キリシタン大名「有馬晴信」
彼の名前を聞いたことがある人は多い。日本史を選択していれば出てくる名前。 キリスト教が伝来して自ら洗礼をし、「キリシタン大名」になる人物の中に彼の名前が出てくる。が、豊臣秀吉の「バテレン追放令」以降は名前が出てこなくなる・・・。 彼がどの様な人生を過ごしたのかが非常に気になって中学3年の時に調べた事があった。 その内容を書こうと思う。 彼は1567年に生まれた。有馬義貞の次男として。兄が早世した為有馬家を継いだ。たった4歳での事である。この頃の有馬氏は、龍造寺隆信の圧迫を受けて、その攻勢の前に臣従せざるを得なかった。 家督を継いだ当初はキリシタンを迫害していたが、後にアレッサンドロ・ヴァリニャーノによる鉛、硝石などの軍事物資の提供によって敵軍を斥けた事に感謝。1580年に洗礼を受けて「ドン・プロタジオ」という洗礼名を持ち、以後は熱心なキリスト教徒となった。1582年には大友宗麟や叔父の大村純忠と共に天正遣欧使節を派遣している。 1584年には島津義久と通じ、沖田畷の戦いで龍造寺隆信を倒した。そのまま島津家と同盟関係を維持すると思われたが、豊臣秀吉による九州征伐においては島津氏と縁を切り、豊臣勢に加わっている。時流を掴む能力はあったようだ。幼い時に後を継いだので世渡りや人を見る目はあったのかもしれない。 1587年に豊臣秀吉の禁教令が出されるまで、数万を超えるキリスト教徒を保護していた。その後も個人的にはキリスト教信仰を守り続けていた。 彼は豊臣秀吉から「日野江城」を与えられたが、その城の瓦は「金箔瓦」が使われていた。「金箔瓦」は豊臣直営もしくは直系の大大名に使用を認められ、豊臣政権の中でも重要な位置を占める城郭にのみ使用を許された秀吉の権力の象徴だった、その使用を認められているのだから豊臣秀吉にはかなり信用されていたに違いない。キリシタン大名であったとしても。 文禄・慶長の役では、同じキリシタン大名の小西行長の軍に属して従軍。26歳から32歳までの7年間を朝鮮半島で過ごしている。その際には九州の一大名らしからぬ装備に日本軍だけでなく朝鮮・明軍もかなり驚いたらしい。もちろん、これらはキリスト教を保護していた事によるポルトガルからの見返りによるところが大きかった。 1600年、関ヶ原の合戦では当初、在国のまま西軍に属したものの、西軍惨敗の報を聞くなり東軍に寝返り、小西行長の居城であった宇土城を攻撃、その功績により旧領を安堵された。 ここまで書くと有馬晴信は「キリシタン大名」と言うよりは「有能な時流を見るに敏な武将」である。ではなぜ彼が大きな名を残さなかったか? それは1609-1612年に起きた「岡本大八事件」による。この事件は教科書に載っていない。 1609年、マカオで有馬晴信の朱印船の乗組員がマカオの市民と争いになり、乗組員と家臣あわせて48人が殺されるという事件が起きた。有馬晴信はこれに怒って徳川家康に仇討ちの許可を求める。 徳川家康は「これを放置しておけば、日本の国家権威が甘く見られる」と判断して即座に晴信に報復するように命じた。 そこへマカオにおけるポルトガル側の責任者アンドレ・ペッソアがノッサ・セニョーラ・ダ・グラーサ号に乗って長崎に入港したため、晴信は船長を捕らえるべく、多数の軍船でポルトガル船を包囲。3日後には船を沈没させた。 有馬晴信の報復処置は、目付役の岡本大八の報告によって本田正純を通じて徳川家康に伝えられ、家康は晴信を激賞した。 有馬晴信は有名なキリシタン大名であり、実は岡本大八もキリシタンだった。その関係から晴信は大八を饗応したのであるが、この時、大八が晴信に「旧有馬領であったが、今は鍋島氏の所領となっている藤津・杵島・彼杵三郡を家康が今回の恩賞として晴信に与えようと考えているらしい」という虚偽を囁いた。 有馬晴信としては旧領の回復は悲願である。岡本大八の主君・本多正純は徳川家康の側近中の側近であり、本多正純が徳川家康に働きかけてくれれば旧領の回復は間違いないと思い込んでしまったのである。