カテゴリ:シネマ/ドラマ
画面がフリーズしたかと思った。
ウチはケーブルテレビを入れてるので、コンピューターめいたチューナーが時々本当にフリーズして静止画面になってしまう。 大いくさの覇者・徳川家康と敗者・石田三成、直(じか)の対面。 さすが中村橋之助、歌舞伎役者の修練を見せつける、微動だにしない無言の芝居。 万感が込められた、究極の腹芸。 日本文化のエッセンス、“もののあはれ”が漂った。 ある意味、ローマ帝国ユダヤ総督カヤパスの前に引っ立てられ、「真理とは何ぞ?」(新約聖書マタイ伝福音書・文語訳)と問われたイエス・キリストのよう、などと言ったら、クリスチャンからクレームがつくか。 家康も、それを演じる西田敏行も、ダブルでタジタジ、気おされた。 関が原の戦闘場面は、今作では割にさらりと片付けた。 このシーンに関しては、確か「関ヶ原戦役400年記念」という触れこみがあったから2000年だったか、大河ドラマ「葵 徳川三代」でたっぷりと手間と金をかけた壮大な描写があり、その総集編はビデオで録画してあるから、僕としてはもういいのだ。 ジェームス三木脚本が見事だった。ウェブを覗いてみると、やはり評価はきわめて高いようである。 今年のは、前にも書いたが、信長・秀吉・家康3代ダイジェスト版てところだね。 その時の家康は津川雅彦で、松村邦洋が民放でやたらと披露したモノマネも似ていて面白かった。 その子の2代将軍・秀忠に西田敏行。妻のお督(ごう、お江。浅井長政と市の三女で、淀の方の実妹)に極妻・岩下志麻。 妻に頭が上がらない、やや頼りないコミカルな味がハマっていた。 三成は、怪優・江守徹。豊臣家を守るという信念が昂じて、ややパラノイック(偏執病的)になったような演技が絶品だった。 この時、囚われの三成に陣羽織を着せてあげたのは黒田長政(山下真司)で、山内一豊は影も形もなかった。 いずれにせよ、突き放して言えばいくさのシーンなんてどれを見ても大同小異であるし、本当はもっとへっぴり腰でおっかなびっくり戦ったのが実相であろうから、いわば作り物であり、講釈師見てきたような嘘を言いの類いである。 生きるか死ぬかの瀬戸際であんなに堂々とチャンチャンバラバラ渡り合えるワケがない。 映画の方では、例えば黒澤明の「羅生門」の斬り合いのシーンや「七人の侍」の戦闘場面、市川崑の「股旅」(谷川俊太郎脚本)の集団抗争場面、山田洋次の「たそがれ清兵衛」の壮絶かつのたうち回るような戦いのシーンに、リアルな描写が出てくるが、これらは金を払わなければ見ることはできないざんす。 山内一豊への戦後の論功行賞は、きのうのオンエアによれば、20万2,600石だそうだ。 これまで私は、拙文の中で“土佐24万石”と書いてきたが、これも典拠のあることで、歴史の本にはそう書いてあるものも多い。 ただ、「広辞苑」の山内一豊の項にも20万石とある。 NHKの時代考証の正確さは信用できるから、転封された時点では事実なのであろう。 その後に、何らかの加増か編入があったか、検地のし直しで増収があったということも考えられる。 我が宇都宮藩も、廃藩置県時には15万5000石だったとされるが、18万石と書いてある本もあり、はっきりしない。時代によって変遷があったのかも知れない。 いずれにしても、この表高というのは、名目・目安に過ぎず、それほど正確なものではない。また稲作以外の収入も算出されておらず、その後はますます有名無実なものになっていった。 家康が秀吉から封ぜられた関東(関八州)にしても、実質は“七州以下”に過ぎなかった。 上州(群馬)・野州(栃木)などには古い抵抗勢力が残存していた。 我が宇都宮でも、少なくとも平安時代に遡る古い豪族で、代々地元・二荒山神社の宮司を兼ねており、鎌倉幕府の御家人でもあり、あの歌聖・藤原定家と姻戚関係にあったほどの名家・宇都宮氏が最後まで抵抗したが、玉突き矢折れ、この時代に流散した。 これが現在の全国宇都宮氏の先祖である。けっこう有名な人も出ている。 さて、山内一豊の前途にも同じハードルが待ち構えている。 一豊の寿命もあと5年。ドラマも残りわずかとなったが、老骨に鞭打って、ご苦労様なことであります。 家康が事実上天下を手中に収めたとはいえ、まだまだ気分は戦国時代。 土佐には、長くこの地を支配し土着してきた長宗我部氏の残党が跳梁跋扈しており、黙って国を明け渡すとは思われぬ。 後世の忠臣蔵のセリフではないが、事と次第によっては「城を枕に討ち死に」というぐらいの“美学”と、“武士の一分”の気概もあったであろう。 移封されて栄転する方は嬉しいだろうが、される方は堪ったものではなかった。 太閤検地に見られるように、この時期、検地の技術・ノウハウは急速に進歩したが、それは支配される側から見れば、事実上苛斂誅求な“大増税”にほかならなかった。いわば“第一次一揆ブーム”といえることが、この時期起こっている。 山内・土佐藩は、まつろわぬ残党を力で抑えつけようとし、懐柔工作も試みたが、この遺恨は幕末まで残り、一説によると、戦前、いや現代ですら消え去っていないとも言われている。 ただ、移封に伴うこうした軋轢は、当時多かれ少なかれどこでもあったことであり、戦国武将であれば常識として知っており、覚悟していたであろう。 例えば、秀吉が最初に拝領した近江(滋賀)今浜は、それまで浅井家の領地であり、水上交通が盛んであった当時、“ドル箱スポット”であったといえる。 秀吉は、「今浜(新開の波止場)」の名を、おそらく信長から一字貰って、縁起のいい「長浜」と改めてご機嫌を取っている。全く日本歴史上まれに見る、気が利く男である。抜け目のないゴマスリの天才である。 浅井家といえば、千代の父・若宮喜助の主筋であり、千代の胸中も感無量であったろう。 家康自身、関東移封後は、江戸城や城下のほとんど一からの構築をはじめ、新領地の経営には相当苦しんでいる。 家康が一豊に感謝していたのは真情であり、特に腹黒かったというのは言い過ぎだろう。 六平太の言い方にも一理はあるが、ドラマツルギー的誇張であり、ちと家康に酷である。 この時弾圧され屈従した側の郷士の末裔の一人が、かの坂本龍馬である。 同じ苗字の誼(よしみ)でちょっと触れると、この坂本家は土岐氏の明智光秀の流れを汲んでいるらしい。 坂本の苗字にしても、光秀の居城であった近江(滋賀)坂本にちなむものであるといわれる。 幕末の動乱の中、大政奉還への志を同じうしながら、一豊の子孫である山内容堂と龍馬には、身分の違い以上の微妙な険悪さが漂ったといわれるのは、このためかも知れない。 龍馬を尊敬してやまない元・海援隊の武田鉄矢が、今回の出演を最後まで渋ったというのも肯ける話ではある。 ・・・ところで、家康側近の井伊直政を演じている篠井(ささい)英介という役者、音吐朗々としてなかなか上手く、どこかで見たことがあるけど誰だっけなあと思っていたところ、先ほど放送された「スタジオパークからこんにちは」を見て氷解した。現代劇の女形として脚光を浴びている旬の人であった。 さすがNHK、心憎い配役をするなあ。 相変わらず、まとまりのない文章ですんまそん。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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