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JINさんの陽蜂農遠日記

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2024.10.19
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カテゴリ:JINさんの農園
次に「清光寺」の南隣りにあった傳心庵」を訪ねた。



臨濟宗 傳心庵」。
小田原市中町1-14-10。



木製、銅板本瓦葺きの「山門」。



右手にあった「無縁塚」。



手水舎



地蔵尊が迎えてくれた。



参道を進む。



「掲示板」には「臨済宗 大徳寺派 傳心庵」と。



子を抱いていると行く末のことが案じられる よい人にめぐりあってくれとおのずから涙が
にじんでくる  坂村眞民」。
坂村眞民(さかむら しんみん、1909年1月6日- 2006年12月11日)は、日本の仏教詩人。
本名昂(たかし)。一遍の生き方に共感し、「癒やしの詩人」と言われる人物。



「平成28年 臨済禅師1150年・平成29年 白隠禅師250年遠諱記念 
禪ー今を生きるー」
かなり古いポスターであるが
「およそ1500年前、菩提達磨(ぼだいだるま)によってインドから中国へ伝えられたとされる
禅宗は、その一派である臨済宗・黄檗宗の宗祖、臨済義玄(りんざいぎげん)(?~866)に
よって広がり、我が国には鎌倉時代にもたらされました。武家のみならず、天皇家や公家、
さらには民衆にまで広く流布し、日本の社会と文化に大きな影響を与えました。
最近では欧米の人々の中にも「ZEN」の思想が広がっています。
特定の経典を持たない禅宗では、その教えは言葉や文字によらず、師の心から弟子の心へと、
以心伝心で受け継がれてきました。その修業は坐禅を中心に置かれますが、日常生活の行いや
ふるまいすべてが修行の一環として重視され、禅問答を通じた師と弟子の心の交流を経て、
悟りの境地へと至ります。
本展は、臨済義玄の没後1150年、さらに日本における臨済宗中興の祖である白隠慧鶴
(はくいんえかく)(1686~1768)の没後250年の遠諱を記念して開催します。
臨済・黄檗両宗15派の全面的な協力のもと、禅僧の肖像画や仏像、書画、工芸などを一堂に集め、
国宝19件、重要文化財103件を含む226件の名宝の数々で展観します。禅の真髄に触れる貴重な
機会となるでしょう。」とネットから。



臨濟宗 傳心庵」の「本堂」。
臨済宗大徳寺派寺院の傳心庵は、大亟山と号す。
開山は宝岳和尚(大永元年1521年寂)、開基は北条氏綱の母・南陽院殿華渓宗智大禅定尼
(過去帳による)、本尊は釈迦如来像です。かつては寺領が3千坪余あり、
「栄町の北条氏政・氏照の墓所」👈️リンク も含まれていましたが、大久保氏の内庵永久寺の
移転に伴い、現在地に移転・縮小となりました と。
コンクリート造、銅板丸瓦棒葺き、入母屋造り屋根平入り、流れ向拝。



扁額「大亟山」。



小田原北条「北条鱗紋」。



北側にあった墓地を歩く。





無縫塔の墓地



聨芳塔(れんぽうとう)」と。



立派な墓石が並ぶ。



江島家 先祖代々之墓」と。
茶葉販売店「小田原 江嶋(Odawara Ejima)」との関連は?



そして「傳心庵」を後にして、「広小路」交差点を通過して「広小路南」交差点に向かって進む。



「広小路南」交差点



横断歩道の先に案内板があった。



案内板「小田原城総構 ~渋取~」。



戦国大名・小田原北条氏が本拠地とした小田原城は東西約2.9km、南北約2.2km、周囲9kmの
規模を誇る戦国時代最大級の城郭です。
その一番外側の守りは「総構」と呼ばれています。総構の東縁部、「井細田(いさいだ)口」から
「山王(さんのう)ロ」にかけては、天然の湿地帯に堀を掘り、その内側に土塁を構築していたと
考えられます。この地域は小字「渋取」と呼ばれ、この一帯は堀の跡地ではないかと考えられて
います。
この説明板の裏にある渋取川は江戸時代に堀を埋めた水田の排水路と思われ、江戸時代の絵図・
文久図から、堀でもあったことがわかります。渋取川より南西側は総構の内側と想定されます。
現在見ることができる総構東縁部の名残は、蓮上院(れんじよういん)土塁と渋取川で確認
できます。
平成31年に渋取川にかかっていた「新逢橋(しんあいばし)」は解体され、川は一部暗渠と
なりました。「新逢橋」の銘板は、地域の歴史を物語る資料として小田原市郷土文化館に
保管されています。



「小田原城絵図・文久図一部(小田原城天守閣所蔵)」



新逢橋銘板



蓮上院(れんじよういん)土塁跡と渋取川



平成31年に渋取川にかかっていた「新逢橋(しんあいばし)」は解体され、川は一部暗渠と
なりました



​​紫の線​​が暗渠となっている「渋取川」。
連上院土塁から続く道路ですが、実は大外郭の堀として利用された川。
江戸口見付から井細田方面まで続く道である。



「渋取川」の暗渠部分を]googleマップより。





                                  ・・・もどる・・・




                 ・・・つづく・・・



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Last updated  2024.10.28 05:09:57
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