そして有馬晴信は岡本大八に金品を渡した。家康へ働きかける運動資金として。しかし岡本大八はこれらを全て自分の懐に入れていた。 しかも岡本大八は、有馬晴信に徳川家康の朱印状まで偽造して渡し、その見返りとして更なる運動資金の提供を求めた。その結果、最終的に有馬晴信は6000両にも及ぶ金銀をつぎ込んだという。しかしそれも岡本大八は全て懐にしまい込み、有馬氏の旧領回復運動の資金として遣うことは一切無かった。 時間が経てども旧領を与えるという恩賞の通達が来ないことに業を煮やした有馬晴信は、遂に直接本多正純に面会し、恩賞を催促した。当然、本多正純は何も知るはずも無く、有馬晴信の訴えを聞き驚愕した。直ちに与力の岡本大八を呼びつけて詰問したが、当人はシラを切り続けた。有馬晴信の嫡男・有馬直純は家康の外曾孫・国姫(松平信康の孫娘)の婿に当たるという経緯から、本多正純は独断で岡本大八を処分することもできず、徳川家康に申し出て裁決を仰いだ。それが1611年末のことである。 徳川家康もこの事件に驚愕し、駿府町奉行に事件の経緯を調査させ、1612年に岡本大八を逮捕。岡本大八は家康の朱印状を偽造し、なおかつ賄賂を受け取っており、極刑は明らかであった。 ここで事もあろうに岡本大八は処刑されるならば有馬晴信も道連れにするべく途方も無いことを言い出した。 「有馬晴信が旧領の回復を策した上に、長崎奉行である長谷川藤広の暗殺を目論んでいた」と徳川家康に吹聴したのである。 長谷川藤広は徳川家康の愛妾・於奈津の兄であり、家康お気に入りの側近の一人であった。これが事実なら、有馬晴信も岡本大八と同じく極刑は免れない。そして、本多正純と大久保長安の立会の下で、直接対決を命じた。 ただ、有馬晴信にも失敗があった。 ポルトガル船のマードレ・デ・デウス号を撃沈する際に3日間を要したが、この時に長崎奉行の長谷川藤広も岡本大八と同じく目付として有馬晴信に付き従っていたのである。長谷川藤広は晴信が時間を掛けてポルトガル船を撃沈しようとしたため、「有馬殿のやり方は手ぬるい」と批判したのである。これを漏れ聞いた有馬晴信は激怒し、思わず「ポルトガル船を撃沈したら、次は長谷川藤広を海の藻屑にしてやる」と口走っていたのである。これを聞いた岡本大八は、有馬晴信が長谷川藤広を殺そうとしている証拠として訴えたのである。有馬晴信は潔白を主張したが、度重なる尋問に及んで遂に長谷川藤広殺害を企んだと認めるに至ってしまった。 結果、裁決が下された。岡本大八は朱印状偽造から市中を引き回しの上で、安倍川の河原において火刑に処された。有馬晴信は長谷川藤広殺害計画と勝手に旧領回復を策した不届きを咎められて、甲斐国郡内に流罪。これにより晴信の所領である島原藩(日野江)4万石は改易のうえ没収となったが、晴信の嫡男・直純は「父と疎遠」であること、「家康の外曾孫を娶って家康に近侍していた」ことなどが考慮されて、有馬氏の家督と所領の相続が認められた。 甲斐国に流罪となった有馬晴信であったが、後に切腹を命じられた。配所においてキリシタンゆえに自害を拒み、家臣に首を切り落とさせ、その人生を終えた。享年46。彼は皮肉にも同じキリシタンに裏切られて一生を終えることとなってしまった。 そして島原藩の所領を継いだ息子の有馬直純は何をしたか? 幕命によってキリシタンを迫害し始めた。自分が父の様な結末になる事を恐れたのだろうか?所領を継いだ翌年には亡父とキリスト教徒の後妻(流罪になった)の間に生まれた8歳と6歳の異母弟を殺害。 が、彼も良心の呵責にさいなまれたのか、転封を願い出て日向国に行った。 1637年に旧領で起こった天草・島原の乱には、地理に明るいことから4,000名近い軍団を率いて征伐軍に加わり、自らの旧臣や元領民と対決した。彼は何を思って戦をしたのだろうか?今となっては分からない。 中学3年でこういう事を知った。知るんじゃなかった、と言うのが正直な感想だった。