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ねこログ

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2023.11.21
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ムナグロ(チドリ科)

アカアシシギ(シギ科)

キアシシギ(シギ科)

スズメバチ科ドロバチ亜科の一種

チュウシャクシギ(シギ科)

サシバ(タカ科)


「ねこログ」、総目次(笑)/新・「ねこログ」、総目次(笑)/続・「スクラップ・ブック」、の、目次。
目次:「十五夜」に託(かこつ)けて、語る、ブレヒト「あとから生まれてくる人びとに」、道・を・空・け・る・ことに始まり、「己を貶める行為をすることで、同じ地平に立つ」こと、まで/「私たちには、そんなことは、分かっていた」という「話型」ではなく・・・ガザからのニュースは続く/私は、そ・の・人・を、見たことがある・・・「ンコシケレリ、アフリカ、ティーナ、ルサポルワーヨ」、の想い出/カラス談義からコンラート・ローレンツ「ソロモンの指環」、ウィーン大学のフロイト、日高敏彦氏、と話は拡散する。/「アラート」、という「婉曲表現」された「空襲警報」を聞きながら、井伏鱒二「或る少女の戦時日記」を読む。/「瞼の裏の」、首里城。/「鬼が笑う」(笑)来年の暦の、月の出、南中、月の入、の3点から、それを通る平面、その円軌道の中心、を算出しようとして、頓挫している、という、輪をかけて「鬼が笑う」話(笑)。/



「ビーバーの月」、「スポンジの月」、「霜降りの月」・・・旧暦十月は、諸神が出雲に出張中で「神無月(かみなしづき)」、または、収穫したての米で酒造り「醸成月(かみなんづき)」だって。








旧暦十月三日の月、月の入二時間前



旧暦十月五日の月、月の入二時間前

旧暦十月七日の月、南中二時間前

旧暦十月八日の月、南中二時間前

旧暦十月八日の月、南中二時間後

旧暦十月九日の月、南中二時間前

旧暦十月十日の月、月の出三時間後

旧暦十月十日の月、南中二時間前

旧暦十月十日の月、南中一時間前

旧暦十月十日の月、月の入二時間前

旧暦十月十一日の月、月の出三時間後

旧暦十月十一日の月、南中二時間前

旧暦十月十一日の月、月の入二時間前





旧暦十月十二日の月、月の出三時間後

旧暦十月十三日の月、月の出三時間後

旧暦十月十四日の月「待宵」、月の出三時間後



旧暦十月十五日の月、月の出三時間後

旧暦十月十五日の月、月の出四時間後

旧暦十月十五日の月、南中二時間後



旧暦十月十五日の月、月の入一時間前

旧暦十月十六日の月「十六夜(いざよい)」、月の出二時間後

旧暦十月十六日の月「十六夜(いざよい)」、月の出三時間後

旧暦十月十六日の月「十六夜(いざよい)」、南中一時間前

旧暦十月十六日の月「十六夜(いざよい)」、南中一時間後

旧暦十月十六日の月「十六夜(いざよい)」、月の入三時間前







旧暦十月十六日の月「十六夜(いざよい)」、月の入二時間前「有明」

旧暦十月十七日の月「立待」、月の出二時間後

旧暦十月十七日の月「立待」、南中二時間前

旧暦十月十八日の月「居待」、月の出三時間後

旧暦十月二十日の月「更待」、南中







旧暦十月二十日の月「更待」、南中二時間後「有明」

旧暦十月二十日の月「更待」、月の入三時間前「有明」

旧暦十月二十二日の月、南中一時間前



旧暦十月二十二日の月、南中「有明」

旧暦十月二十二日の月、月の入三時間前

旧暦十月二十三日の月、月の出三時間後

旧暦十月二十三日の月、南中一時間前「有明」

旧暦十月二十五日の月、月の出三時間後





旧暦十月二十五日の月、南中二時間前「有明」

旧暦十月二十六日の月、月の出三時間後





旧暦十月二十六日の月、南中二時間前「有明」











旧暦十月二十七日の月、月の出三時間後「有明」
・・・


「友情のために大地を耕そうと欲した私たちだが、みずからは友情的にはなり得なかった」再論、または(笑)、旧暦十月十五夜の月が昇るとき。


どちらも、異なる「正しさ」を担った、ということは、異なる「正しくな・さ・」をも、担っているかもしれない、「同じ地平に立って」いる者同士、について、あるいは、旧暦十月十五夜の月が、沈むとき(笑)


昨夜の「十六夜(いざよい)」は、月の出から月の入まで、雲一つない晴天でした。ということは、あなた、一晩中、起きてたんですか?そういうことになりますね(笑)。


相手、のいない、「論争」・・・「私たちには、そんなことは、分かっていた」という「話型」ではなく・・・いつもながら、画面、「更待」、「有明」の月、とは、何の関係もない話をしている(笑)


