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カテゴリ:追憶
この前あなたに差し上げたお便りは、 まだ冬将軍が鎮座していた2月でした。 その後いかがお過ごしでしょうか? こちらは、あの時の冬将軍様のお姿を垣間見したいほどに、 暑い日々が続いております。 あの手紙で私は、あなたにいただいた言葉、 ”感性でとらえるか、感情でとらえるかは品性による” に従って、自分の過去を見直したいと書きましたが、 あれから今まで半年という期間、 長かったのか?あっという間だったのか?言葉にできないような過ごし方をしております。 どうやら私は、時間の流れの感覚を失いつつあるようなのです。 過去 というのは、 ないがしろ にしてもいけないし、こだわりすぎてもいけない ということには、数年前に気が付いていました。 しかし、過去・・・という言葉を使うと、 どうしても私は、感情を揺るがされてしまうようなので、 過去 というものの枠を、もっと大きく捉えてみようと思いつきました。 過去と自分との間に距離を作るために、 過去を ”歴史”という言葉に置き換えて眺めてみることにしたのです。 過去という主観の入りやすいものに、 歴史・・・遠く遠くへ過ぎ去ったもの、というマスクを被らせ、 振り返ってみようと思ったのでした。 すると、歴史(過去)とは過去の事実であるっと思わされているものを 積み重ねて作られた ”壮大な物語”であり、 物語には ”作者” が存在する ということに気が付きました。 この作者というのは きっと己の場合もあれば、他の場合もあるのでしょうけれども。 そして現代(今) と、思われているものが、歴史(過去)になったとき その時のリーダー的な国々(人々)、 その時の風潮・価値観による視点の歴史(過去)として存在する・・・ それを 歴史(過去) と我々は思わされているようです。 でもそれは、過去の事実とか どちらが善とか どちらが悪などと、 とても とても 判断、理解できるものではなく、 たとえ歴史(過去)の中で 善悪 に触れられていても、 思い込みとか、思い込ませているものでしかないのであろう、 と私は思っています。 そういうことをふまえると、歴史(過去)を見ていく上で、 何が大切になってくるかというと、 a balance(一種のバランス感覚) だと私は思いました。 おそらく、それがあなたのおっしゃる 感性 という言葉に当たるし、 そして決して、感情や主観に惑わされることのない、 バランス感覚 に優れるということが、品性 というものではないか?と。 そして歴史(過去)の限界は、過去の事柄故に、 ”推測される・推量される”から離れられないことにあります。 どれほど balance感覚 を行使しても、”事実はどうであったのか?”は確かめられることはない っということです。 それが 歴史物語(過去物語) やいろんな 歴史観(過去の評価・批判) が存在する理由であり、 でもそういうものは、○○史 と教科書や書籍として記されているものでさえも、 所詮は”小説”と重なる部分が存在するということです。 日本と韓国、中国では、同じ歴史的事柄(過去)を異なって捉えていることことが、明白な事実であるように。 そして歴史だけなく、現在という時が、刻一刻と流れる様でさえ、 我々一人ひとりは、己の心象とか、好悪、善悪などという、 様々なフィルターを通してしかみられないし、 しかもそれは、推測・推量の域を出ることはないということです。 っということは、同じ過去の出来事を、 私とあなた、彼、彼女、誰か にとってはそれぞれに捉え方が異なり、 異なる過去(物語)になっているということを示してもいます。 *************** そういう限界があっても、それでも 歴史(過去)を振り返ることは大切なことである と私は思っています。 日本人でも、韓国人でも中国人でも欧米、中東の人でも 自分の視野、視点を広く、深く、大きくするためには 如何にその人の balance感覚 を行使して過去(歴史)・現在、未来 を眺められるか? だろうと私は思っているからです。 歴史(過去)は、その人(その国)の立場によって、コロコロと変わるものです。 そして、それを 利用しよう という立場の人々も沢山います。 日本書紀 でさえ、、、、歴史を利用した書物であり、 歴史(過去の出来事)というものは、利用しようと思えばいくらでも、 その国、その国民、個人の思想や価値観、善悪へ影響を与えることができるものであります。 だからこそ、その国(その人)の歴史(過去)観 を見れば、 その国(その人)の 品性 を理解することが可能である とも言えます。 歴史教科書問題 というものが大きく取り沙汰されて久しいのですが、 このことが大問題とされる理由は、 歴史(過去)というものが現代社会・現代の人々に与える影響力の大きさにある ということなのだと思います。 このことを別の言葉で言い換えてみると、 世界的に認められている世界史観が、 どこの世界、どこの国、どこの国の人々にとってもより普遍的で、 よりバランス感覚に優れたものであれば、 その時代の世界の質(品性)は高いものである と言えるでしょう。 こう考えてみると、今の世界(世界状況)はまだまだ、 どこの国も、自国にとって有利な世界観を押し付けようとしている風潮が明らかでは? と感じています。 ”地球はまだまだ、発展途上世界” といえるかもしれません。 *************** balance感覚 を行使して過去・現在、未来 をみる 感性で物事を捉える 言葉にしてみると、なんて簡単で素っ気ないのでしょうか!! ・・・・・・・ しかし、ここにも大きな落とし穴が潜んでいると私は感じているのです。 客観に陥いることは、主観に陥るのと同じぐらい弊害がある と感じているのです。 徹底的な客観に身を投じるならば、 主観も徹底的に撲滅していかなければ、大変危険であると私は感じているのです。 なぜなら、徹底的なbalance感覚が己(主観の元となるもの)に向けられたとき、 己(主観の元となるもの)の拠り所とも言える、 パーソナリティ というものを徹底的に批判し始め、それに大打撃を与えることになりかねないだろう と思うからです。 **************** 夏という季節、まもなく日本は、原爆投下・終戦記念日ですね。 私の脳裏には、炎天下と耳を劈くような蝉の鳴き声、 汗を流しながら黙祷するふるさと(日本)の人々の姿が浮かび上がってきます。 この歴史的事実を、個人が、日本が、世界各国 は如何に捉えるのか? 感情的な主観によって捉えるのか? 感性という一種のバランス感覚を行使するのか? 戦争のない平和な未来 という言葉が示す状況が、 夢のままなのか?現実となるのか? は、きっとこの辺にかかっているのでしょうね。 以上が、 ”感性でとらえるか、感情でとらえるかは品性による”ついての現段階の私の考察です。 あなたの口から、いとも簡単に飛び出してきた、 たった一つ言葉の意味を理解するのも、 私にはまだまだ、時 が必要なようなのです。 にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2013年08月07日 10時37分05秒
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