吉備春日神社
奈良県桜井市吉備■御祭神 春日四神(天児屋根命・姫大神・武甕槌命・経津主命) 天武天皇 大津皇子(磐坐) 吉備池の北に鎮座する小さな神社。ここは用明天皇(聖徳太子の父)の磐余池辺双槻宮(いわれいけべのなみつきのみや)跡とも伝えられています。これは吉備池が磐余池だという説に基づく伝承だと思います。確かに御厨子神社あたりと比べると、「磐余池」と呼ぶにふさわしい場所ではあります。 歌碑 : 百伝ふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ 大津皇子吉備池を磐余の池に比定したのでしょう。こちらにも大津皇子辞世の歌の歌碑がありました。 こちらの万葉歌碑は、大津皇子の姉である大伯皇女の歌。大津皇子が二上山に移葬された時に詠まれたとされる歌の歌碑です。 うつそみの人なる吾や明日よりは二上山を弟背(いろせ)と吾が見む大伯皇女 「 この世に生きている私は、明日からは二上山(ふたかみやま)を(亡くなった)弟だと思って見るのでしょうか・・・」 歌碑は遠くに二上山を望む、吉備池西側に建てられています。歌碑の右に見える山が二上山です。 この吉備池では、10年ほど前の発掘調査により7世紀前半頃のものと思われる寺の跡が見つかり「吉備池廃寺」と名付けられました。吉備池はその寺が廃寺となった以後に造られた池であることが判明したのです。従って、用明天皇が宮を建てた6世紀の磐余の池とは考えられないでしょう。磐余の池は5世紀に履中天皇の命により造られたと、日本書紀に記述があります。吉備池は磐余の池であった可能性は低いようです。また吉備池廃寺は、舒明天皇勅願の「百済大寺」と考えられています。百済大寺が建てられたのは、日本書紀によれば639年。用明天皇の即位は587年です。 磐余という地は、三輪山と天香久山の間にあります。この辺りは神武天皇東征の時、長髄彦(ながすねひこ)戦った場所とも言われています。現在の奈良県桜井市の南部にあたります。 ここでちょっと、桜井市について。この井戸は「櫻の井」履中天皇ゆかりの井戸で、桜井市という地名の起こりはこの井戸に由来するのだそうです。桜井駅の南、若桜神社の北にあります。 .