一月に一度、明け方に、もし晴れていれば、数十分の間だけ、見ることが出来る、だから、「有難味」が、ある(笑)。

Dabei wissen wir doch:
Auch der Hass gegen die Niedrigkeit
Verzerrt die Züge.
Auch der Zorn über das Unrecht
Macht die Stimme heiser. Ach, wir
Die wir den Boden bereiten wollten für Freundlichkeit
Konnten selber nicht freundlich sein.
An die Nachgeborenen/Bertolt Brecht
・・・
And yet we knew:
Even the hatred of squalor
Distorts one’s features.
Even anger against injustice
Makes the voice grow hoarse. We
Who wished to lay the foundation for gentleness
Could not ourselves be gentle.
To those who follow in our wake/Bertolt Brecht
・・・
私たちはまた知っている
卑劣に対する憎しみも顔をみにくく
ゆがめることを
不正に対する怒りもまた
声をがらがら声にすることを
友情のために大地を
耕そうと欲した私たちだが
みずからは友情的にはなり得なかった

「あとから生まれてくる人びとに」ベルトルト・ブレヒト(長谷川四郎訳、「中国服のブレヒト」所収)
・・・
原作のドイツ語では「Freundlichkeit/freundlich」だったのが、英語では、「gentleness/gentle・優しさ/優しい」と訳されているね、でも、初めて長谷川四郎の訳文を見たときから、この「友情/友情的」っていう言い方、日本語としてはあまりこなれてはいないかもしれないけど、気に入っていた。これは、ベルトルト・ブレヒトが、1939年か1940年ごろ、ナチの迫害を逃れて、デンマークの、どう読むのだろう?、「Thurø」という名前の島に、亡命者として暮らしていた時に書いた詩だといわれる、冒頭の、
Wirklich, ich lebe in finsteren Zeiten!
Truly, I live in dark times!
まったくだ、私は、暗い時代に生きている!
から、ハンナ・アーレントHannah Arendtは、自著「暗い時代の人々Men in Dark Times」のタイトルを決めたともいわれるが、ほかならぬその書物の中で、ブレヒトを、「スターリンに屈服した」と批判しているらしいと聞くので、ちくま学芸文庫版の高価なそれを、もう買ってあるのだが、なんだか、怖くて(笑)、まだ読んでいない、そんなことをしていたら、じきに「時間切れ」(笑)になってしまうぞ!
・・・
この、あまり攻撃的でも挑発的でもない作品、まるで、自分たちが、党派闘争に明け暮れている間に、ナチの台頭を許してしまったことについて、次の世代に対して、気弱に、許しを乞うている、とさえ読める。「亡命」というやむを得ざる形ではあれ、その場にいなかった、という事実が、「サヴァイヴァーズ・ギルト/生き延びた者のもつ罪悪感」を醸成しているだろうことは、見やすい道理と思う。ある種の「転向者」に特有な、「気弱な」言葉たちに、とりわけ心動かされるのは、もちろん、私自身が、ある種の(笑)「転向者」の一人だからであることもいうまでもない、・・・、
・・・
ぼくが説教を始めようとしたその瞬間、ほかならぬ自分自身の「敵」になってしまうんじゃないか、と恐れてた
Fearing that I'd become my enemy in the instance that I preach
...
正しいことと正しくないこと、そんな言葉が、ひとかけらの疑いもなく、明確に定義できるものだなんて思っていたんだな
Good and Bad, I defined these terms, quite clear, no doubt somehow

「マイ・バック・ページズ/My Back Pages」ボブ・ディランBob Dylan
ボブ・ディランのこの歌も、公民権運動の高揚期に、「プロテスト・ソング」の草分けとして颯爽と登場した彼が、ある種、「挫折」を経験して、そのような、いわば、「説教」をしてしまいかねないような立場から、撤退しようとした、やはり「転向者」の言葉なのだと思う。
・・・

マイ・バック・ページズ/板橋文夫

マイ・バック・ページズ/エリック・クラプトン、ニール・ヤング、ジョージ・ハリスン他、1992、ボブ・ディラン30周年コンサート
・・・
話はそれるが(笑)、「マイ・バック・ページズ」という曲を知ったのは、ごく最近、そんな歌がかつてヒットしたことがあるなんて知るはずもない70年代生まれの、ジャマイカ系英国人「二世」の作家、セイディー・スミスZadie Smith「ホワイト・ティースWhite Teeth」に引用されてたからなんだが、そのとき「検索」していて、聞き覚えのある名前に出会った、「板橋文夫」という、ジャズ・ピアニスト、・・・、もう、「四半世紀」前になるわけだが、「やんばる」で芭蕉布を織っている人たちと、知り合いになり、その人たちが企画して、名護市の、おそらくその街にたった一軒あった映画館が廃業した跡地がライヴ・ハウスになったんだったと思う、そこに、このピアニストを呼んだのだ、この人は、トラックの荷台に、アップライト・ピアノをくくりつけて、全国どこへでも出かけてしまう、ずっと後のことだが、辺野古にも一度来られたそうだ、・・・、ライブの最後に、主催者の「機織り」たちがピアノのまわりに並んで、「芭蕉布」を歌った、
わした島、うちなー(私たちの島、沖縄)
と歌った人のほとんどが、「うちなーんちゅ」ではなかったのも、また微笑ましく、もちろん私は、感動して涙を流した(笑)、まだ「発病」前だったんだけどな(笑)。

