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JINさんの陽蜂農遠日記

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2024.11.22
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カテゴリ:JINさんの農園
小田原市浜町4丁目の道を南西に歩を進める。



「万年公民館」の前に神社があった。



万年公民館」。



八坂神社(天王さん)
小田原市浜町4丁目8−11。



八坂神社(天王さん)
京都八坂郷の祗園寺(祗園天神・婆利采女・八王子を祭った)から勧請を受け牛頭天王(祗園天神)を
祭った。この神様は昔から種々の疫病から守り家内安全を祈願する神として信仰を集めた。
六月一日に「天王降り」があり六月十五日の祭礼には高さ四尺の石垣の上の七尺四方の秤の台座に
角材を差し込み若衆が大勢で担いだ。尚入口には紫の幔幕を張り「牛頭天王」と書かれた
高張提灯を一対掲げた。
その祠は昭和二十六年十一月の大火に被災し現在の地に上若稲荷と共に合祀されている。」



八坂神社(天王さん)」。



脇にあったのは猿の姿の石像



再び国道1号に出て、寿司屋「​いせずし​」👈️リンク の横の狭い路地を進む。



奥にあった神社。



氏子神社
祭神 牛頭天王神社
   澤守稲荷神社
   道祖神
この奥の氏子神社は新宿町の守り神としてお祀りされているものです。牛頭天王とはインドの
守護神です。また、日本では京都東山の八坂神社(祇園社)を中心に疫病を鎮める神様として
全国各地で信仰されています。
町内に、このような疫病がはやらないようにまた、「商売繁盛」「学業増進」などを叶える神様が
三ヶ所(上社、中社、下社)にありましたが、昭和二十五年にここに合祀、移動し、厚くお守り
させていただいています。
平成三十年八月吉日
以下 省略」



正面に社殿。



扁額「正一位 澤守稲荷大明神」と。



社殿に近づいて。



内陣。
小田原提灯には「牛頭天王神社」と。



国道1号沿いにあった惣菜屋「田中屋本店」前を通過。



「​田中屋本店​」👈️リンク



店内をガラス窓越しに。



小田原城下で大正11(1922)年に創業した、田中屋本店。
国道1号線沿いに店舗を構え、うずら豆の煮豆と漬物屋として創業し100余年になります。
現在は、看板商品の煮豆・佃煮に加え、小田原産の梅を使用した梅干し、日々の食卓を彩る
様々なお惣菜を販売し、小田原の人々に親しまれています。(お惣菜は店頭販売のみ) と。



そして「新宿」交差点



新宿(しんしゅく)」と。



旧東海道」案内板。
「旧東海道」はこの「新宿(しんしゅく)」交差点を直角に左折して進むのだ。



「新宿(しんしゅく)」交差点を直角に左折して「旧東海道」を進む。
その先に「旧町名」碑があった。



「鍋町」碑



なべちょう」。



「この町の規模は、はっきりしないが、古新宿町と新宿町の一部を含む小町だった。
小田原北条氏時代から町には鍋などを作る鋳物師(いもじ)が多く住んでいたので、
この名がついたといわれている。」
別の説明では
鍋町は、その範囲がはっきりしていませんが、古新宿町と新宿町の一部を含む小町です。
小田原北条氏時代(北条早雲、氏綱、氏康、氏政、氏直の北条氏5代( 1495 ~ 1590年) )から、
町には鋳物師が数多く住んでいました。そのため、鍋町と呼ばれるようになったといわれて
います。


そして前方のT字路が「旧東海道 枡形(ますがた)」跡と。
枡形とは、城や宿場などの出入口に設けられた、石垣や土塀によって方形の空問を作り出した
防御施設。
城郭における枡形は、城の一の門と二の門の間を広く長方形や正方形につくったもので、
「枡形虎ロ」とも呼ばれます。
敵兵を枡形の形に誘導してまっすぐ進むことができなくし、門があれば開門にとまどっている
うちに周囲より集中攻撃を受けることで、城を守備する兵士の武器や装備を準備する時問を
作ります。
枡形には、曲輪内の一画を使用する「内枡形」と、曲輪から飛び出た形状の「外枡形」が
あります。内枡形が通常の形式で、外枡形は数が少ないです。
また、この場所の如く、江戸時代のはじめに制定された宿場では、街道を二度直角に曲げ、
外敵が進入しにくいように枡形が設けられたのだ。
よって現在の「新宿」交差点とこの場所で、旧東海道はニ度直角に曲がっているのだ。



現在の「新宿」交差点とこの場所で、旧東海道はニ度直角に曲がっているのだ。



直角に曲がった先の小田原城方向
を見る。



この旧東海道は「かまぼこ通り」と呼ばれていると。
老舗かまぼこ屋の本店や干物屋など、30店舗余りが軒を連ねているのだ。
かつて魚市場だったこともあり、漁師町風情が色濃く残る通り



「旧東海道 枡形(ますがた)」跡を振り返る。



小田原蒲鉾 いせかね」。



その先の「わきや蒲鉾店(株式会社 脇谷商店)」を振り返って。



有限会社 山上蒲鉾店」。



農林水産大臣賞受賞と。



モミジの見事な紅葉の中に自慢の蒲鉾を展示したショーケース。



かまぼこ通り」を振り返って。
そして「旧町名」碑がここにも。



「万町」碑



「よろっちょう」



「町名は古くから「よろっちょう」とよばれた。町内には、七里役所という紀州(和歌山)藩の
飛脚継立書(ひきゃくつぎたてじょ)があった。江戸時代末期には、旅籠(はたご)が五軒あり、
小田原提灯(ちょうちん)づくりの家もあった。」
別の説明では
この町は、藩主稲葉氏の「永代日記」、承応3年( 1654 )の記事に初めて町名が見られます。
町名は、古くから「よろっちょう」とよばれていました。
町内には、藩主帰城のときの藩御用町人の出迎え揚があったほか、「七里役所」という紀州
(和歌山)藩の飛脚継立所がありました。江戸時代末期には、旅篭(はたご)が5件ほどあり、
城下に2軒あった小田原ちょうちんづくりの家の1軒がありました。
なお、天保初期( 1830年代)、町内の戸数は105軒でした。




                                   ・・・​もどる​・・・



                 ・・・​つづく​・・・











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Last updated  2024.11.22 05:06:54
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