国運愈隆昌なるを致すに至らん、 玆に外苑工事全く唆り、之を神宮に奉献するに当り、事の顛末を略叙して後人に告ぐと云爾 大正十五年十月 明治神宮奉賛会会長正二位勲一等公爵 徳川家達撰」 そして隣に「明治神宮外苑の記」案内板。 「明治神宮外苑の記 石碑の題字 「明治神宮外苑之記」 明治神宮奉会 総裁 閑院宮載仁親王殿下の篆書(てんしょ) 撰文 明治神宮奉賢会 会長 徳川家達 石材 東北仙台産の板岩 高・地表四メートル 幅・一、八メートル 厚・〇、三六メートル 碑文の大意 明治四十五年(一九一ニ)七月三十日に、明治天皇(第一ニニ代の天皇・今の天皇の高祖父)、 大正三年(一九一四)四月十一日には、昭憲皇太后(明治天皇の皇后)がお亡くなりになりました。 これを伝え聞いた国民の間から、御二方の御神霊をお祀りして、御遺徳を永遠に追慕し、敬仰申し 上げたいという機運が高まり、その真心が実って、大正九年(一九二〇)十一月一日、代々木の地に、 明治神宮の御創建となったのであります。 明治の時代は、日本の歴史を通じて、政治・経済・文化・スポーツ等の各方面において、驚くべき 躍進を遂け、近代国家としての基盤が確立されましたが、その原動力となられた天皇の偉大な 御事蹟と御聖徳の数々を、永くに伝えたいものと、明治神宮外苑の造営が進められることになり ました。 これがため、明治神宮奉賛会が設けられ、天皇が御在世中、しはしば陸軍観兵式を行わせられ、 又、御葬儀がとり行われた旧青山練兵場の現在地に、皇室の御下賜金をはしめとして、ひろく 全国民の献金と、真心のこもった労働奉仕により、十余年の年月をかけて、大正十五年(一九ニ六) 十月に、明治神宮外苑は完成しました。 苑内には、天皇・皇后御ニ方の御一代の御事蹟を、有名画家が描いた八十枚の大壁画ガ揚げられて いる白亜の殿堂、聖徳記念絵画館を中心に、野球場、競技場その他の多くの優れた運動施設が 設けられ、御仁徳をお偲びしつつ、青少年の心身鍛練の場として、或は遊歩を楽しむ人々の憩いの 苑として、崇高森厳の気漲る(みなぎる)内苑と相俟(ま)って造成されたもので、永く後世に 残されるものであります。 外苑造成工事全く成り、奉質会より明治神宮に奉献するに当り、事情の概要を記し、後の世の 人々に伝えるものであります。 大正十五年十月 明治神宮奉質会 会長 徳川家達」 「外苑いちょう並木」を車が少ない時に。 手前には、カラーコーン(パイロン)が並んでいた。 なお、カラーコーンという名称は、セフテック株式会社の登録商標であるとのこと。 カラーコーンとは、道路や工事現場などに設置される円錐形(cone)の保安用品です。 英語では、トラフィックコーン(traffic cone)と言う。 パイロン、セーフティコーン、安全コーン、ラバーコーン、三角コーンなど、メーカーや業界に よってさまざまな呼称があるのだ。 道路の反対側をズームして。 ここにも長文の案内板が。 「銀杏並木 いちょう(銀杏・公孫樹) 銀杏は、現存する最も古い前世界の植物の一つです。地質学上中生ジュラ紀(一億五千万年前、 巨大な恐竜が棲息していた時代)に地球上にひろく分布し、生育していた樹種です。従って、その 化石の発見は極地より南北両半球、中国・日本にまで及んでおります。氷河期の到来により、 多くの地方では、銀杏樹は絶滅しましたが、温暖な気候を保ち得た中国では死滅を免れ、生育を 続けて現在に至っております。 日本の銀杏は、この中国より渡来した樹種で、現在では街路樹・防火樹・庭木としてひろく 植えられてあり、「東京都の木」ともなっております。現在では東南アジア以外ではほとんど 植えられておりません。 並木の総本数は一四六本(雄木四四本・雌木一〇ニ本) 四並列の銀杏の大木が作り出した、世界に誇り得る銀杏並木の景観。