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『犬の鼻先におなら』

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2011年06月30日
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(その1)の続き。

 さて、著者は最後にこう結論付けます。
 p45「たしかに<科学上の真理もその国の文化の伝統や言葉の違いによって変わることがある>ということもあり得ないことではありません。しかし、人々による科学上の意見の対立があることを知ったとき、<どちらが正しいか>と考えても見ずに、その対立をすぐさま<その国の文化の伝統や言葉の違い>のせいにする事は、とんでもない間違いです。」
 そして先に述べた日高敏隆、村上陽一郎、桜井邦朋、鈴木孝夫ら、4人の学者は間違っていると難じ、間違った原因を「科学上の真理もその国の文化の伝統や言葉の違いによって変わることがある」という「当時流行していた科学論」に彼らが魅せられた為と分析しています。

 恐らく「当時流行していた科学論」とはT・クーンに端を発するパラダイム論の事だと思われます(とすると、この説に反感を持つ著者はもしかすると古式床しいタイプの左翼系科学者なのかも)。

 どうなんでしょうか。
 例えば著者は「パーカー女史は子供たちにプリズムで虹を見せ、子供たち自身の目で見させて、藍色がない事を分からせているから、『虹は6色』が正しい」としています。
 でも、「見る(科学的観察)」って行為は、単純に外界を受動的に知覚する行為なんでしょうか。既に観察者が持っている知識や理論に基づいて、能動的に観察対象を意味づける行為じゃないんでしょうか
 だとしたら、子供達が「藍色がない」と“見た(正確には考えた)”ところで、それが単純に唯一絶対の“正しさ”の証明となるのか。
 というのが、まさにそのパラダイム論の話なんでした。

 (余談。私が見た「カレーを扱ったテレビ番組」の話。日本人には数皿のカレーが全部「同じカレー」にしか感じられなかったのに、インドのその辺のおっさん、おばちゃんは全員「全然違うカレー」と主張し、各々の皿で使われている香辛料を全部言い当てた。これ、著者の立場なら何と考えるのか。「全部違うカレーという説は間違っている!我々日本人はこの舌でしっかり観察した。同じだった!」が正しいのか。強いて言えば「日本人にとっては全部同じカレー」説が辛うじて成り立つぐらいじゃないのか。
 ただ、同じ人間ですから、日本人でも“練習”すれば判別できるようになると思います。インド人は意識せず普段の食生活で“練習”を行っているのでしょう。
 「藍色」が判別できないのも、米国人の子供達は、子供であるが故に単に“練習”が足りず、感覚が未熟なだけだったりして。そして米国は子供達の「お頭の成長」は重視するが、「感覚面での成長」はそもそもそうした発想自体がない国柄だったりして。
 著者は「感覚も成長する」という点を忘れているような気がします。「感覚の成長」を助けるというのも教育の役目じゃないでしょうか。)


 さて、以下、こうだって言えるのじゃないかの説。
 江戸時代の日本人は「虹の色数」に関心がありませんでした。そして初めてニュートンの「7色」説に触れた時、「藍色」を重視する日本人にはしっくりと馴染んだのでしょう(藍に限らず、日本人の伝統的な色彩感覚って、ギラギラ原色より、中間色が好きだもんね。だからもしかしたら8色説でも、いや逆に5色説でも馴染んだのかも知れません。この辺はたまたま文明開化の近代科学輸入期に一番最初に触れたのが7色説だったからという程のものでしょう)。
 一方米国でも最初は光学の祖ニュートンの7色説に沿っていたのですが、「俺たちゃ、陰影知らずシブサ知らずの米国人だぁ。色なら明るいギラギラ原色。藍なぞ、ただの青の毛色の変わったのだぁ」という文化だったので、定着せず廃れる傾向があり、たまたまパーカー女史の著作をきっかけにして、一挙に教育機関が動き、今では6色説になった。
 (どうでしょうか)
 

 そもそも、「虹の色数は何色か」というのは自然科学上の問題じゃない筈です。(虹の)色をどう“表現(記述)”するか」という文化的な問題の筈です。何故なら、「色」自体そういうものだからです。質量や体積のような客観的に測れる物理量の名称として「赤」だの「青」だのがある訳ではない(この問題、突っ込むとニュートンと並ぶ光学の祖「自然科学者ゲーテ」なんかの色彩論も出てこらざるを得ないでしょうね。「スペクトル分析で何が解るって言うのか。色は周波数の問題じゃない」)
 だから「どっちが正しい」という著者の問いかけ自体がそもそも間違い。「どっちが正しい」と、ここでそういう発想でやっちゃうと、「文化帝国主義」の発想になっちゃう(「その問題は自然科学的上の正否の問題か、文化的な差異の問題か」まずこっから捉えないと。で、この点を著者は反対に判断した)。
 
 しかし、もしこの「虹の色数」問題をなんとしても自然科学上の問題として論じたいというのであれば、「藍色」及び「青」を客観的な数値で定義しなおして論じなければならない筈です(例えば周波数帯でね)そして、逆に言えば、この定義さえ決めれば「虹は7色か6色か(=虹の色の中に藍色はあるのか)」の議論は一発で終了します。
 そしておそらく、この「定義」の段階で揉めるんじゃないでしょうか。6色派「青の周波数帯の中に藍のそれがある」VS7色派「青の周波数帯とは別に藍のそれがある」。
 あれ、なんだ、それは「藍は青の一部だ」VS「藍は立派に独立した色だ」の戦いで、つまりは、その文化において「藍色」がどれ程重要視されているかに、結局行き着いちゃいますね。