板橋文夫ピアノライブ IN やんばる/2000年7月7日
芭蕉布/夏川りみ
・・・

「暗い時代の人々」ハンナ・アレント(ちくま学芸文庫)、White Teeth/Zadie Smith
・・・
で、どうしてこんな話になったかというと(笑)、・・・、「あとから生まれてくる人びとに」という言葉の連想に過ぎない、もう三日も経っているのに、たくさんの人の中に出て行くとか、久しぶりに会った人と言葉を交わす、などと言う、疑いもなく、「楽しい」時間であったにもかかわらず、そんな「躁的高揚」が、病人の身体にはいたく応えるわけで、文字通り「寝込んで」(笑)いたようなありさまだった、勤労感謝の日に奥武山公園で開催された「県民大集会」に、重い腰をあげて、出かけたのだ、・・・、誰もが知る通り、たとえば、辺野古のゲート前に集まる人々の大半は、「老人」なのである、一朝一夕に「解決」を見るとは思えない「運動」である以上、それを承継する「若者」を、いわく「育成」しなければならないことは、誰にも痛感されてきたであろうけれど、どのような「話法」で、言葉を伝えることが出来るのか、「老人」たちの側はもとより、「若者」たちにも、見つけ出すことが、大変困難だったことは想像に難くない、・・・、でも、ようやくそれにも端緒がついたということなのだろうか、壇上に立つ人たちの多くが、二十歳台、・・・、そう、リナさんの事件があって、「高江」の工事が始まった2016年は、「シールズSealds/自由と民主主義のための学生緊急行動」という人たちが話題を集めた年でもあったが、彼らは、私が仕事を馘首になって引退のやむなきに至たる(笑)まで、予備校で教えていた生徒さんたちと同年代の人たちだったから、なんとなく、その言葉使いや、身振りなど、懐かしさや親しみを感じたりも出来たのだが、さらにそれよりずっと若い人たちが、数千人の人々を前に臆せず発言しているのを目撃して、ああ、「時代は変わった」、かどうかは知らないが、少なくとも、もう、自分には「出番がない」ことだけは(笑)、はっきり理解できたから、そんな連想になったのだろう。ブレヒトのように、「あとから生まれてくる人びとに」、なにか言い訳めいたことであったとしても、言・い・残・し・た・い・、気持ちは、よくわかるけれども、本当は(笑)、「老人」がなすべきことは、洞穴にこもっていた古代ギリシャの哲人ではないが、光が通るように身を引いて、道を空ける、ことなのだ。「スタンディング・オベーション」、観客全員が立ち上がって拍手をしてくれる、そうやって「花道」から退場、なんて場面を想像したことがないわけじゃない、十年前、勤務先の予備校の経営が傾いているのは、誰の目にも明らかだったから、そろそろ危ない、だったら、せめて、私も、「最終講義」ってやつで、花を添えたい、と思った、木田元の中央大学での「最終講義」、ハイデガーやアーレントの話だったかな、それから、内田樹、日本ユダヤ学会、という場所にはかなり唐突だが、まるで何者かが「憑依」したかのように、全共闘運動というのは、先の戦争で死んでいった自分たちより一世代上の人々に対する、服喪と鎮魂の身振り、「サヴァイヴァーズ・ギルト」から出た、「自己処罰衝動」なのだ、などと語りだす、・・・、どちらも、とても感動的だったから、自分も、そんなのをやってみたい、とひそかに、腹案さえ練っていたのだ(笑)、・・・、順序数と「カーディナル数」の違い、「他者」を「カーディナル数」化してはならないこと、この世には、決して数・え・て・は・な・ら・な・い・ものがあること、あるいは、「無理数」がそうであるように、この世には、「否定文」、欠如、不在の相においてしか、定義し得ないものがあること、・・・、でも、私の「最終講義」が、実現することは、なかった(笑)、賃金不配のまま雲隠れした経営者の携帯電話をこちらから呼び出して、自分が馘首になったらしい、ということを、ようやく聞き出さなければならなかった、という有様であったから(笑)、・・・。
・・・

