カテゴリ:読書:日本文学&小説
楢山節考改版 ■『楢山節考』(新潮文庫)所収の短編。 東京のプリンスたちとは、 何するともなにふらふらしている男子高校生たちで、 授業をさぼりまくり、アルバイトをしたり、 音楽を聴きふけったり、喫茶店に集い、ただ会話する。 ■その高校生たちを、それぞれの視点から描く際に、 各セクションで主人公となる人物を ファーストネームで呼び、 その他をセカンドネームで呼ぶ。 ■ではこの短編で作家は何を描きたかったのか。 それを読み解く手がかりとして、 ひとつの問いを発してみよう。 正夫はテンコと二人で旅館(つまりラブホテル)に入る。 二人は別に恋人同士でもなんでもない。 村上春樹の小説ならば、さっさとやることやるだろうが(^_^;)、 深沢七郎の「東京のプリンスたち」では、 何もしないで、すぐに旅館を出てきてしまう。 なぜか? ■正夫がその気でなくなった大きなきっかけは、 エルヴィス・プレスリーの音楽が聞こえてきたからだ。 いや、この場面に限らず、この小説のいたるところで、 プレスリーの音楽が流れている。 そのプレスリーの音楽が常に「何か」と対置される。 ■ここでは「性」がそれであるが、 つまるところ東京のプリンスたちの生活には 虚無感しかない。 何をしてもつまらないし、やる気も出ないし、 他人に興味がないか、他人がうざったい。 ■興味があるのはただプレスリーの音楽だけだ。 しかしながら、その音楽が彼らに何をもらたしているのか。 実はこの小説には、喫茶店でプレスリーの音楽を聞く一方、 別の高校生が入ってきて、その音楽を勝手に別の音楽、 すなわちクラシックにかけかえる、という場面が 2度挿入される。 そういう喫茶店(名曲喫茶?)が昔あったのだろうが、 ここで描かれる高校生たちと音楽の関係は、 本人たちはそれぞれがかっこいいと思っているのに、 傍から見るとかっこ悪いところが注目される。 ■つまり、音楽をかっこいいと思って聴いていることこそ、 実はかっこ悪いという皮肉。 彼らにとって「実」である「音楽」が、 実は「無」である、という皮肉がここにはある。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2010.08.20 10:32:03
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