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カテゴリ:JINさんの農園
横断歩道を渡りながら、次に訪ねた「清雲寺入口」案内柱を見る。
横須賀市大矢部5丁目7~8の境の住宅街の狭い道を進む。 バス通りから坂道を登って行くように向かった。グルッとした形状が昔からある旧道っぽい 雰囲気。『横須賀こども風土記』(以下風土記)にこの辺りを「クリヤマ」と云うと。 「クリヤマのクリとは住職やその家族の居間を意味する庫裏のことでしょう」とあったので、 現在の清雲寺は往時の庫裏部分に建てられているようであった。 「横須賀風物百選 清雲寺滝見観音像」と。 横須賀市が市制施行70周年(1977年)を記念して「横須賀風物百選」を制定したと。 「国指定重要文化財 木像観音菩薩像」案内板。 下部には「清雲禅寺」と。 近づいて。 「国指定重要文化財 木像観音菩薩像 一躯(く) 神奈川県横須賀市大矢部五ー九ーニ〇 清雲寺 本体像高 六一・八センチメートル 平歳一〇年(一九九八年)六月三〇日指定 この観音菩薩坐像は、その形状形態から南宋時代に中国の江南地方で製作されたものと 考えられます。材質は中国産の桜材とみられ、体部は像内に空間ができるように正面材と背面材を 貼り合わせ、底板(亡失)をはめる箱組式の構造です。頭部は一材であり、瞳はガラス様の玉が 裏からはめられています。地髮、肩上の垂髮および胸飾は練物が貼り付けられています。 表面はかつて、漆塗りで全身が淡紅色の地色で被われ、衣部は顔料や金により文様が施されて いたと思われますが、現在ではほとんど剥落しています。 この像は右ひざを立て左ひざを垂下させたくつろいだ姿勢、面長で鼻梁が細い顔だちなど、 妖婉さを漂わせる印象があります。このような像は中国では、五代頃より盛んに作られました。 それらは景物や付属品等により水月観音、楊柳観音等と呼ばれます。この像も、滝見観音と 呼ばれ親しまれています。また、その作風の特色や技法などが京都泉涌寺の観音菩薩坐像 (楊貴妃観音)と同一であり、両者の関係が彫刻上の興味に留まらず歴吏的な関孫が想像されます。 この像がこの地にもたらされたのは、その製作年代から三浦氏が領主であった時代で、三浦氏が 減亡した宝治元年(一ニ四七年)以前と考えられます。一三世紀後半から鎌倉を中心とする周辺で 製作された像に、宋彫刻の影響が見られるのは、この像がもたらされた時代背景によるものと 思われます。 この観音菩薩坐像は、東国に宋文化を伝え芽生えさせたことを語る代表的作例の一つです (南宋時代 一一ニ七~一ニ七九年) 平歳一一年(一九九九年)一〇月 横須賀市教育委員会」 「三界萬霊(さんがいばんれい)」の慰霊碑(左)と「唐佛瀧見観世音菩薩」碑(右)。 山門に向かって進む。 「清雲寺」案内図。 ズームして。 掲示板には 「よわねをはくな くよくよするな なきごとをいうな うしろをむくな 坂村真民「七宇のうた」より」 「木像 毘沙門天立像 所在地 横須賀市大矢部五丁目九番ニ十号 所有者 宗教法人清雲寺 指定年月 昭和三五年(一九六〇年)五月十七日 この毘沙門天像は、もと当寺の本尊仏であり、寺伝によれば、建保の乱(建保元年、 通称和田合戦)の折、和田義盛の為に敵の矢を受けとめたと言われ、矢請の毘沙門天と 呼ばれている。 像高七〇・七cmの寄木造りで、彩色玉眼入り。邪鬼の上に立ち、腰をやや左に張ってひねり、 右手に宝桙、左手に五輪塔を捧げる通形の立像である。兜を別に作り頭上にかぶせ、鎧の 止め金の銅板細工で戴金模様が伺われる鎌倉中期以前の優作の一体である。 鬼底部及び台座の墨書銘から補修されたことがわかる。 〔鬼底部銘〕 相 大矢部村大富山清雲前住 可心 再興 貞享二ニ年(貞享四年=一六八七年のこと)卯九月吉日 〔台座銘〕 相 鎌倉扇之谷村ニ而 仏師 後藤左近重房 (花押) 貞享四卯ノ年八月出来為後年之書置者也 平成ニ十一年(二〇〇九年)三月十五日 横須賀市教育委員会」 「木像 毘沙門天立像」。 