「木田元の最終講義―反哲学としての哲学」木田元(角川ソフィア文庫)、「最終講義―生き延びるための六講」内田樹(技術評論社)
・・・
でも、そうやって、自分を、「あとから生まれてくる人々」のために、黙って道を空けるべく、消えていくべき存在、といったん規定してしまうと、なんだか、不思議に落ち着いた気持ちにもなって、それこそ「友情的」にも(笑)、なれそうな錯覚もあった、・・・、Mさん、復帰運動以来の、沖縄の運動の重鎮だ、四半世紀前、私がまだ「ネット平和運動家」だった頃(笑)以来、家賃の連帯保証人になっていただいたり、大変お世話になってきた、そうそう、6年前にゲート前でつまらない暴れ方をして逮捕されたときも、「身元引受人」になってもらいもしたのだ、・・・、名護署に接見に来てくださった弁護士さんに、沖縄に誰か知り合いは?と問われて、この人の名を挙げると、弁護士さんの態度が急変(笑)、「大物」になれたみたいで浅はかに気をよくしたことを思い出す、そんな恩人なのに、私はと言えば、その頃は、自分が「若者」代表だとでも思っていたのであろう、「これだから『団塊』の運動はだめなんだ」みたいな憤懣をぶつけて、とても失礼な振る舞いに及んだこともある、・・・、この日は、遠くから私のことを見つけてくださって、「あんた、また瘠せたんじゃないの?」と心配そうに尋ねてくださった、この人は、私がその後「うつ病」に罹患したことも、ちゃんと知っていてくださっている、「いやいや、もう、年ですから」などと、うっかり失礼な答え方をして、でも二人とも破顔一笑、お互いに手を握り合ったりして、ちょっと不思議になまめかしい(笑)感じすらあった、・・・、Yさん、辺野古「ゲート前」の「顔」ともいうべき人物だから、ほとんど匿名にした意味がないが(笑)、来賓席のテントから、芝生に座っている私にむかって、手を振ってくださった、私の顔を覚えてくださったのは、安●和の琉球セ●メント前、船に土砂を積み込むダンプに、狭い右折レーン同士で鼻を突き合わせて「じゃま」をする、そのとき誰よりも私の運転する車が、大胆に頭を突っ込んでいて、大いに効果をあげたらしく、ゲート前でデモをしていたYさんたちの目にとまったらしい、若い頃から(笑)「極左暴力集団」と呼ばれていた者にとっては、そんな程度の「跳ね方」、なにほどでもないし、観客の目があると盛り上がってしまうお調子者だった、というだけのことだが、「あの、ないちゃー、なかなかやるじゃないか?」みたいな感じだったんだろうね、それ以来だったろう、その後私は、また、現場から「逃亡」してしまったのだが、「COVID-19」騒動の期間と重なってしまって気づかれなかったからか、とがめだてされるようなこともなく、知事選挙の集会なんかのときも、言葉を交わそうと思っても何も話題はないのだが(笑)、目で挨拶だけは、して下さるのだ、・・・、でも、ふたたび「逃亡」するにいたったのは、ほかならぬ、その安●和での経験だったのだね、青信号で、右折レーンの先端ぎりぎりまで、車を寄せる、相手もそうする、黄色に変わって、次に右折信号が出るまで、何秒くらいだろう、運転手さんと私は、じっと見・つ・め・あ・う・ことになるのだ、いろんな表情があった、怒りをあらわにする人、にやにや笑って見せる人、クールに見えないふりをする人、でも、こちらの思い過ごしかもしれないけれど、どの人も一様に、何とも言えない「悲しさ」めいたものをたたえていたようにも、今は思い出される、・・・、彼らは、基地建設に加担しているという「負い目」があるから、逆に威丈高になるのだ、とか「分析」してみせる人は多いけど、私には、そうは思えなかった、・・・、思うに、「世界」には、複数の「正しさ」がある、あって当たり前だ、私の「正しさ」が「正しく」て、お前の「正しさ」は、本当は「正しくない」などと、立証する方法は原理的に、ない、むしろ、「正しさ」は、「トランセンデンタル/先験的」なものであって、一つの、「決断」に根差しているものに過ぎないかもしれないじゃないか、私は、目の前のダンプの運転手さんに対して、今風の言葉で言えば「上から目線で」、いや、ダンプの運転席の方が乗用車のよりずっと高いから、私は、常に見上げているのだけれど(笑)、自分の「正しさ」が、彼または彼女の「正しさ」より、より「正しい」とは、とても言える気がしなかった、・・・、西加奈子という作家は、イスラム革命直前のテヘランで生まれている、父親が日本企業の海外駐在員だったのだね、その後、幼少期をカイロで過ごす、語り手の性別まで変えてあるけど明らかに自伝的な小説、「サラバ!」の中のエピソード、エジプト人の貧困階層の不良少年たちに取り囲まれてしまったとき、「彼らを見下してはいけない、差別してはいけない」と、身動きが取れずににやにや笑っているばかりの「ぼく」を尻目に、母が飛び出してきて、おそらく下品な大阪弁で(笑)、怒鳴りつける、・・・、
母のやり方は絶対に間違っていたが、間違っている分、真実だった。己を貶める行為をすることで、母は彼らと同じ地平に立っていた。「そんなこと、してはいけないことだ」「人間として下劣だ」、そう糾弾されるやり方で、母は叫んだ。
だから私も、フロントガラス越しに、およそ下品きわまりない(笑)表情を示し、汚い罵声を発している口真似をしてみせる、なんてことをしていた、ここは、「正しい」者と、「正しくない」者が、対決している場所ではない、私たちは、どちらも、異なる「正しさ」を担った、ということは、異なる「正しくな・さ・」をも、担っているかもしれない、「同じ地平に立って」いる者同士が、出会う場所なんだ、という「連帯感」を表示するためにね!でも、そんな、いくぶん「アクロバティック」な「心理戦」には、もともと「病人」だけに(笑)、ほとほと、疲れてしまったのだね、・・・、Lさん、こちらも、元海兵隊員、「ヴェテランズ・フォー・ピース」メンバー、さらに元をたどれば、ベトナム反戦闘争期の、UCバークレーのバリバリの活動家、と言えば、やはり匿名にした意味がなくなってしまうが、「イデオロギーとしての英会話」というその著書を読んだ高校生の頃以来、「ファン」だったこの人とは、2000年沖縄サミットの際には、プエルト・リコ、ビエケス島で米海軍射爆場反対闘争に従事しているお客人に、私が運転手で、彼が通訳、という役柄で、同行し、一日中ご一緒させていただくという貴重な経験をもっているのだ、十七年のブランクを経て、高江や辺野古で、通りすがりに目が合ったりすると、「おや?こいつ、見たことある?」みたいな不思議そうな表情をしていただくだけで満足し(笑)、声をかけたって話すことなど何もない、遠くから見守らせていただいている、その日も、「VFP」の横断幕の前に座っておられたが、もはや、介助なくては歩くのもままならないご様子であった、・・・、これらの「お年寄り」たちは、まもなく「退場」していかれることになるだろう、もちろん、ほんのわずか若・い・(笑)だけの私の方が、「先」かもしれない、きっと錯覚に違いない、明日になればまたじたばた未練たらしく煩悶するに違いないのだが(笑)、なんだか、その日に限っては、その事実を、淡々と、受け入れられるような気がしたことであったよ、ということで、ブレヒトの引用から始まった、長い長い話は、いったん、終わる。
・・・

