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『犬の鼻先におなら』

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2011年07月01日
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ミニ本なれど内容は興味深く重要。しかしなんで結論がこうなるのか。

 一寸変わった本です。版型は文庫本よりも小さく、しかも薄い。本当にポケットに入れるのに格好のサイズ。
 「ミニ授業書」シリーズとあります。副題は「真理と教育の問題を考える」。

 概要。
 ご存知の方も多いと思われますが「虹は何色あるか」という問いに、各国各民族で答えが異なると言う話。これがまずこの本の前提知識。
 日本では現在7色ですが、米国では6色(この本では紹介されていませんが、沖縄では古くは2色とされていたようです)。
 で、これは一般に「所謂、客観的物理的現象(正確には「~の記述」)と思われているものも、実は主観的(共主観的)なもので、その人が属している民族文化に左右されている」(で、「だから相違があってもどっちが正解という事はないよね」という“解答”が付いてきたり、酷い例では「だから虹は7色と思う奴は自民族中心主義のバカウヨ日本人」と非難されたりします。仮にオランダ人が「虹は5色」と捉えて良いなら日本人が「7色」と捉えても良い筈なんですがね)。

 本当にそうなのか、というのが本書のテーマ
 (そして、「分析が鋭いなぁ」と途中感心しつつ、「あれ、なんで結論が『6色が正解』になっちゃうの?」とコケル本でもあります)

 内容。
 70年代、日高敏隆、村上陽一郎、桜井邦朋、鈴木孝夫といった様々な分野で活躍する学者が相次いで「虹の色数は幾つか」という問題をエッセーなどで取り上げます(内容は「ふと米国人に聞いてみたら6色と答えたよ・・・。で、興味を持って」とほぼ同工異曲)。
 ここで著者は「三人は夫々無関係に気づいた事になっているけど不自然だろう。『ふと虹の色数を尋ねる』っていうのも不自然だろう。その時代すでに米国留学者の間で虹の色数が話題になっていたのではないか」と鋭いツッコミ。つまり無関係に見えて、実は同じ思考方法を辿っている“お仲間”(「個人的に親しい」の意に非ず)なんじゃないか、と言う事。
 で、案の定、彼らの結論は同じなんでした。
 「米国人は色に関する言葉(概念)が大雑把(不足)だから、虹の中の藍色を識別できずに、虹は六色と思うのだろう」そしてp14「これは<科学上の真理もその国の文化の伝統や言葉の違いによって変わることがある>という証拠だ。だから、アメリカでは<虹は六色>、日本では<虹は七色>と違っていてもいいのだ」と結論が続きます。

 ここで著者の寄り道。50年代との比較。50年代の日本では「日本語=劣等言語」説が盛んに唱えられていて、学問をするのなら欧米語でなきゃダメという人が大勢いたそうです。もし当時のインテリ自慢の日本人が「虹の色数」問題を知ったのなら「あぁ、やっぱり日本人は野蛮人。虹の色が6色でなく7色だと馬鹿丸出し」と得意げにニポンジンを嘲笑った事でしょう。
 ところが70年代。日本が高度成長期をむかえて経済的に豊かになると「日本語=劣等言語」説は影をひそめたのでした。故に、「米国では虹は6色」と聞いてもp16「そこで、日本の新進気鋭の学者達は、アメリカ人の常識が日本人のそれとは違うと知っても、慌てることはなかったのです。<日本人にはアメリカ人とは違う独自の考え方がある>と胸をはったというわけです」だそうです。
 (結局、“経済問題”なんですね。と考えると、今の「我が社は“公用語”を英語とします」祭りは、「英語じゃなかったから、経済が傾いた(又は、これからは英語でないと傾く)」のではなく「傾いたから、『日本語=劣等言語』説が復活した」という事なんじゃないでしょうか) 


 ここで著者の個人的体験が。
 著者は子供の頃から虹の色を数えると5色か6色しか数えられなかったそうです。で、この話題を知った時「虹は6色と考えた方が良いじゃん」と考えたそう(実はここが、この本のオカシイと感じさせる結論の伏線になっています)。

 元に戻って、著者の真っ当な鋭い疑問。
 「そもそも『虹は7色というのが日本人の常識』という前提はあっているのか」という問い。
 
 
 では、江戸時代の日本人は何色と考えていたか。
 答え。そもそも当時の日本人は虹は何色かという事に関心がなかった
 当時の日本人は霧を吹く事によって人工的に虹を作って遊んでいた程、虹それ自体には関心があったのですが、色の数自体には興味がなく、色の数に関しての記述が一切ありません(強いて言えば司馬江漢の『和蘭天説』に「虹は、微薄の雨に日光の映写して五彩をなす。・・・黄色、紅色、緑色、紫色、青色なり。」との記述があります。つまり5色)。
 初めて日本の本で7色と言う記述が出てくるのは青地林宗の『気海観瀾』。しかしこれは、欧米の近代物理学を紹介した本なのです。
 
