「学ぶ」とは「知らないことを知ること」ー内田樹『街場の大学論』
電子書籍読書で、もう少し「学び」について考えてみた。街場の大学論 ウチダ式教育再生(角川文庫)[電子書籍版] 2014年 内田 樹内田樹氏のズバリ発言は至って分かりやすい。世界史の必修化で、膨大な知識が敬遠される傾向について、ネット検索の時代に知識が軽視されている。そこで内田氏曰く、「学ぶ」というのは、キーワード検索することとは別のことである。自分が何を知らないかについて知ることである。自分の知識についての知識を持つことである。自分の知識の幅を自覚して、「何を知らないか」を知ることが「学ぶ」ことだと言う。以下引用、それは「知識をふやす」ということとは違う。「知識をふやす」というのは「同一平面上で水平移動域を拡げること」である。「知識についての知識を持つ」というのは「階段を上がること」である。「階段を上がること」とはどういうことか?比喩的だが意味深長な言い方である。思うに、知識によって自分を高めることであり、自分を取り巻く世界を立体的に拡大していくことであろう。では、学校で学ぶ知識は意味があるのか?内田氏は、学校とは子どもに「自分は何を知らないか」を教える所で、受験勉強は「自分は何を知っているか」を誇示するものだという。なんともズバリと言い切ってくれるものだ。学校での多様な教科学習を通して、自分は何を知らないのかがわかれば、学校に来た甲斐がある、とまで内田氏は言う。受験において、または社会に出て役に立たない勉強を「知る価値のない知識」として、学習内容を最低限に削ぎ落とす学校がある。本来の「学び」を考えるならば、こうした学校は存在価値がないということになるだろう。(但し、大学へ入ることの実績は稼げるわけである。)こう考えると、学校での「学び」の意味は分かりやすい。つまり、知らないことを知ることに意味があるのだ。内田氏は、さらに「学び」の意味を追求する。以下引用「自分の知らないこと/自分にできないこと」の中に位置づけられてはじめて「自分が知っていること/自分ができること」は共同的に意味を持つ。この「共同的に意味を持つ」とは、どういうことだろう?内田氏は解説していない。氏の言いたいところは、「知らないことを知ること」の大切さ、それが真の知識による「学び」となる、ということであろう。先に苅谷剛彦氏の「学び」論に「想像の共同性」という考え方を上げた。目に見えない共同体を想像する「学び」が必要であり、他者との関わりの中でフィクションとしての共同体を想像する力が要求される。苅谷氏の視点は自分と他との関わりの中での共同性であるが、内田氏は知識相互の関わりを言う。ここで、「相互の関わり」「共同」というキーワードが共通している。現代の「学び」を考える時、「相互関係」「共同性」を視野に入れることを提言したい。今、何をどう学ぶべきか?自分だけでなく他者を含む相互関係の中で、本当の知識を見極め、共同の利益を視野に入れて「学び」のあり方を、そして、何のために学ぶのかを考えるべきであろう。知らないことを知るために、想像の共同性を高めるために、どんな「学び」を用意するのか?学校教育のあり方も変わりゆく時期を迎えている。