敗戦と占領-03(ガダルカナル
◇「ガダルカナル島の戦い/ウィキペディア」(抜粋) ガダルカナル島の戦い(Battle of Guadalcanal)とは、大東亜戦争(太平洋戦争)において1942年8月以降(1942年8月7日 - 1943年2月7日)日本軍と連合軍がソロモン諸島のガダルカナル島を巡って繰り広げた戦いである。 米豪遮断作戦は、ニューギニア島東南岸のポートモレスビー攻略作戦(「MO作戦」)とニューカレドニア、フィジー、サモアの攻略作戦(「FS作戦」)から成るものであったが、「FS作戦」遂行にあたって5月に前進飛行場の建設適地とされたのが、ガダルカナル島であった。 1942年12月31日の御前会議において「継続しての戦闘が不可能」としてガダルカナル島からの撤退が決定された。 ガダルカナル島に上陸した総兵力は31,404名、うち撤退できたものは10,652名、それ以前に負傷・後送された者740名、死者・行方不明者は約2万名強であり、このうち直接の戦闘での戦死者は約5,000名、残り約15,000名は餓死と戦病死(事実上の餓死)だったと推定されている。 一方、米軍の損害は、戦死1,598名、戦傷4,709名であった。 国民には敗北の事実は隠され、撤退は「転進」という名で報道された。そのため、撤退した将兵も多くはそのまま南方地域の激戦地にとどめ置かれた。この悲惨な状況について国民が知り得たのは大本営発表の次の一文のみであった。 「ソロモン群島のガダルカナル島に作戦中の部隊は昨年8月以降、激戦敢闘克く敵戦力を撃摧しつつありが、その目的を達成せるにより、2月上旬同島を撤し、他に転進せしめられたり」───◇「1942年12月31日の御前会議」については「幾山河/瀬島龍三」p139~に以下の記述がある。(抜粋) 御沙汰により、急遽12月31日の大晦日、宮中においてガ島に関する御前会議が開かれることになった。 海軍との協同研究において出された問題点は2つあった。 一つは、撤収作戦における輸送問題であった。 当初、我々陸海軍幕僚は「高速輸送船を主体とする輸送」案を考えていたが、途中から「すべて海軍の艦艇による輸送」作戦に切り替わった。 山本司令長官の計らいによるものと聞いた。 もう一つは、以後のソロモン方面の防衛主線の問題であった。 陸軍はガ島に対して大きく間合いをとり、「ニューブリテン、ニューアイルランドの線」を考えた。 「ガ島の敵航空基地が整備・強化され、中北部ソロモン群島の防衛強化は困難」と考えたからである。 これに対し、海軍は「それではソロモン群島方面が総崩れになる恐れがある。ガ島は放棄するものの、できるだけソロモン群島の前方を主線とすべきである」と主張した。 討議の結果、陸海軍中央協定の最終案は「ニュージョージア、サンタ・イサベルの線」で決着した。 ・・・ 昭和17年12月31日の御前会議の決定に基づき、陸軍部は1月4日下命のガ島撤収に関する大陸命を作戦課の高山中佐が第八方面司令官に伝達し、第八方面軍では井本中佐が在ガ島第十七軍司令官に伝達した。 ・・・ 昭和17年8月7日の米軍上陸以来、約半年間、陸海軍総力を挙げてのガ島奪回作戦であったが、力及ばず、戦略的後退を選択せざるを得なかった。 我が方の損害は艦艇24隻(13万4839トン)、航空機839機、その搭乗員2362人、さらに陸軍が投入した兵力3万3600人のうち戦死者約8200人、戦病死者約1万1000人、戦病死者のほとんどは食糧不足による栄養不足による栄養失調、マラリアによるものであった。───〓勝手に独断と偏見〓 10月29日の連絡会議では「ソロモン方面の作戦は過失なりと言ふ等種々のデマ・・・」。◇「ガダルカナル島攻略作戦の必要性 昭和17年12月10日」では ガダルカナルの戦闘は敵の最初の真面目なる反攻に依り惹起せるに鑑み之か攻略の成否如何は単に作戦的の価値に止まらす敵の対日積極反攻意志を挫折せしむるや或は此種反攻を爾後各所に企画せしむるやの結果に関し戦争指導上極めて重要なる意義を有す──「杉山メモ(下)」より 「敵の最初の真面目なる反攻」に対して、天皇と指導部は認識を改め「1942年12月31日の御前会議」で撤退が決定、「転進」と報道された。 この御前会議は「ウィキペディアの御前会議」や「杉山メモ(下)」にはない。 機密性の高い事柄に連絡会議は機能せず、天皇との下問・奉答で決定されている。