|
全て
| 家族
| お料理
| 建物
| 天候
| 行事
| 旅行記
| イランの生活用品
| イランでの生活
| 趣味
| お店
| 病気
| 追憶
| 言葉
| 私見
| 事件、事故
| 幼稚園・就学
| 社会問題
| 夢
| 翻訳
| 楽天プロフィール
| おとぎ話 ”春”
| 短歌・俳句如きもの
| English
| ひとりごつ
| 2014来日記
| 奇譚
| 詩
| Picturesque views from my eyes
| 波風の逢瀬
| Short stories
| ジョーク
| 素描
| レビュー
| こたふこだま
| 2017年来日記
| 私のお気に入り
| 2019~2020ふゆやすみ
| バイト
| 新型コロナウィルス
| フランス語
| 螺旋 こたふこだま
| Instagram
カテゴリ:私見
”あるがままに” ラマナ・マハルシ著 を読み始めて想ったこと・・・ (まだまだ途中ですから、記事を訂正することもあるとおもいます<(_ _)> ) 昨夜は遅くまでマハルシさんの本を読み耽りました。 私と彼の視点が別れたのは私のフリーページにある 盲点・醜悪 という記事を書いた時からだろ うなっと思いました。 マハルシ氏は真我は至福だとおっしゃています。真我は意識であり 私は私であるもの 存在-意識-至福 と説明されており、 私が二十歳の時に 私は私以上でも私以下でもない と表現したものに当たるのだろうと思っています。 (”私は決して私を超えられない 自己愛 私欲を捨て 我を取り除いても 私は私以上でも以下でもない むしろ我を消滅している無意識と言われる中にこそ私が顕著に存在するのか? しかし私は私のみではない 貴方はその事に気づいているだろうか? 私が生を受けた時から そしてこうしている今も 時と空間と 肉体を超えた私が存在することに あなた自身気づいているのだろうか?” 以上1990年記) 真我を言葉で説明するとしたら、自我に覆われている真我をみいだしたものは解脱したということですが、 マハルシ氏は生死も輪廻も、解脱も幻だと書いています。その通りだと私も思います。 真我以外のものは、無限世界という(真我的)視点からみると、 生死も、輪廻も、解脱も、医学も科学も、善悪も全て、何もかも!!!が、 真我というスクリーンに映し出された単なる幻想・幻影なんです。 私流に 真我(私という存在) というものを表現するならば 私が以前みた夢の中で、私は視覚的イメージとして 私の意識に映ったものだろうと思いました。 その夢の内容とは以下のようなものでした。 ”大きな干潟が広がる海にたどり着いたと思ったら、 自分がどんどん上にあがっていって、 海は空からの光を反射して大きな鏡のように輝いていました。 海の鏡よりももっと光り輝く、上空に向かって私はどんどんあがって行き 光のシャワーを浴びて、自分が清められていく、そんな夢を見たことがあります。 自分はもともとはこの光のかけらだったんじゃないか、 そしてそこへ戻っていったんじゃないか?って夢から覚めた後に思いました” 私という存在これは即ち、あなたという存在でもあるのですが、、、(この辺りは 私のフリーページにある 盲点・醜悪 という記事をご覧いただけると 私が申し上げたいことがよくご理解いただけることと思っています。) 私(あなた)という存在の源は、もし人知では計り知れない世界・宇宙・高次元の世界を とてつもなく眩しくて見ることのできない光のようなもの と私が見た夢の中のようなものと考えるならば、 そのとてつもなく眩しくみることのできない光の一部、片鱗、かけらではないだろうか? と私は思っています。 マハルシは 私たちがみているこの現実世界だけでなく、生死も輪廻転生でさえも 幻想(夢と何らかわらないもの) だと述べています、 心を含めた自我 が生まれた時が、いわゆる誕生であり、 それは今実際にみている(と錯覚している)イメージが誕生する瞬間のことであり、 自我のない生まれたての赤ちゃんには、まだ世界というイメージは誕生していないわけです。 そして、私たちは自我を放った時、または自我から解き放たれたときに、 真我が現れ、それは大きな光の一部、片鱗に等しいものだろうな・・・ と私は思っているわけです。 これは何も死を迎えたときにそうなるのか?というわけではなく 真我を見つけたときに、きっとそういうものだと感じられるのではないか? っと私が想っているものです。 真我とは、すごく簡単な言葉を使うと、無限世界とリンクする 無限世界の視点を持つ みたいな感じかしら? 私がここ最近、精神だけでなく肉体にも無限世界とリンクしていると書いているのはこの辺りと関係がありそうなのです。 もちろん心も身体も幻想だけれど、幻想をひきおこす心とか自我というものは 真我という土台がなければ、決して現れないものなんです。 ですからたとえ幻想であろうとも、心も身体も突き詰めていくと 真我 が土台として存在します。 だからこそマハルシは 真我は到達するものではない、解脱も達成するものではなく すでに存在するもので、しかも実在するのは”真我以外にはない”とおっしゃっているんです。 このあたりはクドクド説明するのは邪道でしかないんです、本当に・・・・。 名前・名称・言葉を使うことこそが、自我を助長し、真我を曇らせる行為なので 言葉で説明すれば説明するほどに、自我と真我を混乱させてしまう という堂々巡りなんです。 だからこそ、マハルシ氏は 沈黙 でいらした時期があったと書いてありました。 私も自分の中の永久不変なもの(真我)の存在に気づいた時、しばらくの間そういう感じでした。 そういう点から言うと、こんなに 真我 についてクドクド言葉を並べている私は皮肉なことに、 言葉のマジックに心頭している私(Maryam)ゆえに、日々 真我 から離れる行為を行っていると言えます。 たとえ、幻想・幻影とかいうマヤカシの世界であると重々承知していても、 その中に耽溺したい と私の自我の一部である欲望(これも幻想)波打っているのです。 そうでもこうでもしない限り、私は真我が映しだす幻想という像(現実世界とかいう名がつけられているもの)に ”飽きて・放棄したくなる”んです。 真我を=至福 と表現し、そこにとどまった状態をキープし続けたのがマハルシ氏。 真我に留まることを拒絶するために 醜悪 だと言い放ったのが私。 そして真我を覆う 自我 というものを 昼の月・夜の月 という記事の中で 大いに結構、敢えて私はその 自我(煩悩・現実という名の幻想)の中に留まらむ! っと肝据えたのが私。 私のスクリーン(真我)には、はマハルシさんのように神聖域で昼夜をすごすことが許されるという、 幻想は映し出されていなかったから。 私はたとえこの現実が夢とおなじような幻想であったとしても、 敢えてその中でもがき、苦しんでも 心が映し出す幻想(心さえも幻ですが)という煩悩の中に とどまりたいとおもったのです。(私が自分を マゾ だと思うのはこの辺りでしょう。) 敢えて鬼コーチの鉄拳を受け続ける存在(それも幻ですけれどね)、でいようと想ったのです。 私が ”あるがままに ラマナ・マハルシの教え”の数章から想ったこと、それは・・・ サダメの鬼コーチとは、私自身である っということ。 そしてまた、私にだけ特別に存在しているわけでもありません。 鬼コーチは あなた でもあるんです。 そしてまた、あなたにも鬼コーチがいます。 だってそれはあなた自身の中に存在して いつだってあなたの傍らに立っているんですもの! にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2013年04月19日 16時10分45秒
[私見] カテゴリの最新記事
|
|