 つまり、日本人が初めて「虹の色数」を意識するようになったのは、ニュートンの分光学を知ってから、という事です。

 ここで英国に飛んで、ニュートン自身はどう考えていたのでしょう。彼の1704発行の『光学』ではプリズムで分光した基本の色を赤、黄、緑、青、菫の5色と考えていました。つまり始めは5色と考えていたのですね。しかしその後、彼は考えを改め、7色と主張するようになります。

 「虹は7色」と主張したのはニュートンが最初です。
 熱心なキリスト教徒であった彼はキリスト教の聖なる数「7」に、どうも何とか合わせたかったようですね(これはこの本に書いてありませんでしたが、キリスト教に於ける「7」の重要性について一言。聖書は始めも始め、マタイ伝第一章第17節に「されば総て世をふる事、アブラハムよりダビデまで十四代、ダビデよりバビロンに移さるるまで十四代、バビロンに移されてよりキリストまで十四代なり。」とあるように、7及び7の倍数が大きな意味を持つ場合が多いですね。天地創造が7日間、七つの大罪に秘蹟も七つ。)
 そして実際に、「私には藍色が見えます」と7色見える人も出て来ました(実はここも、この本が後に自己矛盾してくる箇所)。
 ところが彼自身は7色に見えない。そこでドレミの音階も7つであるという事にも無理やりこじ付け、「藍色と橙色は半音階に相当するので幅が狭いから見えなくても仕方がないのだ」と、主張したんでした(滅茶苦茶じゃねーかと言えば、そうです。これ18世紀だからという点もあるんですが、実は科学という知的営為自体、本質的にこうした無茶を元にして発達発展してきたという面があるんですね。現代でも後世から見れば、そういう事が多々あるんじゃないでしょうか)。

 では、当時(そして今も)英国人の多くは虹に7色を見ているのでしょうか。
 著者の推論はこう。
 見てないんじゃないか。何色かと聞かれれば「7色」と答えるかもしれないが、当人が見ている訳ではないんじゃないか。
 もし、当人が見ているのなら、何で「虹の7色の覚え方」なんていう方法があるんだ、というツッコミ(因みにこの「虹の7色」の覚え方は「Richard of York gave Battle in vain.(ヨークのリチャードの挑戦は空しかった)」で、この文章の単語の頭文字が夫々虹の7色の頭文字になる、というもの)。
 
 (ただ、どうなんでしょうか、この著者のツッコミ。正しいともいえますが、「虹はそうしょっちゅう出ている訳ではないから、常に目で確認する訳にはいかず、よって覚え方が必要なのだ」とも言えるような気がします。)

 また、本拙文の冒頭で「米国では虹は6色」と書きましたが、実は1940年代までは、米国でも虹は7色だったようです。
 例えば1833発行のミス・メアリー・スゥイフト著『子どものための科学入門』(邦訳1867年発行『理学初歩』)にはっきり7色と記されています。また、「虹の7色の覚え方」が記載されている1940年発行のE・ヒューイ著『はじめての物理学』もそう。1940年まで米国の小中学校用の理科教科書は皆「虹は7色」と記されているのです。

 ところが、1941年発行のB.M.パーカー著の単元別教科書『雲と雨と雪』から、事情が変わってきます
 この教科書では子供達に藍色が識別困難である事を実験によって示し、「あなたが特に<青と藍の両方を挙げたい>というのでなければ、両方の名を挙げる必要はありません」と記されているのです(ここの著者の解釈は変。パーカーは識別が難しいのであれば、あえて藍色を挙げる必要がないと言っているのであり、藍色を挙げるのは間違いだとは主張していない)。

 (ここで疑問。「米国の子供達が藍色を識別困難なのは、文化的な問題である」という解釈もまた成り立つのではないか)

 とまれ、このパーカー女史の提案以来、米国では「虹は6色」という考えが教育機関で主流を占めるようになり(というより、「6色」説以外は教えていないらしい)、現在の米国人は「虹は6色」と答えるようになったという訳です。

 で、何故か著者はここで、「このように科学的に正しい経緯に基づいて定まった、米国の『虹は6色』が正しい。7色は間違い」と結論づけちゃうんですよ。

 あれ?
 著者自身、ニュートンの項で「藍色が識別できる人」の話を書いているし、パーカー女史も「挙げたくなければ藍色を挙げなくても良い。6色でも良い」と言っているのであって、7色であっても間違いではない筈なんですが。
 著者が子供の頃から6色しか識別出来ないから、「米国の6色の方が正しい。日本の7色は誤り」と言っているだけだったりして(笑)。
 このテーマに限って言えば、実は著者は“ナイーブ”な私的“実感”至上主義者なんじゃないでしょうか(笑)。大変学識のある方なので、その“ナイーブ”さが見えてこない(当人自身も含めて)だけだったりして(笑)。
 
(その2)に続く。








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最終更新日  2011年07月01日 06時55分15秒
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