対馬あれこれ その16 対馬の遺跡はスケールが違う!
先日、久しぶりに対馬を訪れました。今回は、改めて「遺跡の島」であることに驚かされました。対馬の遺跡は歴史だけでなく、そのスケールにおいても私たち現代人を圧倒します。古くは七世紀の山城から太平洋戦争の遺跡まで、戦争に関わる遺跡が多いことは、対馬が軍事の要衝であったことをそのまま証明しています。外交問題を思う時、対馬の遺跡に往時の外交を偲び、今後の日本を冷静に考えてみることも必要かも知れません。さて、歴史ある遺跡では667年に築かれたとされる古代山城「金田城(かなたのき)」があります。663年「白村江(はくそんこう)の戦い」で大敗したため、朝廷は唐・新羅連合軍が本土を侵略するおそれから、筑紫・壱岐・対馬に防人・烽(とぶひ)を設置し、西日本各地に古代山城を築き、大陸からの侵略に備えました。その時の城跡が現在も残っています。以下は、一昨年撮影した城壁と建物跡です。この「堀立柱建物跡」は、七世紀後半の建物跡であるらしく、2002年の発掘調査で発見されました。貴重なものが、まだまだ対馬には埋もれています。古代建物の研究に資するところ大きいものと言えるでしょう。ここからの眺めも素晴らしいものでした。写真では見えませんが、実はここからも朝鮮半島が見えました。対馬の中程の位置ですが、大陸へ続く半島が見えるとは、対馬の地理的重要性がよく窺えます。さて、これらは歴史的な深さを示す遺跡ですが、今回感動したのは、そのスケールが大きい近代の遺跡です。それは、「姫神山砲台跡」です。美津島町緒方の姫神山山頂に位置し、対馬海峡東海岸に出没する敵の艦船を攻撃するため、28センチ榴弾砲が6門も装備された規模の大きな砲台です。この砲台は 明治33~34年(1900~1901年)にかけて建造され、レンガと砂岩、セメントで構成されています。何と、今から100年以上前、日露戦争に備えての軍事施設です。以前から遺跡は知られていたのですが、一般の人は入れる状況でなく、あまり訪れる人はいなかったそうですが、つい最近の2010年度に道路整備と周辺樹木の伐採を行い、かなりの規模であったことがわかり、観光資源となったのです。その保存状態は良く、規模も相当なものでした。当時の門柱がそのまま残っています。兵舎の入り口には、当時の井戸もあり、生活をうかがわせます。砲台の間に続く兵舎の規模にはかなり圧倒されました。兵舎の先には、砲台跡があり、これもよく残っています。100年以上前のものとは思えません。そして、そこからの眺めの良さは言うまでもありません。今からずっと前に、この山からロシアの艦隊を狙おうと緊張していた日本人と、湾の眺めを楽しむ現代人。歴史の流れとともに、人の生きてきた流れ、人が築いた歴史を感じずにはいられませんでした。姫神山にある近代遺跡のスケールを感じながら、人の力の偉大さ、それをどこに使うべきか、など「人」のありかたに思いを馳せる、対馬は「人」の大切さを感じさせる島であることを改めて感じる旅でした。また、早く次の対馬に行きたい、と早くも感じる今日この頃です。