「サラバ!」西加奈子(小学館)

「イデオロギーとしての英会話」ダグラス・ラミス(晶文社)
・・・
『沖縄を再び戦場にさせない県民の会』11・23 県民平和大集会への参加呼びかけ
沖縄を再び戦場にさせない県民の会

チラシ表面・拡大/チラシ裏面・拡大
・・・
Brecht ‘To Those Who Follow in Our Wake’

デンマーク、Funen/Fyn島とThurø島
木々についておしゃべりをすることさえ犯罪なのだ、それは、不正に対するある種の沈黙だから!・・・ハンナ・アレントとベルトルト・ブレヒト、まだ先は続くと思うが
友情のために大地を、耕そうとした私たちだが、自らは友情的にはなり得なかった・・・。
ブレヒト「三文オペラ」、ワトソン博士
ブレヒトの「島」は何処?、「イースターの日曜日」は何時?
ランベスから、クリックルウッドへ・・・セイディー・スミス「ホワイト・ティース」によるロンドン探訪、そして「だから、まるでぼくには何か守るべきものがあるかのような幻想を抱かせる」、ボブ・ディラン「マイ・バック・ページズ」の思い出
でも「正しさ」は、「個人」に帰属する、「無理由的」、「超越論的(トランセンデンタル)」なもので・・・
「軽蔑されるのって、楽だから」、「涅槃図」、カイロのタハリール広場、ふたたびニーナ・シモン、西加奈子「サラバ」を読む
「その言葉も、僕が聞いた言葉の中で、やはり一番奇麗な言葉だった。アッサラームアレイコム。」…西加奈子「サラバ」を、読み直す
・・・
此処では誰も「それ」について喋ったりなんかしない、ただ、黙ってスコップを動かすだけ、・・・、「スコップを動かす」ことが出来なかったのなら、せめて「黙って」いようと決めた。




