「3月15日 脱原発みやぎ金曜デモ」 自公権力がどう妨害しても再稼働反対の世論は変わらない!
もう春である。私を待っているヤマメはもうどの川にもいないかもしれないが、3月1日に渓流は解禁した。庭には冬枯れの間から芽を出し始めた苗がたくさんある。しかし、川にも出かけず、庭の枯れ草一本も引きぬこともせず、春はどんどん深まっていく。 だからといって、かならずしもぼんやり暮しているわけでもない。それなりに忙しくパソコンの書類づくりをしていたとき、自分が記入した日付で渓流の解禁日から10日も過ぎてしまっていたことを知ったのだった。 そんな暮らしぶりに特別な不満があるというわけではないが、強いて言えば、積極的(意志的)に選び取ったという気分よりは「やむを得ずにこう生きている」と思ってしまうのが残念なのである。「断固として」とか「果敢に決断して」などという人生には程遠いというのが少しく不満なのである(身の程知らずだが)。勾当台公園から一番町へ。(2019/3/15 18:20~18:35) 少しばかり遅刻して勾当台公園に着くと、急ぎ足の県議会議員の一人と会釈をしながら行き違った。おそらく今日の県議会の報告を兼ねたスピーチを終えて帰るところなのだろう。そのとき話していたのは、「県民投票を実現する会」の人で、その話題は当然ながら女川原発の再稼働を問う住民投票条例案が否決されたことだった。 今日の県議会本会議で東北電力女川原発2号機の再稼働の是非を問う住民投票条例案は、自民、公明などの反対で否決された。一人の自民党議員が採決前に退場し、賛成21票、反対35票だった。自民党、公明党は、県民の意思が明確に示されることを極度に恐れて、民意を汲むことを前提とする議会制民主主義を自ら否定することになった。ただ、賛成票を投じた自公議員の多くは県民投票が実施されれば再原発反対票が多数になることをよく知っていたらしいこと、一人の自民党議員が賛成投票に加わらなかったことなど、再稼働反対を訴えてきた私たちを励ますような情況もまた顕わになったことは大事である。 憤りと励みがあいまって、とても元気にデモは出発したのである。一番町。(2019/3/15 18:41~18:53) およそ5年前に「実態とかけ離れる「個人に線量計」調査 7割の家庭で屋内に置きっぱなし 本紙が伊達市で実態解明」という記事が東京新聞に掲載されていたことを最近のネット情報で知った。「宮崎早野論文」の悪辣さに憤った人が再掲してくれたものだろう。 記事によれば、福島県伊達市では年間の被曝線量を調べる目的で住民の8割に相当する53,000人にガラスバッジを配布したのだという。その結果、66パーセントの人が年間1ミリシーベルトを下回ったと伊達市の集計は記している。しかし、東京新聞が現地調査したら図のように、70パーセントの人がどこかに置きっぱなしにしていたのである。2013年12月23日付け東京新聞から引用 行政サイドの意図と離れて逆読みすれば、伊達市の集計は、家の中に置いたままなのに4パーセントの人が1ミリシーベルトを超えてしまうという深刻な事態を証明してしまっていることになる。つまり、4パーセントの2,000人余りは家に閉じこもってじっとしていても年間1ミリシーベルトを超えて被曝してしまうのだ。ましてや、除染が不十分な市街、山野に出かけたらどうなってしまうのか。 さらに、「宮崎早野論文」はそのインチキさにおいて事態の深刻さは計り知れない。70パーセントの人が家に置きっぱなしだったガラスバッジのデータを使って「被曝線量はとても低くて問題ない」という結論の「科学論文」を書いて政府・行政の判断をミスリードしたのである(もちろん、政府・行政サイドはミスリードされたがっているのだが)。 科学論文なのに、データにまったく信頼性がない。加えてデータ処理(計算)が間違っていたと著者自身も認めている。つまりその「科学性」はほとんど皆無なのである。その上に、個人データを許可なく使用したという重大な倫理違反まで犯している。「何をかいわんや」である。 このような科学者はほんのわずか(なはず)だが存在している。ごくまれに科学的実力以上に評価されたい、高い地位を得たいと科学とまったく無関係な欲望につき動される科学者がいるのは残念ながら確かである。「宮崎早野論文」がその典型的な事例である。青葉通り。(2019/3/15 18:54~19:02) コーラーもデモ人も元気である。程度にもよるだろうが、憤りは人を元気にするらしい。7年もデモを続けていれば、今日のような落胆や憤りは何度もあってそれなりにデモ人は鍛えられているのだ。特段にめげてしまう理由なんてなさそうに見える。どちらかと言えばカンフル剤のような作用があるのではないか。 春の宵は濃い。デモが終わり、繁華街を過ぎ、その闇に分け入っていく気分だが、歩けば歩くほど闇は遠のいていく。歩き始めたとき、濃い闇のなかに紛れてしまうと思ったのだったが、一瞬とはいえ、どうしてそんなことを思ったのだろう。けっして消え入りたいわけではないのに………。読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬(小野寺秀也) 小野寺秀也のホームページブリコラージュ@川内川前叢茅辺