カテゴリ:現代短歌の曠野
奥村晃作(おくむら・こうさく)
アレホドノ快ホカニナシ止めちゃった煙草の功を折ふし思う 節水の呼びかけ一日の大雨で要らなくなった台風の力 大き口いっぱいに開けにんげんが落す麩を待つ真鯉見下ろす 「撮影不可」の絵の前に来て撮影の可能な展覧会と気付きぬ 「マクドナルドハンバーガー」は満席でにもかかわらず次々入り来 庭に棲むガマのからだが電灯に照らし出されて動かずに居り 歌集「スキーは板に乗ってるだけで」(平成17年・2005) 註 「ただごと歌」の「ただごと」の対語は「ただならぬこと」であろうか。奥村氏は「『ただならぬこと』でないこと」を執拗なまでに詠み続けている。 奥村氏の歌集は、どこを開いても、ある意味で同じ風合い(テクスチャー)を感じさせる。この驚くべき一貫性は一種ストイシズム(禁欲性)を帯びているとさえいえると思う。プルーストのあの大長編小説「失われた時を求めて」のような感じと言えばいいだろうか。 だからといって、次々と繰り出される表現は決して単調ではなく、むしろしばしば奇想天外といってもいいぐらいの世界認識のようなものが歌になっている。 汲めども尽きぬ着想と観察眼と技巧で、しかしながらあくまでもフラット(平べったい)でリアルな言葉が綴られていく中に、思わず知らず底光りしてくるものがある。 それは、世界をこのように観察している作者の視線であり主体であり、代替不可能な生の「かけがえの無さ」とでもいうべき感覚である。むろん、その視線は局外者(アウトサイダー、エトランジェ、客人・まろうど)のものであり、見者(ヴォワヤン、観察者)としての存在の発動である。 これはまさに、短歌表現の一本質に触れているといえるだろう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2009.08.21 15:41:59
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