四国鉄道の旅。第一日目のうち阿波池田ー高知・・・1/12
ずいぶん引っ張っていますが、私のブログでは昨年末の函館本線の各駅停車の旅に次いで、二度目の鉄道紀行ですので、出来るだけ詳しくと思っています。皆さんも2日の日程で十分に回れますし、途中に見どころもあります。何よりも空いている特急でのんびりできますので、お勧めですよ。さて今日10時から、わが団地自治会の臨時総会が開催されました。議題は二つ、まずは新役員の選出、二年間務めてきた会計担当の任を解かれます。そして自主防災組織の立ち上げ、マンション3棟だけの自主防災組織は大変珍しいと思います。独自の自治会も珍しい存在なんですが、これを基にして防災組織まで高めていこうと言うもの。普通の自治会であれば、そのまま分離すればよいのですが、マンションと言う性格上、ほぼ同じ構成員の法的組織である管理組合があり、しかもそこに契約された管理会社が日常の管理業務を行っているという難しさもあるんです。新役員が決まったと言っても、まだ私には決算と言う大事な役目もありますし、当面の課題として来期の業務計画を立てるための費用指針や今期の各担当別の費用概算も早急に作らねばなりません。一方では、JALさんの747-400の退役やA300-600Rの退役もある上に、私の当面の目標である桜追人のプランも立てねばなりません。昨日は、たまたま新しい桜の情報がありましたので、無理矢理にプランを立ててしまいましたから、さてどうなりますか。ちなみに1/19は世界遺産グループの昼食会があると言うのに、カレンダーにしるしを入れておかなかったばかりに、青森の温泉に行くと言うプランの予約がしてあって、あわててキャンセルしたものの、しっかりとキャンセル料を取られるというへままでしている有様です。さあ、四国鉄道の旅に戻りましょう。ちなみに第一日目のコースは、一日目の行程を地図で見る阿波池田を出た特急は、大歩危・小歩危の名勝を通って、四国山脈を横断して高知県に入ります。123.吉野川にかかる徳島自動車道の橋脚125.停車駅の案内表示126.吉野川128.急傾斜にへばりつくような住居131.渓谷を下に見ながら132.川の曲がっているところの崖の上に建つホテル134.再び吉野川を渡って135.渓谷の流れ138.大歩危の観光船乗り場142.国道から揖屋谷に入る橋143.かずら橋の案内145.線路の雪を撮るために、カメラを斜めに149.まだまだ吉野川に沿って南下を続けます151.すれ違ったのは、キハ32系の超古いワンマンカー152.繁藤(しげとう)の駅(高知県)JR四国の駅の中で最も高い標高347mに位置し、ここから高知方面に向けて一気に下っていく157.土佐山田の駅で(何故か阪神タイガースの列車)159.高知駅のホームから(頑張っている土佐電気鉄道)高知県安芸市で、阪神タイガースはキャンプをしますものね。161.アンパンマン列車も*言いわけでは無いですが、特急ですからそれなりのスピードで走っていて、突然車窓に現れる景色にカメラを向けるのですが、すぐにトンネルに入ってしまったり、草木が邪魔をし、なおかつ天候も悪いので、カメラを合焦させるのは至難の業です。大変見づらいものも多数ありますが、その辺はご斟酌ください。鉄ちゃんの世界は、大変広いものですが、列車そのものに興味はあっても、このような景色に興味を示される方は少ないと自負しています。皆さんが四国を旅する時の参考に少しでもなればと思っています。なお、おなじみの旬感旅行では、現在<土佐電鉄「路面電車」運転体験とJR四国のぶらぶら鉄道旅 二日間>を発売しております。詳しくは、JALの旬感旅行のホームページを参照ください。 撮影 2011年01月12日追伸受難さんのご指摘で、繁藤駅の確認をしていたら、下記の記事がありました。ご参考まで繁藤災害・・・・ウィキペディアから1972年(昭和47年)7月4日から5日にかけて、暖かく湿った空気が舌状に大量に流れ込むことで大雨をもたらし“姿なき台風”とも呼ばれる「湿舌」が中国山脈にぶつかったことにより、土佐山田町繁藤では1時間降雨量95.5mm(5日6時)、24時間の降雨量が742mm(4日9時~5日9時)という激しい集中豪雨に見舞われた。平年の3か月分という大量の雨が一気に降った影響で地盤が緩み、至る所で小規模な土砂崩壊が発生していた。降り始めからの雨量が600mm近くに達した5日午前6時45分、駅前にそびえる追廻山(550m)の駅付近の山腹が高さ20m・幅10mにわたって小崩壊し、人家の裏で流出していた土砂を除去していた消防団員1名が崩れ落ちてきた土砂200m?に埋もれて行方不明となった。早速、町職員や消防関係者が招集され、約120名が降りしきる雨の中、重機を使用した捜索活動が行われた。前日からの激しい雨はさらに降り続き、降り始めからの雨量が780mmに達した午前10時50分頃、小崩壊を起こした山腹が、いくつかの雷が一度に落ちたような大きな音と共に幅170m、長さ150m、高さ80mにわたって大崩壊を起こし、10万m?もの大量の土砂が駅周辺の民家のほか、駅および駅構内3番線に停車中だった高知発高松行き224列車[1](DF50 45号機牽引、客車4両)を直撃した。突如発生した大崩壊による土石流は、家屋12棟や機関車1両と客車1両を一気に飲み込み、現場付近で救助活動を行っていた町職員や消防団員、その活動を見守っていた周辺住民や列車の乗務員、乗客らを巻き込んだ後、駅背後を流れる20m下の穴内川まで流れ落ち川を埋め尽くした。中でも機関車は川の対岸まで飛ばされるほどに土砂に押し流され、1両目の客車が機関車の上に乗りかかるように埋没、2両目が崩れ残った路盤に宙吊りとなり、辛うじて3両目と4両目の客車が被災を免れた。[2]自衛隊や機動隊、消防等関係者ら1,300人体制による捜索・救出活動(および遺体収容作業)は約1ヶ月間続き、延べ約2万人が従事したが、最終的に死者60名(大崩壊による死者は59名)、負傷者8名、家屋全壊10棟、半壊3棟の被害を出すに至った。駅構内の半分を土砂に飲み込まれたほか、一部の路盤を失って不通となった土讃本線[3]は、復旧までに23日を要している。災害発生の原因となった追廻山の山腹は、元々破砕帯が露出した比較的脆弱な岩盤構造となっており、折からの大雨で土中に多量の水分を含んでいたため、崩壊が起こりやすくなっていた(最初の小崩壊に巻き込まれた消防団員は、現場付近で小規模に崩落した土砂の除去にあたっていた)。小崩壊が起こったことによって、それよりも上部の破砕帯は地下水の流出経路を失い、土中にさらに多くの地下水が貯留され、それが過飽和になった時点で大崩落が発生したと推測されている。