 さて、以上つらつら書いてきた事は、実は本書にとってどうでも良い事なんでした(笑、オイオイ)。
 本書で出された結論は重要ではなく、その過程が重要なんですね(この点は著者も同意して下さる筈)。
 その意味でなかなか“教育”的な本でした。
 
 本書は4名の学者への異議からスタートしたわけですが、この「なんでも『民族文化の違いだぁ~』は止めなさいよ」という姿勢は大切ですね。
 どうも日本の言論界(所謂「左右」共に)はこの思考(正確には非思考)が安易に使われすぎている嫌いがあります。「個性重視のオンリーワン」の国際版と言った所でしょうか。最初から“正解”として用意されている“相対主義”、つまり思考停止に繋がる“相対主義”は碌なものじゃない(無論、真っ当な使われ方もありますよ)。
 本書の例とはある意味逆に、民族文化の違いでなく単なる一個人同士の差異の問題かも知れない(「一個人がその国、その民族を代表している、又は平均像を具現化している」なんて、そんな事滅多にないしね)。
 また、「民族文化」というより「政治体制」の違いかも知れない(逆に「『政治体制』と思ったのが『民族文化』の違いだった」もありうる)。
 更に、突っ込んで言えば、そも「民族」とは何ぞや、をしっかり考えなければならない(デオキシリボ核酸とは何の関係もなし)。

 
 更に重要な事。
 我々が特に気にする事もなしに「何々はXX民族の伝統である」という、その“伝統”が実は「近代学校教育」の産物である、という事があるという事。
 また、我々の「“実感”“経験”」は、実は“自然”ではなく“歴史的産物”でもありうる、という事(というか“自然”という概念そのものが“歴史的産物”なのだが)、そして、その源泉の一つが「近代学校教育」であるという事です。
 (より正確には伝統と学校教育との相互、相克関係の内に成立しているのでしょう。また、現代では「学校教育」と並んで「マスコミ」の存在も大変大きいと思われます)。

 なんとなく我々は「学校なぞ自分の世界観、思考形態にそれ程影響を与えるもんじゃない。碌々教科書も読まず教師の話も聞かなかったし」などと考えますが、とんでもない。狭義の「政治的意見」どころか、所謂“感覚”“実感”レベルにまで影響を与えてしまうものなのです。
 (コレじゃ狭義の「政治的集団」がヘゲモニーを取りたがるワケだ。{というより既に取ってしまった、か}マスコミも御同様でしょうね。マスコミと教育機関さえオサエれば、思考の枠組みそのものを掌握する事が可能です)

 だから、我々は先ず、自分の“感覚”“実感”そのものを疑わなければならない。自分の“感覚”“実感”の“出自”の系譜を知らなければならない。
 我々は自分の“頭脳”に逆らって、“考え”なければならない。

 (我々とは人類の事だよ)


 おまけ。
 新幹線「ひかり号」というネーミングは一般公募で付けられたってご存知ですか。一般公募という事は庶民がその“庶民感覚”とやらからネーミングしたものですよね(開発者サイドが合理的理由から名付けたのでもなく、芸術家が特別な鋭い又は奇矯な感性から名付けた訳ではない)
 これは、無論「こだま(=音)」より速いから「ひかり」だ、という理屈からでしょう。

 でもね、これ“実感”“感性”から考えると変な訳です。

 皆さん、「あぁ、光線が走っている。光線って速いなぁ」って感じた事ありますか。「走っている」も何も、人間が、いや全生物が捉えられるようなレベルの速さじゃないですよね(「走っている」じゃなくて「同時」だよね)。よって「光線が走っている」なんていう事が“実感”として感じられる訳がない(こだま{音}の方は「行って帰って来てる」という“実感”があるかな)。
 勿論、物理学的に言えば「光は物凄いスピードで走っている」で正解でしょう(本当は「走っている」も問題あり)。しかし、それは“実感”“感性”ではない。

 逆の例。
 仮に「水晶の翼」号という飛行機があったとする。速そうに感じませんか。
 でも、実際に水晶で翼を作ったら、たぶん速く飛べないと思うのです(というより飛べるのか)。
 しかし、速いように感じてしまう。現実に、物理学的問題として捉えれば遅くても、そう感じる。 
 
 つまりこの「光は速い」という“発想”そのものが、学校で教わったから出て来たものだったのです。

 所謂“庶民感覚”とやらが「学校教育の産物」という場合もあるんですね(更に踏み込んで言えば、“庶民感覚”が時の権力者や教育機関のヘゲモニーを握った“特殊”思想集団?によって作為的に作られるという事があるという事です)。


 最後に。
 じゃあ、実際問題として、学校でどのように教えるべきか、の問題。
 実用主義的に考えれば良いのじゃないでしょうか。
 一般の学校教育の場ならば、それが正しいかどうかは別にして「現代の日本では7色と見られている」と教える。余力があれば「他の国他の民族では違いますよ」と教える。(「左側通行が右側通行より合理的、高級、または正しい」訳ではないが、日本で車を運転するのなら左側通行について教えておかないと生活上問題がある訳です)。無論、社会の“通念”としてそうだという事なので、個々の生徒が5色に見えようが8色だろうが問題はない(実際、虹の色が何色に見えようが生活するのに支障はないですからね)。

 ただ、逆に言えば支障がある場合は、8色なり、12色なりと教えなければならない訳です。
 例えば、画家やデザイナーなど、一般人以上に繊細な色彩感覚が要求されるであろう職業人の養成学校で、「虹が7色などと言っているようではイカン。12色は見分けられないとダメ」などといった教育が行われていたとしても怪しむには足りないでしょう。
 そう、この場合は「虹=12色」が“正解”なんですね。

 “教師の知性”って本来、こうした実用主義に根ざしたものの筈だと思うのです。





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最終更新日  2011年07月01日 07時20分33秒
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