これを通し、正面に白亜の 絵画館を望む人工自然美の素晴らしさ。若葉・青葉・黄葉・裸木と四季折々の美しさ。長年に わたる管理、手入れの良さが見事な樹形を作り出しております。この、明治神宮外苑は大正十五年 (一九ニ六)十月ニ十に日の創建でありますが、その苑地造成に当たり、青山通り正面からの直線 主要道路は、左右歩道の両側に植樹帯を取り、銀杏樹をもって四条の並木を造成することに なりました。 これは、銀杏樹が、樹姿端正・樹高よろしく・緑量も豊富・気品高く・公害にも強く、威厳を保ち つつ年間を通しての来苑者に好景観を呈示し、外苑の広幅員街路の並木として最適なものとの 考えによるものです。 この外苑の銀杏樹か、この世に実生えたのは、造園界の泰斗・折下吉延博士(外苑造成時の庭園 主任技師・昭和四十一年ハ十六歳で没)が、新宿御苑に奉職中の明治四十一年(一九〇ハ)新宿御苑 在来木の、銀杏樹から銀杏を採集し、これを種子として代々木の宮内省南豊島御料地内(現在の 明治神宮内苑)の苗圃に蒔いたことによります。その後、苗圃の木々はすくすくと成長し、その数 一六〇〇本にもなりました。 外苑造苑に当たり、この銀杏樹を採用することとなり、既に樹高六メートル内外に成長していた、 これら多数の中より候補樹を選抜し、更に並木として適格になるよう、年々樹形を整えてきた ものを、大正十ニ年(一九一三)に植栽したものです。 直路四条の並木と、途中西折して女子学習院正門(現秩父宮ラグビー場)に至るニ条の並木も同時に 植えられております。最高ニ十四メートル・目通り周りニメートル八十センチ、最低十七メートル 目通り周り一メートル八十センチのものを、樹高順に青山口より降り勾配に従って植えられて おります。絵画館を眺む見事な遠近法の活用です。 この銀杏が、苗圃で実生えてより実に八十有余年、外苑に植栽されてより早や七十年、このように 雄大に・見事な樹形を保ちつつ成長しております。銀杏樹は植生の環境、手入れが適当であれば、 その成長量がいかに偉大であるかを、如実に物語っております。 樹木の運命は、その立地の適不適によって決められるものでしようが、よき所で、よく育てられ、 よき場所に植えられた樹木ほど幸運なものはないでしよう。同じ時期に、同し苗圃で育てられて きた、これら多くの兄弟木は、世にも希なる幸福な樹木と言えましよう。今後幾百年、これら 兄弟木の銀杏は生長に生長を続けて老大成し、その偉大なる勇姿を発揮し、外苑々地と融和し、 我々に見事な人工自然美を楽しませてくれることでしょう。 平成御大礼の日 之を建つ 平成二年十一月十一日 明治神宮外苑」 まだやや時間が早かったので、思いの外観光客の姿は少なかった。 「早起きは三文の徳(得)」とはこのこと!! 「4列のいちょう並木を、守ります」。 スマホでQRコードを読み込んでみてください。 多くの鳩が!何を食べているのであったか? 「明治神宮外苑案内図」。 そして右2列の「外苑いちょう並木」の下をゆっくりと歩いて進む。 しばらくは、外苑銀杏の絶景をしばしお楽しみ下さい。 等身大の人形を被写体にして、大きなカメラで撮影しているオジサンがいました。 私も1枚ズームで撮らせていただきました。 このお顔もモザイク加工が必要なのでしょうか? こちらが旧女子学習院正門(現秩父宮ラグビー場)に至るニ条の並木。 朝の陽光を浴びて黄金に輝く銀杏の葉をズームして。 先端に葉の無い樹も。 私の頭と同じ!! 黄金のトンネルを更に進む。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2024.01.14 00:00:25
コメント(0) | コメントを書く
[JINさんの農園] カテゴリの最新記事
|