「木像観音菩薩坐像 現在、滝見観音と呼称されている像で、中国南宋で造られ、入宋僧や日宋貿易を担った商人らに よって日本に伝わり、三浦の地には13世紀頃にもたらされたと考えられる。江戸時代には末寺 円通寺(廃絶)の本尊として祀られていたが、清雲寺に移されて現在に至る。首をかしげ、面長で ロ角をやや上げ微笑する表情は、生身の人間のような印象を受ける。瞳にはガラス玉を嵌める点が 珍しい。 岩座に坐り左足をのばし右足を立て、左手を岩座に置き、右膝に手を添える特徴的な姿は 遊戯坐(ゆげざ)とも呼ばれ、日本の仏像とは異なる異国風の雰囲気がある。」 「木像観音菩薩坐像」。 「山門」を潜る。 切妻造銅板葺で小さな袖塀を設けた山門は四脚門。 山門を通して眺めた緑に包まれた境内が。 正面に本堂。 山門脇の覆屋に鎮座する「六地蔵尊像」。赤い帽子と刺繍が施された涎掛けがいい。 「六地蔵尊像」の周囲には多くの卒塔婆が奉納されていた。 「三浦為継の逸話 二代目為継は後三年合戦で、源義家の陣営に加わって戦った。その際、16歳の鎌倉権五郎景正 (鎌倉の権五郎社の祭神となった人物)が敵矢を右目に受けたが、矢を抜くこともなくその敵を 射殺。帰陣して仰向けに倒れ込んだ影正を見た為継は、急き駆けつけ、矢を引き抜くため沓を 履いたまま彼の顔を踏みつけて矢を引っ張った。これに景正は激怒。「弓を射られて死ぬのは 望むところだが、なぜ生きながらにして顔を踏まれなければならないのだ!」と怒鳴りつけたのだ。 為継も、非礼を詫びて膝をかがめ彼の顔を抑えて矢を引き抜いた。」 本堂前、右側の石仏群。 近づいて。 微笑む石仏、舟形光背の地蔵尊像、右手に錫杖、左手に赤子を抱く。 子安地蔵尊像? 大きな頭部の錫杖を持つ地蔵尊像も。 正面に本堂を見る。 平安時代後期の長治元年(1104)、三代衣笠城主の三浦義継(三浦氏三代目)が父為継(二代目)の 供養のために天台宗として創建した。 桓武天皇の末裔である三浦氏の祖は武将・三浦為通で、康平六年(1063)、平安後期の武将で 東国における源氏勢力の基盤をつくった源義家より三浦の地を賜り、三浦を名乗って衣笠城を 築いた。清雲寺には、頼朝挙兵に尽力した三浦義明以前の三浦氏三代にわたる当主が 埋葬されている。 創建時の本尊は毘沙門天立像だったが、三浦為継が建立した円通寺(廃寺)の本尊だった 瀧見観音菩薩像が、昭和初期頃に復興された清雲寺に移されて本尊に。 瀧見観音菩薩像は中国からの渡来仏、膝を立てた珍しい坐相で、南宋時代(1127~1279)の 造立とされる。国の重要文化財に指定されている と。 本尊の両脇には、鎌倉時代前期に運慶・快慶率いる慶派により建像された「毘沙門天立像」 (県指定重要文化財)と、室町時代の「地蔵菩薩像」(市指定重要文化財)も安置されており、 それぞれの時代の仏様が清雲寺に眠る数多くの御霊をお守りしているとのこと。 扁額「圓通閣」。 屋根には三浦氏の家紋「丸に三つ引紋」が。 「三浦一族 ゆかりの地を巡る」案内板。 「家の継承 ~先祖を祀るのはなぜか 家を「継ぎ・伝え・興す」、これが中世の日本の人々の考え方の一つである。当時、末法思想と 呼ばれる終未思想が流行したが、人々は自分の代で終わるとは考えていなかった。その彼らが 最後に求めたものは極楽浄土への往生である。その管理をするのが、菩提寺だった。菩提寺は 家の財産として、代々家長から家長へと継がれていく「渡り領」に含まれた。また、家族を 持たながった女性、家族を失った女性を保護するのも菩提寺の役目であった。極楽への往生を 願う人々は菩提寺を大切に守った。時には兄弟の中から出家し、僧侶となり家族を供養する ことも求められた。」 境内に佇む舟形光背の千手観音菩薩像と石祠。 頭上に11面をいただく千手観音菩薩像。 