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カテゴリ:瑠璃光記
最近、自分はずいぶん自分のペースで今まで生きてきたんだな~と気がつきました。 それなりに気を遣い、それなりにぶつかり、調和に混乱は日常茶飯事で、いろいろあります。それは誰だって多かれ少なかれ同じことです。 すべてが気持ちよく流れに乗って、物事が思い通りに展開したこともあったし、自分ばかりが損してるように、被害的になったこともあったし、それらの大まかな帳尻はあっているような気がします。 この時期に、受験生の息子と、何とかのひとつ覚えでぶつかっていますいいかげんにしたいと思いつつ、後でへとへとになるとわかっていてもぶつかります。 こちらは親で向こうは子。こちらは、未熟な面ばかりが目に映り(なんでこんなにアホなんだろうと歯ぎしりしたくなります)ますが、あちらだってあちらなりの言い分がある。わかっていても腹が立つ。 息子のアホさ加減と、それが自分の子どもであることと、自分の学習能力のなさにもこんちきしょうでございます そんな中、セドナメソッドで自分の思い込みをどんどん解き放ち、こり固まっていた「自分は○○だから無理」とか、「今までこれで大丈夫だったからこのままでいい」「変わるとまた一からで面倒臭い」という気持ちもどんどん解放し、「ちゃんとした親でないとまずい」「親こそが手本にならないと」「親は私ひとりなのだからきちんとしないと」等の制限もどんどんとっぱらい・・・。 すると、今まで気がつかなかった自分の奥底にあった、コントロールしたくなる自分、制御されたい自分、息子に罪悪感をもつ自分、恨みにしばられた自分が見えてきて、ちょっと呆然としています。 ただ、自分独自の持ち味があるってことも知っていて。 解き放ち、どんどん自由度が高まっても、相変わらずの自分がいて。かえって自分のコアの部分を見つめる秋になって、へこむへこむ・・・でも本当に楽になる・・・嬉しい。 そんな中で、自分がある状況の中で、意に添わず無理に変化させられることを「負けた」と思う癖(学びと成長とも受け取れます)や、「変わらされた」ことに屈辱を感じたり、すねたり恨んだりしている自分が見えてきました。 また、普段こんなに無理してがんばっているのだから、せめてこれくらいは無条件に通してほしいな、と思う癖。壁をつくり籠城したがる私。大声ときつい口調が苦手で、それらを「反論」と受けとめて逆上し、戦いになるパターン。 いやぁ面倒くさい自分。でも大切な自分。 そんな自分もどんどん解き放っていく。幼い頃の自分からあった癖。小学生のピアノのお稽古からあった、先生の言うことを聞かない、頑固な自分を思い出しました そんなものを解き放ったら、何が出てくるのかな・・・という不安。 結構スリリングです。自分は癖や思い込みで出来ているような気さえしてしまい、それがなくなったら一体私は・・・?とも。 それも解き放つ。 日々そんなふうに過ごしています。 クラゲの成分のほとんどは水です。 人の7割も水。水に転写された過去の経験からくる意志や思い込みや癖が、どんどんはらわれてきれいに清められていくと、一体その水はどんなものになるのでしょう。 原初の水。生まれたての水に近いかな。 祓い清めて、自ら(水)に帰る。 その水に何を映すか・・・これからの時代は、それを問われるのでしょう 自らの意志。 それで、映すものを決める。 世界はどんなだろう。 クラゲの目には(目があったかな?)世界はどう写っているのだろう。 私は、屋久杉のごとく大地に根を張り、美しいシンフォニーを奏でながら、春夏秋冬、なめらかに循環していく世界を見つめていたい。 そして自分も、その美しい循環の中にいて、時期が来たら熟し、つなぎ、そうしてゆるりと朽ち果てていきたいです。 今年の秋は、栗も柿もお米もお芋も絶品です。 そんな収穫を味わいながら、いただく毎日です。 感謝です 【華アートin竹富島】のお知らせ♪ 11月18・19日に、沖縄・竹富島(石垣島よりフェリー10分)に滞在します。あなたの華アートを描かせていただきます。 ご希望・お問い合わせは、下記よりメールでどうぞ♪お会い出来ることを、心から楽しみにしています → 「華アート」 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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