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カテゴリ:歴史同好会(寺社仏閣巡り)
【参拝日:2023年(令和5年)9月27日(水)】
※ 公式HPより 唐澤山は今より1000年の昔「むかで退治」の伝説や、天慶の乱で平将門を滅ぼした藤原秀郷公の居城址で標高240米ながら全山赤松におおわれ断崖と深い谷に囲まれた自然の要塞をなし、今なお当時をしのぶ遺跡が数多くあります。 唐澤山神社の御祭神藤原秀郷公は、幼時京都の近郊田原の郷に住んでいたので世に田原(俵)藤太秀郷ともいわれています。公の在世当時(平安朝の中頃)は、都の朝廷では藤原氏が代々摂政や関白になって政治の実権をにぎっていましたが一族の間で政権争いがくりかえされ、そのために都の政治が乱れてくると地方の政治もゆるみ土着の豪族などが欲しいままに勢力をふるってくるようになり、時に公は延長5年(927年)に下野国(栃木県)の警察にあたる押領使という役に任ぜられ父祖伝来の此の地に参られ唐澤山に城を築いて善政を施していた。 たまたまこの頃、桓武天皇の流れをくむ平将門は父の残した領地のことから叔父の国香を殺し、しだいに勢力を増し天慶2年(939年)頃から関東八カ国(上総、常陸、上野、下野、武蔵、相模、伊豆)の国府を順次攻めたて国府の長官を京に護送して関東地方の大部分を支配してしまい、自ら親王と称し、朝廷の命令を聞こうとせず、このように将門が地方で乱暴を働くのをみかねた朝廷では藤原忠文に征東大将軍の職を与え将門征伐に出発させ、その軍が到着する前に秀郷公は平貞盛と力を合せて、将門の軍を下総国幸島において攻めほろぼし、時に天慶3年2月14日世にこれを天慶の乱と言います。 公はこの功績により押領使から下野守(栃木県の長官)になり、さらに武蔵守の役も兼任するようになり従四位下へと進み、その手柄に対し朝廷より土地一功田が与えられました。その後代々子孫が城主となり、約700年間、佐野修理大夫信吉公の代まで続き、徳川幕府の初期、現在の城山公園の地に城を移し春日城とよばれました。 この春日城がまだ完成しない1613年(慶長18年)大名としての佐野家は徳川氏の政策により断絶、城主佐野信吉は信州松本城にお預けとなりましたが、23年の後時の3代将軍家光から赦免の恩命に浴し、信吉の2人の子供は旗本として佐野家を再興することができました。 1867年(慶応3年)廃藩置県により士族となり明治を迎え、ここに至り一族、旧臣、相謀って沢英社と東明会を組織して秀郷公の遺徳をしのび明治16年9月25日、本丸跡に神社を創建して同年10月25日に秀郷公の御霊を奉斎し、以後永くこの地方の守護神として尊崇されております。 ※ 唐澤山神社〈唐澤山神社(栃木県佐野市富士町1409)〉 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2023年10月26日 22時51分19秒
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