・・・
(補遺)「私見」ですが・・・上に掲げた、ラミ・G・コウリ氏の記事をめぐって・・・「私たちには、そんなことは、分かっていた」という「話型」ではなく
・・・
(訳注)イズ・アディン・アル・カッサム旅団Izz ad-Din al-Qassam Brigades:ガザを根拠地に、1991年に創立されたハマスの軍事部門、名称の由来となっている、イズ・アディン・アル・カッサムIzz ad-Din al-Qassam(1881-1936)は、シリアのムスリム説教師、レパント地域(現・シリア、レバノン、パレスチナ、ヨルダン、トルコ南東部)の、英仏植民地主義からの解放を求めるアラブ民族主義の指導者、反シオニズムの急先鋒、であったといわれる。なお、ファタの、非公式ではあるが、軍事部門は、2000年にヨルダン川西岸地区で創立された「アル・アクサ殉教者旅団al-Aqsa Martyrs' Brigades」
(訳注)アブ・マゼンAbu Mazen:PA代表、マームード・アッバスMahmoud Abbas(1935-)の、「クンヤkunya」と呼ばれる、父系に基づく別称、「Abu(أبو) 」は「父」を意味するアラビア語、たとえば、故・ヤシール・アラファトYasser Arafat(1929-2004)のニックネームは、同様に、「アブ・アマールAbu Ammar」であった
(訳注)エルサレム北方約10キロのラマラRamallahが「PA」行政府のある町だが、そのさらに北方約10キロにビルゼイトがある
(訳注)モハメド・ダーランMohammed Dahlan(1962-):ファタのガザ地区指導者、ハマスに対する強硬姿勢で知られる、「オスロ合意」ㇸ向けた交渉においても役割を果たすが、米国CIA、イスラエル当局との密通、ガザにおけるハマス党員への拷問、国境検問所での税収入の着服、さらには、ヤシール・アラファトの毒殺に関与した、などの、さまざまな醜聞が絶えない、2011年、ファタ除名、以降UAEに亡命、同地の支配者一族と良好な関係を維持するほか、エジプトの「アラブの春」弾圧者、アブデル・ファタ・エル・シーシとも連携を持っているといわれる
(訳注)スーファン・センターSoufan Center:レバノン系アメリカ人、FBIのエージェントとして、数々の「反テロリズム」作戦に従事してきたアリ・スーファンAli Soufan(1971-)が、2005年のFBI辞職後、創設したシンクタンク、FBI辞職は、「セプテンバー・イレブンス」前夜、CIAがFBIとの諜報資料共有を拒んだことへの抗議、と言われている
・・・
(訳注)バッカー難民キャンプBaqa'a refugee camp:ヨルダンの首都アンマンの北方約20キロに位置する、同国内最大のパレスチナ人難民キャンプ、国連等によって難民登録を受けたパレスチナ人およそ10万人が居住している、1968年、前年の「ナクサ」(「六日間戦争」、「第三次中東戦争」)によって住居を失った、現・ヨルダン川西岸地区、および、ガザ地区の人々を、臨時に収容すべく設立
(訳注)ドゥーナムdunum/dunam:オスマン・トルコの面積単位、牡牛の群れが一日で耕すことのできる広さ、が原義だが、実際の広さは地方によって異なり、オスマン帝国治下のパレスチナでは、約900平方メートル(一辺30メートルの正方形)であったと言われる
(訳注)イェリコJericho:エルサレムとアンマンをむすぶ直線の中点よりややエルサレム寄り、「死海」北岸の北方約10キロ、被占領地域ヨルダン川西岸地区の最東端、ヨルダンとの国境に近い町
(訳注)西岸と東エルサレムはヨルダンから、ガザとシナイ半島はエジプトから、ゴラン高原はシリアから、それぞれイスラエルが奪取し、以降占領状態が続いている
(訳注)国際連合パレスチナ難民救済事業機関United Nations Relief and Works Agency for Palestine Refugees in the Near East(UNRWA)、1949年創立
(訳注)ヘブロンHebron、アラビア語名アル・カリルal-Khalil、はエルサレムの南南西約40キロ、グーグルマップ英語版では、この近傍に「ダワイメDawaymeh」という地名は発見できず、「アマツィヤAmatzya」という集落は、西岸地区のヘブロンの中心部からさらに西へ15キロほど、国境を越えたイスラエル領内に見つけられたが、これが、かつての「ダワイメDawaymeh」にあたるかどうかは、はっきりしない
(訳注)「パレスチナ、わが名はパレスチナ」ガース・ㇸウイット

Palestinian, my name is Palestinian/Garth Hewitt、歌っているガース・ㇸウイット氏は、イギリス人シンガー・ソングライターにして、アングリカン(英国国教会/聖公会)牧師、パレスチナをはじめとする社会問題に関与する活動家であるらしい、このヴィデオには、英語の歌詞が掲載されている
・・・
(訳注)コークCork、アイルランド南部の都市、ダブリンの南西200キロ、アイルランド島とブリテン島をへだてるアイリッシュ海に面した町

英国、アイルランド
アイルランドという国で、その、英国植民地主義との闘いの経験からか、ヨーロッパの中では例外的というべきほど、パレスチナ支援の世論が力をもっている事情については、以下の記事参照↓
「ナフハ、Hブロック、アルマック、それらは、一つの闘いだ」・・・「ボイコット」という言葉の由来、「バルフォア」との闘い、そして、ハンガーストライキ、それら共通の経験が、アイルランドとパレスチナの連帯を雄弁に物語っている/ユーズフ・M・アルジャマル2021年12月3日アル・ジャジーラ
「サリー・ルーニーさんへ、ガザからの手紙」/ハイダール・エイド2021年11月10日、「サリー・ルーニー、賞賛と防衛のために」アンドリュー・ミトロヴィカ2021年10月21アル・ジャジーラ・・・パレスチナのガッサン・カナファーニ、そして、アイルランド、ジョイス、ワイルドまで
(訳注)トレブリンカ絶滅収容所Treblinka extermination camp:ポーランドの首都、ワルシャワの北東約100キロに位置するトレブリンカという村にナチが、1942年から1943年の間に設営した収容所

