昨夜、日本史の通史(読売新聞社版「日本の歴史」)を読んでいたら、恰好の旁証に出くわした。
米の量との換算で、安土桃山時代の1両(金)は50~60石に相当したということだ。
江戸後期の1石は約1両(約10万円)とされているので、僕の勘違いでなければ、米の価値を一定と仮定すれば、貨幣価値は実に50~60倍あったことになる。しかも米は、江戸期を通じて生産・流通の発達を重ね、供給が増す(価格が下がる)方向へのベクトルが働いたはずだから、なおさら驚きである。常識的に見て、ちょっと高く見積もりすぎではないかと、いささか疑問には思う。
・・・が、このぐらいの通貨膨張は、長い歴史の中では十分にありうることではあろうと思う。けっこうビミョー。
ちなみに1石は100升=10斗(約150kg)の米に当たる単位で、一人の人間が1年間で食べる量とされていた(1俵は3斗5升。つまり1石は概ね3俵)。
詳しくは「米 1石とは」などのキーワードで、いくらでも検索できる。
――すると、山内一豊の名馬の値段は、現在の購買力平価で、5000~6000万円!?
途方もない金額になってきた。ロシアあたりの旧式の戦車なら買えるのではないか。
ただ、流通経済が未発達な時代の話でもあり、上記の計算にはかなりの誤差があろうし、この話自体に多少の粉飾が加えられていることも古文書の例としてよくあることであるから、まあ、とにかく豪気なことだと言っておくに留めよう。
山内一豊が「千石取り」の時点で、彼の年収は、約20両弱ということになる。1両=100万円の、きわめて控えめな見積もりを用いて、2000万円。50石取り(赤貧洗うがごとき、年収100万円?)の身分から見れば、夢のような地位である。ただ、これで一族郎党を養い、武具・兵糧も蓄え、ということになると、まだまだそう楽ではなかったろう。
なお、本能寺の変の直前、織田信長が徳川家康と穴山梅雪一行らを迎え、明智日向守光秀に接待役を命じた饗応時に、家康は信長に、三河などの所領安堵の礼として「黄金3000両」を献じたという。
その際、中国攻めで毛利勢の逆襲を受けた羽柴筑前守秀吉から援軍の要請があり、饗宴は急遽中止となったが、信長は家康に、京・大坂見物の費用(今でいう「お車代」)にと、1000両のお返しをしたという。
これって、今なら一体いくらなんだ?
…などと考えるのがメンドくさくなってきた(笑)。
とにかく、昔の「勝ち組」の凄さと貧富の差(ジャパニーズ・ドリーム?)がよく判る。