カテゴリ:「短歌人」から
斉藤斎藤(さいとう・さいとう)
真心の「板の間」正座60分に129人が涙した ! 「短歌人」7月号 *「雅子さま 真心の『板の間』正座60分に被災者129人が涙した !」(「女性自身」2011年4月26日号) 註 いささか畏れ多いモチーフでもあり、私としてはあまり余計なことは言いたくない。 ・・・が、女性週刊誌の見出しという引用元や、感嘆符やアラビア数字表記も含めたある種の胡散臭い言葉の使い方の端々に加え、見るからに抜け目のない顔をしている曲者・斉藤斎藤氏が作者であること自体をも踏まえれば、これが皇室の方の挙措への単純素朴な賛美・共感であるなどとは、到底受け取れない(・・・いや、そのように素直に読んでも、一向に差支えないと思うが)。 少なくとも、読者が勝手にそう感じることも十分計算に入れた上で、かなりケムに巻きつつの、ギリギリ巧妙な作歌術である。いわば、ニュアンスが重層的になっている。 ここに漂っているようなシニカルな眼差し・感性を、僕自身はあまり好まないが、しかしテクニカルには文句なしに上手いなと思う。 〔たまにゃんさんへ〕 こういう手法が「あり」か「なし」かと問われれば、僕の結論を言うと、完全に「あり」だと思います。 ・・・僕も、けっこうこれに近いことをやったことがあるかも知れません^^; この歌は、僕も最初は意味が分かりませんでした。「短歌人」本誌にも、何の註釈も付いていません。 インターネット上で縷々調べて(ググって)、引用であることを含め、やっと一通りの意味が分かりました。 文学史的に言えば、アイルランドの巨匠ジェイムズ・ジョイスがすでに20世紀初頭、不朽の傑作長編小説「ユリシーズ」の一部で、当時の婦人雑誌の文体のパロデイを試みています。日本語訳でも、その面白さはかなり分かります。 また、モダンアート(美術)の畑では、アンディ・ウォーホルによる、あたかも現代文化のコピーのようなポップアート作品群も知られています。今見ると、まさに戦後(とりわけ1960~70年代)のアメリカと世界が凝縮されているような感じがします。 現代短歌も現代文学・芸術の一部門である以上、こうした尖鋭的な表現技法は十分許容されますし、さらなる逸脱さえ期待されるところでしょう。 ただ、もちろんこういった技巧の濫用は慎むべきでしょうし、用いる場合にはそれなりの思索と覚悟も必要でしょう。 歌壇でも鬼才として知られている斉藤さんの意図は正確には分かりませんが、おそらく文字通り・字面通りの単純なニュアンスではなく、揶揄や皮肉など何らかの「毒」を効かせてあるのでしょう。 少なくとも、この歌は読むものにいろいろな思いや感慨を喚起させる力があり、好き嫌いを度外視すれば、上手いと思います。 ・・・ただ、正直言って僕の好みとしては、どちらかといえばやや嫌いですけどね~^^; > これってありなんでしょうか? > 週刊誌の見出しをモチーフにしたら、いくらでも詠めそうな気がします。 > 見出しの存在を知らないでこの歌を読んだら・・・私みたいなおバカは「なんの歌だろう?」と悶々としそうです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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