ドイツ、ポーランド
(訳注)ここで「2009年の学生たちによる、『占拠』運動」といわれるものが何を指すのかは、はっきりしない、「オキュパイ・ウォール・ストリートOccupy Wall Street(OWS)」は2011年~2012年
(訳注)マイク・ディヴィスMike Davis(1946-2022):アメリカ合衆国の、都市論の研究者、歴史家、活動家、自らを、「国際主義的社会主義者」、「マルクス主義的環境主義者」と位置付けていたといわれる
(訳注)「惨事便乗型資本主義disaster capitalism」:シカゴ学派のミルトン・フリードマンの主張する「小さな政府」主義を批判して、カナダのジャーナリスト、ナオミ・クラインNaomi Klein(1970-)が、2007年の著作「ショック・ドクトリン―惨事便乗型資本主義の勃興The Shock Doctrine: The Rise of Disaster Capitalism」の中で用いた用語、災害復興に名を借りて、少数の特権的階層を「ゲーテッド・コミュニティーGated Community」として防衛する一方、大多数の居住する周辺部には、老朽化したインフラストラクチャーを温存して、スラム化が進行するままに放置するような都市計画手法。なお、上に「ホロコースト」に関して述べられているように、この記事の筆者はユダヤ系であり、後に引用される学者の中にも、ユダヤ系の人が多く含まれているが、ナオミ・クラインもまた、ユダヤ系のようである。
(訳注)「文明の衝突と世界秩序の再創造」サミュエル・ハティントンThe Clash of Civilizations and the Remaking of World Order(1996)/Samuel P. Huntington
(訳注)ファーガソン暴動Ferguson unrest:2014年夏、ミズーリ州ファーガソン、マイケル・ブラウンさん(18歳)が、ファーガソン警察の警察官によって射殺されたことに端を発した暴動

アメリカ合衆国
(訳注)ポール・ジルロイPaul Gilroy(1956-)、イギリスの社会学者、ガイアナからの移民であった母、1951年に「ウィンドラッシュ世代」の一員として英国に移民してきたバリル・ジルロイ、教員であり、後には小説家ともなる、と、イギリス人の父との間に生まれた、「黒い大西洋:近代性と二重の意識The Black Atlantic: Modernity and Double-Consciousness」の著書がある

The Black Atlantic: Modernity and Double-Consciousness/Paul Gilroy
「ウィンドラッシュ措置」は、英連邦の市民であって、1973年1月1日以前に、イギリスに定住したものは、身分証明書類をもたない場合でも、無料でイギリス市民権を確認する証明を得ることができる、ことを内容としている。以下、関連記事↓
英国政府が、「ウィンドラッシュ事件」や、「敵対的環境政策」の過ちから、何も学んでいない、ということ・・・活動家、黒人芸能人ら、ジャマイカ強制送還フライトの中止を求める/アイナ・カーン2020年11月27日アル・ジャジーラ
ガザの11歳の「ラッパー」の記事が縁で、このジャマイカ系イギリス人ラッパーの書物に辿り着く、「ウィンドラッシュ世代」への言及があったので、・・・、「ネィティヴズ(原住民)、帝国の廃墟の中の人種と階級」アカラ
(訳注)アル・シーファ病院Al-Shifa Hospital、ガザ市北部リマルRimal地区、下の地図では、アル・アクサ大学の北約1キロあたりの場所になる、英国信託統治下の1946年、英軍駐屯地であった場所が、「Dar al-Shifa/house of healing/癒しの家」という名の医療施設へと改築されたのが始まり、イスラエルによる今次の侵攻でも攻撃対象とされ、世界保健機構(WHO)をはじめ、厳しい非難を呼び起こしたが、ここで触れられているのは、上にも記されていた通り、2014年の攻撃に際しての話である、イスラエル当局は、同病院にハマスの指導部がひそんでいる、と主張したが、マッズ・ジルバート博士ら現場の医師たちは、病院内に、何らの軍事的活動の存在を示す証拠はない、と反論。
(訳注)マッズ・ジルバートMads Gilbert(1947-)、ノルウェーの外科医、人権活動家、トロムセー大学University of Tromsø救急医療学部教授、フランスの「ユグノー(プロテスタント)」系の出自をもつ、ヴェトナム反戦運動への関与が、その政治的キャリアのきっかけとなった、とのこと、1970年代、「赤色青年同盟Red Youth/Raud Ungdom(RU)」を経て、「労働者共産党Workers' Communist Party(AKP)」、に加入、いずれも「M-L/Marxist-Leninist」とあるから、おそらく毛沢東主義分派であろう、現在も、その「AKP」の後継政党である「赤色党Red Party/Rødt」、2007年創立の左派―極左派政党、のメンバー

