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カテゴリ

2015.03.10
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テーマ:戦争反対(1187)
カテゴリ:戦争と平和
今日は、東京大空襲から70年目に当たります。厳密に言えば、9日の夜から10日の朝にかけての出来事ですけど。
およそ、ひとつの場所で1日にして10万人もの犠牲者が出る、というのは世界史的にみても、そう数多い出来事ではありません。日本の歴史の中では、東京大空襲・広島の原爆(長崎は、その日のうちの死者は10万人に達していない)だけでしょう。関東大震災は、範囲がこれらに比べるとかなり広い(もっとも、そのうちの4万人は、本所被服廠跡は、たった150m四方くらいの場所で一瞬の間に亡くなっていますが)

ところで、この東京大空襲に関して、数日前の毎日新聞に興味深い記事が掲載されていました。

千の証言:戦後70年 東京大空襲その日、銀座に軍楽隊 焦土の横で行進曲 軍国少年「むなしく感じた」
(全文を読むはログインが必要)
70年前の1945年3月10日、未明の東京大空襲で10万人が犠牲となったその日は「陸軍記念日」だった。家族や家を焼かれ、傷ついた人びとが行き交う東京・銀座で、陸軍軍楽隊が士気高揚を目的に野外演奏した。東京都日野市の芳林秀明さんはそこに居合わせ、千の証言に投稿を寄せた。「おれは典型的な軍国少年だったが、行進曲が軽快な分だけ、むなしく感じたのを覚えているよ」。勇ましい行進曲は被災者の群れにどう響いたのか。
港区北青山に住んでいた芳林さんは、大空襲の3年前の42年4月18日にも自宅で空襲警報を聞いた。米爆撃機B25による初の日本本土空爆だった。太平洋戦争初期、日本が連戦連勝を続けていた頃で、「恐怖心はほとんどなかった」という。警報が鳴って家の屋根に上り、敵機がいつ飛んでくるか見ていた。「まだのんきなものだった」。空襲が激しくなるのは44年末ごろ。のちに45年5月の「山の手空襲」で、自宅が全焼することになる。
東京大空襲の時は17歳で、夜、覆いかぶさるように低空を飛ぶ数十機のB29を目撃した。「胴体の弾倉が開いていた。まさにこれから焼夷(しょうい)弾を落とすところだったと思う」。下町方面の空が真っ赤に染まり、外で新聞が読めるほど明るくなった。
3月10日朝、知人を捜しに銀座へ出た。被災者でごった返し、まともに歩けなかった。家財を山積みにした荷車をうつろな表情で引く人。服が焼け焦げ、足を引きずるように歩く人。包帯を巻いた負傷者。初めて被害の大きさを知った。
軽快な音楽が聞こえたのはその時だった。
千代田区有楽町の旧日劇前で軍楽隊のメンバー数十人が演奏していた。隊の沿革や活動を記録した「陸軍軍楽隊史」(山口常光編著、68年刊)に1行、こうある。

 <3・10 空襲の翌日志気昂揚のため靖国神社、銀座大行進>

「きちんと帽子をかぶり、最後まで懸命に演奏していた。でもみんなぼろぼろで、聴く余裕などなかった」。軍楽隊は戦前から、常に人垣ができるほど人気があったが、この日はみな素通りした。すすけた顔の被災者たちと、勇ましい行進曲。そのコントラストは戦争の不吉な見通しを暗示しているようだった。
大空襲の3日後、芳林さんは被害の大きさを改めて実感する。台東区の浅草寺境内で黒焦げの遺体の山を見た。隅田川にかかる吾妻橋のたもとでは、遺体の引き上げ作業が続いていた。材木運搬に使うL字の鳶口を使って消防団員らが遺体を引っかけ、広場に並べていく。今は水上バスの発着場だが、「当時の光景が浮かび、今もその辺りを直視できない」と語る。

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3月10日の軍楽隊の演奏写真も、毎日新聞には掲載されています。

3月10日の陸軍軍楽隊

この空襲では、もっぱら下町(現在の区名だと、台東・荒川・墨田・江東あたり)が集中的に攻撃されており、有楽町・日比谷・銀座あたりは爆撃を受けていません。ただし、その前に1月27日に銀座は空襲を受けて、かなりの犠牲者が出ています。それでも、3月10日ほどではないはずです。
だから、有楽町あるいは銀座で軍楽隊の行進は可能だったのでしょう。米軍は、日本軍の面目を潰すために、あえて陸軍記念日を選んで3月10日に大空襲を行った、という説もあるので、それに対して「何としても屈しないぞ」という戦意高揚のつもりでやったのかもしれません。が、そうだとしても10万人の犠牲者が出た焦土の数キロ先で軍楽隊の行進とは、もはや見る人もシラケ切ってしまい、戦意高揚になどならないでしょう。

そして、この3月10日の大空襲についての大本営発表は、以下のとおりだったそうです。

「大本営発表」(昭和二十年三月十日十二時)本三月十日零時過より二時四十分の間B29約百三十機主力を以て帝都に来襲市街地を盲爆せり
右盲爆により都内各所に火災を生じたるも宮内省主馬寮は二時三十五分其の他は八時頃迄に鎮火せり
現在迄に判明せる戦果次の如し
撃墜 十五機 損害を与へたるもの 約五十機


死者10万人、というのは後年分かった話だとしても、首都東京の広大な面積が焦土となり、ものすごい数の犠牲者が出たことはこの時点で分かっていたはずです。それにも関わらず、被害のことは「都内各所に火災を生じたるも宮内省主馬寮は二時三十五分其の他は八時頃迄に鎮火」しか書かれていません。宮内省主馬寮つまり皇室の馬小屋の被害だけが述べられ、「其の他」の火災は何も具体的にかかれていない。大本営にとって、天皇家の馬小屋の被害のほうが、東京の住人10万人の死亡より大事なことだった、ということになります。これまた、実に恐ろしい話です。(細かい話をすれば、この空襲に実際に参加したB29は325機であり、約130機というのは過小評価です)

こういう、「人の命より戦意高揚」「人の命より天皇家の馬小屋」という姿勢の行き着く先が、無謀な戦争であり、無残な敗北だったわけです。





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最終更新日  2015.03.10 22:25:42
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