広がるオーガニックの輪 ~温度差を乗り越えて 親戚編~
私がオーガニックに目覚めたのは、息子が生まれてから。離乳食からオーガニック食材を使うようになりました。私達の場合、大勢の親戚で集まる機会が年に5回ほどあり、それ以外にも、子どもが1人の頃は家がそれほど離れていたわけでもなかったので、双方の両親を月に1回程度訪問していました。離乳食にオーガニックの素材を使うことにはそれほど抵抗は受けませんでしたが、ノンシュガー、そして、親と同じものを食べるようになったら、私たち夫婦までがオーガニックの食生活を始めるようになったので、親戚は少しずつ心配するようになりました。親戚の集まりや実家に行くたびごとに、「そんなに過保護で免疫力がおちたらどうする?」「温室育ちのもやしっ子にしたいのか」「砂糖を与えないなんて虐待だ」「友達の家でおやつを食べたら子ども罪悪感で悩むようになる」「親の偏見のせいで子どもの視野までせまくなる」「発育不全になったらどうするのか?」「きっと将来子ども達はジャンク中毒になる」「子どもを預けられなくて自分達の首をしめている」「きっとすぐに限界になって方針を変えるだろう」などなど、、、いろいろな意見をいただきました。特に、双方の親としては、自分がやってきたことを否定されるような気持ちになって、受け容れられない、、、ということもあったのかもしれません。母親達は、そこまではっきりとは言いませんでしたが、遠まわしに、「孫の将来が心配」だとは言っていました。これだけのことを言われると、普通は、距離を置こうとするらしいのですが(^_^;)、私達の場合、何かを言われても、その意見に対して、自分達の入手した知識を話したり、または、その場で十分に説明できないことは、次回の集まりまでに勉強してきちんと説明するようにするようにしました。決して、親戚づきあいを避けるのではなく、妥協するのでもなく、とにかく、私はどのような集まりにも、子どものために手づくり弁当を持っていき続けました。↑一番最近の法事に持って行った子ども達3人分のお弁当そのうち、少しずつですが、親戚の間に変化が現れてきました。私の話をメモを取って聞いてくれる人。とりあえず、塩だけでも自然塩に変えてくれる人。大地宅配に入会してくれる人。相変わらず否定的なことを言いながらも、からかうようなことは言わなくなってきた人。困難を承知で続けていることを評価してくれる人。そして、最初はレストランでの会食ばかりだった親戚の集まりも、ついに法事以外は、誰かの家での食事会になり、、、私が13人前の料理を作るようになりました。手元で味をつけてもらえるような料理にしたり、イタリアンの次の集まりでは純和食など、大勢のための料理を考えるのも作るのも、とても楽しめています。もちろん、全員の人がおいしいと言ってくれるわけではありません。それでも、「味がしない」→「味が薄すぎる」→「素材の味がする」まで変化してきたのは、私の料理の腕があがっただけではなく、たぶん、みんなの意識が変わってきた証拠ではないかと思っています。どうしても食後にアイスクリームを食べたい人がいるのですが(^_^;)、そのときは、私がクレープを焼き、アイスクリームと果物を中に入れる人と、マクロビ仕様の具を中に入れる人にわけたり。そういうことができるようになったのも、ひとえに、私の両親が理解を示すようになってくれたおかげです。また、以前も少しお話しましたが、義理の母も、私達が遊びに行く時は、オーガニックの食材を揃えて待っていてくれます。最近は、揃えた食材で、義母のおいしい手料理をいただくこともあります♪義母とは食べ物の方針のことで真夜中まで涙を流しながら話し合ったこともありましたが、今は、子ども達が元気で健やかに育っていることを心から喜んでくれて、いろいろな面で私達の方針を尊重してくれています。子ども達が、義母の手料理を「おいしい♪」と、満面の笑みで食べてくれることが嬉しいということもあるのかもしれません。私達を良く知っている身近な人たちに否定されているうちは、まだまだ私達のやり方には積極的に改善・反省をする必要があると思っています。ということで、これからも、私達の食へのこだわりは進化し続けていきます!ところで、「身近な人たちに食へのこだわりをどうしたら理解してもらえるのか」、、、マクロビや自然育児をしている方からよく相談されます。