「横須賀市指定史跡 伝三浦為継とその一党の廟所 昭和四十八年(一九七三年)一月十日指定 清雲寺の本堂裏には、もともと三浦氏ニ代為継の墓と伝える五輪塔があったが、昭和十四年 (一九三九年)に円通寺(廃寺=大矢部ニ丁目)裏山のやぐら群から初代為通、三代義継の墓と伝える 五輪塔を移転し、以来、三浦氏三代の墓として祀っている。中央が為継、左右いずれかが 為通、義継の五輪塔である。 為通は関東平氏の流れをくみ、康平六年(一〇六三年)に源義家より三浦の地を賜り、衣笠城を 築いた武将である。 なお、「石造板碑文永八年在銘」および三浦九十三駒墓と伝えられる石塔群も同時に移された。 横須賀市指定重要文化財 石造板碑 文永八年在銘 平成ニ十四年(二〇一二年)二月二十七日指定 板碑とは石製塔婆のことで、この板碑は、もとは円通寺裏山、三浦氏の墳墓と伝えられる やぐら群の最上部のやぐらの傍らにあった。現在は右記の廟所の手前、切石を積んだ石室に 納められている。 埼玉県秩父産緑泥片岩製の武蔵型板碑で、現存地上高一三六・五cmを測る。 主尊の梵字は阿弥陀種子キリークで、中央に「文永八年五月十四日左衛門小尉平盛信」、その下に 次の願文を五行で刻んでいる。 「右志者先考\聖霊當十三\年遠忌為成\佛得道造立/供養如件敬白」 平(佐原)盛信が、亡き父(佐原光盛)の霊の十三回忌にあたり、成広し仏道の悟りを開くように 板碑を造立し供養したことを記す。 平成ニ十四年十ニ月 横須賀市教育委員会」 本堂の脇を通って伝三浦為継とその一党の廟所に向かう。 本堂右手に立ち、笠と中台に三浦氏の家紋が彫られた7基の石燈籠。 「鎌倉殿の13人 三浦一族ゆかりの地 横須賀市」と書かれた幟。 本堂裏の三浦氏三代の墓の五輪塔。 近づいて。 中央が初代為通、両側が二代為継と三代義継とのこと。 三基の五輪塔の左右には、不揃いの五輪塔が並ぶが、三浦氏に従った三浦九十三騎の墓と 伝えられ、文永八年銘の板碑も残されている。 これらも円通寺から移されたものである。 文永八年銘の板碑。 ズームしたが・・。 「祖~三代目の墓 清雲寺の三浦一族の廟所には、三浦氏初代為通、二代為継、三代義継の墓とされる中世に遡る 五輪塔が安置される。かつては、開祖である二代為継のものとされる中央の一回り大きな五輪塔 のみだったが、1939年に近在の三浦一族の墓所であった圓通寺のやぐら群から、初代為通と 三代義継の五輪塔とされるものが移され、三代三基が並び建つこととなった。ただし左右の どちらが、初代為通、三代義継かは判然としない。また、圓通寺跡のやぐら群からは、この 他にも三浦九十三騎と伝えられる多数の五輪塔が移され、三代の五輪塔を取り囲むように 左右に安置される。五輪塔は本来仏舎利塔であったが、中世には墓塔として広まった。」 そして引き返して再び三浦氏の家紋の入った石灯籠7基を見る。 境内に佇む舟形光背の千手観音菩薩像と石祠も再び。 本堂に向かって左側に建つ庫裡を見る。 「東国花の寺 百ヶ寺 秋の七草 第一番 女郎花(おみなえし)の寺 清雲寺」と。 東国花の寺は、関東1都6県の「花の寺」と称される寺院が集まり、平成13年3月に発会したと。 再び赤い帽子とよだれかけの六地蔵尊を。 山門前から本堂を振り返る。 蓮華座に立ち宝珠と錫杖を持つ地蔵尊像と自然石の庚申塔「青面金剛王」(造立年不明)。 そしてこの日の訪問場所を全て訪ねた後は、バス通りまで戻り解散場所の「衣笠城址バス停」に 向かって進む。 地中、右手に先程訪ねた「満昌寺」を見る。 そして「衣笠城址バス停」で解散し、私は横須賀駅行きのバスに乗り、途中、京浜急行線に 乗り換えられる「横須賀中央駅」でバスを降りたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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2024.04.24 05:41:11
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