カテゴリ:映画・読書・音楽会その他
今日は、午前中は、伊丹三樹彦の「社俳亭俳話」を読みながら過ごし、午後は、図書館へ行ったあと、大阪歴史博物館で開催された歴博講座「山根徳太郎以前の難波宮」を聴きに行った。講師は、当館学芸員伊藤純氏だった。
図書館では、DVD4巻を借りた。比叡山延暦寺、高野山、となりのトトロ、おもひでぱろぽろなど。 講座は、初め45分は伊藤氏の講演、後の45分は、栄原館長と伊藤氏の対談で主として栄原氏が伊藤氏に質問する形であった。その概要は次のとおり。 「山根徳太郎以前の難波宮」の講演では、世間では難波宮の発見は山根徳太郎ということになっているが、実際は、大正2年に陸軍の建築技師・置塩章(おしおあきら)によって瓦が発見され、大正5年の「史跡調査委員会報」や「郷土資料陳列目録」にその瓦は奈良時代のものに違いないと記載されている。山根は大正8年にその瓦を置塩から見せられている。また、昭和27年にも二人は会っている。 山根の提唱で発掘調査が始まったのは昭和29年だが、その後の報告でも、その瓦が奈良時代のものだと推定したのは自分であると言っている。山根は大正5年の二つの報告書を見ていないと思われる。その後、いろいろな報告書が出ているが、二つの報告書に言及したものはないし、置塩氏の名前はただ瓦を所持していた人物ということしか述べられていない。 伊藤氏の調査によると、昭和5年以降12年までの間に、置塩氏の2つの報告書を引用するような文献が多数(23件)出版されている。著者の名前は、天坊幸彦、八木博、高橋直一、大脇正一、竹山真次、石井信一、梅原忠次郎、古川重春、鈴木政吉らである。山根はこれらの文献を何も見ていなかったのであろうか。彼めの文献の引用文献は、明治時代のものと、わずかに上記23件のうちの一件(竹山真次)を引いているだけ。 これについて、伊藤氏は、山根の専門は文化史であっは古代史や考古学の専門家ではなかったことを指摘する。いわば、考古学、古代史については素人で、発掘に取り組んでからもあまり、その基礎を勉強しなかったのではないかと推測している。しかし、なぜ、あれほどまでに発掘に執心したのかはよくわからないという。 画像は、講座の模様。上:チラシと立看、講演する伊藤純氏、対談する栄原館長(左)と伊藤氏。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2016.03.03 08:41:25
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