東に江戸川、西に中川が流れ、平坦で地味肥沃な吉川地域は、古くから農耕に適していました。七世紀から八世紀の歌を集めた万葉集の東歌にも「鳰鳥の葛飾早稲を饗すともその愛しきを外立てめやも」とあることから、千数百年前から早稲米の産地であったことが分かります。
その後も河川を利用した東国物資の流通拠点として価値を高めました。室町時代初期には下総国下河辺庄吉川市といわれる交易市場が開かれ、物資や人々が集まり大きく栄ました。
江戸時代には幕府の直轄領となり、新田開発が押し進められました。有数の水田地帯となった吉川地域は、さらに「早稲米」産地として発達。米の生産量が多くなり、年貢米や商品米が盛んに江戸へ積み出されるようになると、ますます河川交通が活用され、川に挟まれた吉川は、その地勢から一大産業地方都市として繁栄しました。
今もわずかに残る平沼河岸の倉庫群は当時の面影をしのばせています。
このように川で栄えた歴史をもつ吉川では、川の文化がはぐくまれ、川魚料理という食文化が根付きました。江戸時代初期には、河岸付近に川魚料理を売り物にした料亭が軒を連ね、物産とともに集まった人々の舌を楽しませてきました。
川魚料理は「吉川に来て、なまず、うなぎ食わずなかれ」といわれるほどの名声があり、新撰組の近藤勇、元総理大臣福田赴夫氏、同中曽根康弘氏なども吉川に来て食しています。
また、川は人々にとって食材の宝庫、憩いの場として身近な存在でした。川魚漁や川で遊ぶ子どもたちの姿が日常的に見られ、家庭では、なまずの身を包丁でたたき、みそなどを練り込み、丸めて揚げた「なまずのたたき」などが郷土料理として親しまれてきました。
この川に親しんできた歴史・文化が、吉川が「なまずの里」といわれるゆえんなのです。