一番反対していた親戚の1人が考えを変えるようになったきっかけの会話の概要をお教えしますので、少しでも参考になれば嬉しいです。A「私は小さい頃からこだわりなくいろいろなものを食べてきたが、今まで大きな病気もしなかったし、何の問題もなかった。好き嫌いを言っている奴ほど体が弱くなるものだ」私「確かにAさんは、とても元気でいらしゃいますよね。ぜひ、Aさんが私達の子どもと同じ歳のころに召し上がっていたものを教えてください」A「5,6歳になるまでというのは、戦中・戦後のことだから、食べられるものは限られていたから、それこそ好き嫌いなんていわず、食べられるものは何でも食べていたよ」私「具体的には何を召し上がっていたのですか?」A「薩摩芋、大根ばかりだったなぁ。米は少し。庭で作った葉物が少し。とうもろこしやトマトも庭で作ったよ。漬物、山菜、味噌汁、、、小魚。卵なんてめったに食べられなかったなあ。飼っていたヤギのミルクはおいしかったなあ。」私「ヤギのミルクは人間の母乳の組成に一番近いそうですね、、、ところで、野菜はどのように栽培されたものだったのですか?」A「配給のものもあったから、わからないけれど、化学肥料や農薬を使う余裕はなかったんじゃないかなあ」私「ということは、Aさんが召し上がっていたものは、生命力のある健康な野菜・穀類だったのでしょうね。小さくても味は濃く、匂いも強かったのではないですか?」A「たしかに不恰好なものが多かったけど、おやつの時はトマトやきゅうりをまるかじりして、甘くておいしいと思っていたなあ」私「野菜を甘いと感じていたということは、砂糖を使ったおやつはあまり召し上がらなかったのですか?」A「砂糖なんて高級品を食べられる家はその当時限られていたからなあ。せいぜい、芋飴が甘いおやつだったよ」私「子ども時代に、体によいものばかり召し上がっていたのですね。6歳までの食事が一生の健康の基礎になるといわれていますが、Aさんは、まさにその証人のようなものですね。Aさんが子どもの頃は選択肢がなくて仕方がなかったのかもしれませんが、逆に今のような誘惑の多い時代には、子どもの健康に責任を持つためには、親が注意深く食べるものを選んでやらないといけないと私は思っているのです」もちろん、会話はまだまだ続きました。私は以前は病弱で、保健室登校をしていた時期もありました。胃も腎臓も弱く、小さい頃から毎日のように腹痛で苦しみ、熱を出していました。今、毎日を健康のことを気にせず生活できるほど健康でいられるというのは、私にとっては奇跡のようです。食べ物に気をつけるだけで、子ども達が腹痛の辛さから免れることができることも実証済みです。ということで、私は子どものためにも、自分のためにも、妥協することはできませんでした。妥協しないということは、考えの違う相手を傷つけることになりがちです。だからこそ、私は対話を大切にし、積極的に自分から話題をもちこむようにし、相手の意見をまずよく聞くように気をつけました。親戚だからこそ、私達を大切に思ってくれているからこそ、不安も強く、批判的になるのだろう、と思っています。私達は、自分達のこだわりを他の人も実践するべきだ、と思っているわけではありません。ただ、私達のこだわりは決して相手を否定するものではないということを分かってもらいたい。できればお互いの信念を尊重しながら楽しく一緒に食事がしたい、、、と思っているだけです。相手の不安を取り除けば、きっとわかってもらえると信じること、、、それは相手の人格への信頼ではないでしょうか。そして、相手の幸福を願いながら話をすれば、わかってもらえるということも、わかりました。親戚との対話から多くのことを学び、その経験は確実に、より多くの輪へとつながっていきました。次回は、さらに大きな壁を乗り越えた体験の話をします☆とても参考になった本:・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【前回の記事の補足】持参した料理酒について書いていませんでした(^_^;)料理酒は、無農薬・無化学肥料・無除草剤で契約栽培されたお米を使って愛情をたっぷりこめて作られている、こちらの吟醸清酒を使わせていただいています。飲んでもおいしいのお酒は料理に使ってもやはりおいしい。最後の子どもの授乳が終わったら、料理酒で乾杯の予定☆