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カテゴリ:読書
映画ともなった明治三十五年の八甲田山雪中行軍。一泊二日の行程だった青森歩兵第五連隊第二大隊は210人中199人が凍死。一方、ほぼ同時期に弘前から十日余りの行軍を行なった福島泰蔵大尉率いる弘前歩兵第三十一連隊の38人は死者を出すことなく八甲田山を踏破して無事帰還する。 なぜ、同時期の八甲田山中でかくも明暗が分かれたか。著者は福島大尉の甥にあたり、遺された資料から福島の生涯を紹介し、その問いに答える。 福島大尉は薩長閥出身ではないが、地理学を学び、身につけた製図技術(当時は国内の地図も整備されておらず、福島は陸軍参謀本部直属の陸地測量部地形課で全国要地の地図作製に従事した時期も)などで頭角を表し、予想される対ロシア戦へ向けて戦史やさまざまな研究を重ねていた。八甲田山踏破もその目的のために前年には夏期に同ルートを踏破するなど入念に準備されたものだった。 行軍にあたっても対ロシア戦時の山岳積雪地での作戦行動を想定していた福島は所持品に至るまで事前に細かな指示を徹底。水筒の水に少量のブランデーを加えて凍結を防ぐことや凍傷防止のために小便は最後の一滴まで十分に絞り、風に向かっての放尿は絶対に避けること、雪に直接腰をおろさぬための桐油紙の所持まで指示していた。 また両隊指揮官の指導力にも危地において差が出た。雪中、道に迷い前夜の露営地に戻っていた青森隊は山口少佐が「各自、勝手ニ進退すべし」とぎりぎりの決断で自由行動を各自にとらせ、またその後もさまよう兵卒の指揮官的立場にいた神成大尉は「天は我を見放したか!」と呻き、露営地に引き返し、全員枕を並べて死のうではないかと嘆息。それを聞いた兵卒は一様に気力を失ったと生存者は語る。 一方、福島は八甲田山にいよいよ踏み込む段に「これからがいよいよ、われわれの正念場である」と訓示し、雪中露営を止むなく実施することとなっても「吾人若シ天ニ抗スル気力ナクンバ、天ハ必ズ吾人ヲ亡サン。諸子夫レ天ニ勝テヨ」と激励の訓示を行なっていた。この一事をもっても部隊の明暗を何が分けたかが示されている。 だが、青森連隊の遭難は軍人の理想像とすべく美化(勅使が派遣され、遭難者は戦死者と同じ扱いで靖国神社に合祀し、遭難について箝口令が出されて新聞紙面から消える)される反面、福島隊の業績は軍の内部資料にとどめて秘匿されてしまう。 なお、映画と史実の相違点では両部隊は互いの出発を知らず、雪中行軍のさなかも遭難現場でいきあうことはなかった。 福島大尉はのちに日露戦争に従軍。明治三十八年、『坂の上の雲』でも描かれた黒溝台付近の会戦で落命している。日清戦争や台湾守備隊勤務も経ており、まさに日露戦争へ突き進んだ明治日本帝国陸軍を象徴するかのような生涯といえる。文春文庫、1990年刊。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2007年09月07日 12時29分26秒
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