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2010年09月25日
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“近代”は遠くなりにけり。半世紀前との変化、不変化。一党独裁国家中国への悲しい捉え違い評価。

 世界第二位の経済大国にして、超軍事大国である中華人民共和国の膨張政策著しい今現在、読むと大変興味深い本です。そして「興味深い」と同時に、竹内氏の心情を思えば悲しくなる本です。竹内氏が友愛と誠意を込めて見た支那は、人権抑圧と大量虐殺と果て無き軍事拡張路線を推し進める、こんなグロテスクなモンスターに成長してしまいました。

 「批判する」とは、批判する事によって実は(その説を前提に思考する事なのですから)“継承”する事なのです。果たして今、竹内氏の立てたテーゼは“継承”されているのでしょうか。

 何故、竹内氏(竹内氏だけではない。当時の、そして現在でも情けない事に、自称知識人の多くは、そう)は一党独裁国家に“好意”をよせ、“人類の希望”を託し得たのか。どこから、こんな奇怪な思考を生み出したのか。実は、この「何故、竹内氏はこんな本を著したのか」こそ大きなテーマだと思います。 
 と同時に、この本の「日本に対しての批判」の構造(それが正当なものであるかどうかは別として)を、現在の中国に当て嵌めてみるという試みは、実りを生む可能性のある行為だと思います。

 竹内氏の出した結論を“暗記”するのではなくて、その結論に至った、彼の思考の“枠組み”を“観る”事(これは何にしてもそうですね)。


 以下、抜書き、覚書。

 □「近代とは何か(日本と中国の場合)」(『東洋文化講座』第三巻「東洋的社会倫理の性格」1948年発表)

p5「東洋にも、むかしから、ヨオロッパ(ママ)の侵入以前から、市民社会の発生はあった。宋(おそらくは唐さえも)まで遡られる市民文学の系譜があり、ことに明になると、ほとんどルネサンス人に近いほどの自由な人間の型を打ち出すまでに市民権が伸張している面があるが(略)むしろ、それらの遺産が、遺産として承認されるようになったのは、つまり、伝統が伝統たらしめられたのは、ある自覚によってであって、その自覚を生み出した直接の契機は、ヨオロッパの侵入である。」
p6「ヨオロッパが本来に自己拡張的であることが(略)、一方では東洋への侵入という運動となって現れたことは、認めてよかろう。(略)それはヨオロッパの自己保存の運動のあらわれである。資本は市場の拡張を欲するし、宣教師は神の国をひろめる使命を自覚する。(略)たえず自己であろうとする動きは、たんに自己に止まることを不可能にする。(略)動くことのなかにしか、かれは自己を保てない。資本主義の精神とよばれるものがそれだ。」
 p8「このヨオロッパの自己実現の運動のなかから、十九世紀の後半になって、質的な変化がおこった。恐らくそれは東洋の抵抗と関係があるかもしれない。なぜなら、ヨオロッパの東洋への侵入がほぼ完成した時にそれはおこったから。ヨオロッパを自己拡張に向かわせた内部矛盾そのものが意識されるようになった。(略)そして、この自覚がおこった時にヨオロッパの統一は内部から失われた。分裂の結果は、ヨオロッパに対立すると同時にそれぞれにも対立する三つの世界をヨオロッパの内部からはじき出した「資本そのものを否定するロシア革命」「超ヨオロッパ的法則のアメリカ」「東洋における抵抗-非ヨオロッパ」)。」
 p9「東洋における抵抗は持続していた。抵抗を通じて、東洋は自己を近代化した。抵抗の歴史は近代化の歴史であり、抵抗をへない近代化の道はなかった。ヨオロッパは、東洋の抵抗を通じて、東洋を世界史に包括する過程において、自己の勝利を認めた。それは文化、あるいは民族、あるいは生産力の優位と観念された。東洋は同じ過程において、自己の敗北を認めた。敗北は抵抗の結果である。抵抗によらない敗北はない。したがって、抵抗の持続は敗北感の持続である。」
 p11「ヨオロッパの前進=東洋の後退の前進においてでしかヨオロッパはヨオロッパでない。」
 ザバッと近代精神史。尤も後藤末雄著『中国思想のフランス西漸』(面白いよ)によれば、儒教思想がフランス革命に影響を与えた点があり、だとすると、全地球規模の人類精神史はもっと壮大でもっと複雑なものかも知れません。

 p19「私のとって、すべてのものを取り出しうるという合理主義の信念がおそろしいのである。合理主義の信念というより、その信念を成り立たせている合理主義の背後にある非合理的な意志の圧力が恐ろしいのである。そしてそれは、私にはヨオロッパ的なものに見える。(略)日本の思想家なり文学者なりの多くが、少数の詩人を除いて、私が感じるようなものを感じていぬこと、かれらは合理主義をおそれていぬこと、しかもかれらが合理主義(唯物論を含めて)と称するものが、どう見ても私には合理主義に見えぬこと、を感じ、私は不安であった。」
 合理主義自体の“非”合理性。近代西欧の所謂「科学的精神」自体、不合理な“信念”から生み出されたものでした(「神は二つの偉大な書物を著された。一つは聖書。もう一つは自然。我々はこの二つを読み解かねばならない。キリッ」自然が本当に神の意図の下に創造された“合理的”のものなんでしょうか。)

 p23「『新しい』ということが価値の基準になるような、『新しい』ということと『正しい』ということが重なり合って表象されるような日本人の無意識の心理傾向は、日本文化の進歩性と離して考えられぬだろう。たえず新しさを求め、たえず新しくなろうとすることで、日本人は勤勉である。だから、学問の進歩とは、より新しい学説をさがすことであり、文学の進歩とは、より新しい流派を見つけることである。」
 「理想主義者はあくまで現実(という観念)を追いかけようとし、現実に適応しなくなった観念をつぎつぎに捨てていくが、現実主義者は、とても追いつけないとあきらめて、追いつけぬ理由を説明する学説を探しているだけだ。」
 「一度も現実を変革した経験をもたないものにとっては、現実は変革しうるという観念さえ、こころよい安眠の座になる。」
 うむ、うむ。でもこれ、もっと下世話な理由もあるのじゃないでしょうか。つまり本でも番組でも評論家でも目新しくなくちゃ売れないという、マスコミの“大人”の事情(もっとも、随分幼稚な“大人”なんですが)。

 p32「魯迅は『ドレイとドレイの主人は同じものだ』といっている。(略)『主人となって一切の他人をドレイにするものは、主人をもてば自分がドレイに甘んずる』ともいっている。」
 現在の中国評、日本評でも通る。とほほ。
 
 p40「すべては明治維新革命に規定された進歩の方向に問題がある。(略)かれらの進歩主義は強く、反動は相対的に弱かった。唯一の危機である明治十年を見事に乗り越すことによって、日本の進歩主義は、完全に反動の根を絶った。しかし、それといっしょに革命そのものの根も断った。」
 逆説。


 (その2)に続く。

近代の超克
『近代の超克』って題の本はいっぱい出ていますから、著者名をちゃんとチェックして。





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最終更新日  2010年09月29日 07時08分55秒
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