ノルウェー、北欧
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(訳注)ヤルムーク・キャンプYarmouk Camp、シリアの首都ダマスカスの中心部から南へ8キロ、約2平方キロの区画(一辺1.4キロの正方形)からなる、パレスチナ人キャンプ、1957年設立、かつては、10万人以上の住民を擁するシリア国内最大のパレスチナ人難民キャンプであったが、2011年の「アラブの春」に引き続くシリア内戦の影響で、居住人口は激減することになった。2011年には、このキャンプを舞台に、シリアの反政府派である「自由シリア軍Free Syrian Army」およびそのパレスチナ人からなる同盟者「Liwa al-Asifa/Storm Brigad/嵐旅団」と、シリア政府軍の後押しを受けた、「パレスチナ解放人民戦線―総司令部派Popular Front for the Liberation of Palestine – General Command(PFLP-GC)」との間に激しい戦闘が勃発、多くの住民が、その余波で困難な状況に陥ることとなったといわれる。アハメド・ジブリルAhmed Jibril率いる「PFLP-GC」は、1968年に、ジョージ・ハバシュの「PFLP」を、知識人の論争に明け暮れ武装闘争をないがしろにしている、と非難して分派した党派だが、ジブリル自身、シリア軍の将校であったという経歴からもうかがわれるように、伝統的にシリア政府との関係が強かったのかもしれない、ここからは「私見」だが、1980年代、1990年代、とりわけ、ソ連崩壊によって、それまでパレスチナ解放勢力各派に、「東側ブロック」から提供されていた潤沢な武器援助、資金援助が途絶えたという事情も大いに預かったであろう、アラブ各国の「独裁的」支配者、シリアのアサド、イラクのサダム・フセイン、リビヤのカダフィー等が、もっぱら、自分こそが「パレスチナの大義」のチャンピオンである、との国民へのプロパガンダとして、特定のパレスチナ党派に対して、「メンター(保護者)、パトロン」としてふるまい、もって、パレスチナ各派間の亀裂が深められてしまった、との印象があった。「PFLP-GC」は、このヤルムーク・キャンプに、大きな支配力を有していたようで、戦闘に先だつ時期にも、すでに、シリア革命に共感するパレスチナ人住民に対する強圧的な対応に、キャンプ内に不満が広がっていたことがうかがわれる、戦闘ののち、「PFLP-GC」内部からも、反政府派へと、鞍替えするものが多く出た、とも言われている。なお、「PFLP」、および、同じく1968年にそこから分派した、ナヤフ・ハワトメNayef Hawatmehの「パレスチナ解放民主戦線Democratic Front for the Liberation of Palestine(DFLP)」が、「PLO」傘下にとどまり、イスラエルとの和平交渉、「二国的解決Two-State Solution」へと傾く中で、「PFLP-GC」は、「武闘路線」を堅持、その点で「ハマス」や、「パレスチナ・イスラム聖戦」、さらに、シリアのシーア派「ヘズボラ」とも、協力関係にあるようである。ヤルムーク・キャンプに話を戻すと、その後2015年、同キャンプは、「シリア・レパントのイスラム国Islamic State of Iraq and the Levant (ISIL)」の支配下におちることになる、その際、シリア反政府派、「自由シリア軍」、とこれに同調する、「ハマス」系と目されるパレスチナ人組織「アクナフ・バイト・アル・マクディスAknaf Bait al-Maqdis」、「アル・カイダ」系「ヌスラ戦線Jabhat al-Nusra」が、「ISIL」に抵抗して戦闘に従事したようである。2018年に、ロシア軍の支援を受けた、シリア政府軍が、キャンプの支配権をほぼ回復するが、この時の戦闘に、「PFLP-GC」を含む、いくつかのパレスチナ人組織が、シリア政府軍側で参加している。
PFLP/DFLP/PFLP-GC
(訳注)「イスラエルを支持するキリスト教徒連合Christians United for Israel (CUFI)」、1975年創立、キリスト教多宗派からなる親イスラエル団体であるが、その立場は、キリスト教の「終末論eschatology」に根差す、「クリスチャン・シオニズムChristian Zionism」とは、必ずしも一致しない、と主張されているようである
(訳注)タラル・アサドTalal Asad(1932-)、サウジアラビア、メディナで、ユダヤ人の父親と、アラビア人の母のもとに生まれた、米国の文化人類学者、ニューヨーク市立大学教授、フーコー、ニーチェ、ヴィトゲンシュタイン等の影響を受け、ポストコロニアリズム分野の研究に従事。父親Muhammad Asad(1900-1992)は、オーストリア・ハンガリア帝国生まれのユダヤ人であるが、ジャーナリストとしてアラブ世界を歴訪する間に、感化を受け、1926年に、イスラムに改宗した人物で、コーランの英訳で知られている。
(訳注)ダヒヤ・ドクトリンDahiya doctrine、「イスラエル防衛軍IDF」総司令官ガディ・アイゼンコットによって定式化されたもので、敵対的と思われる住民の居住地区のインフラストラクチャーを破壊、そのように民間人に多くの犠牲が生じ、苦痛を負わせることで、戦闘員たちの戦意を喪失させることを目的とする作戦で、そのために、「釣り合いを欠いた戦力disproportionate force」を投入することを当然のこととしており、「非対称的な戦闘asymmetric warfare」とされる。ベイルート南郊のダヒエDahiehという地名にちなんで命名された、2006年に、「IDF」は、ヘズボラ勢力を粉砕すべく、この地区で、このような作戦計画を実行に移し、おびただしい破壊が行われた。

ベイルート、この図面の右下端、Ghobeiryと記された場所の南東側が、ダヒエDahiehと呼ばれる、シーア派住民地区で、2006年の内戦(イスラエル―ヘズボラ戦争)当時、ヘズボラの拠点があったようである
(訳注)サラ・ロイSara Roy、合衆国の政治経済学者、ハーヴァード大学中東研究センター、wikipedia英語版には、生年が書かれていないが、ホロコーストを生き延びたユダヤ人の両親、父は、ポーランド、グダニスクの南約150キロ、ビドゴシュチBydgoszcz近郊のヘウムノ強制収容所Chełmno extermination camp、母は、ポーランド、チェコ国境に近いブレスラウWrocław近郊のロゴジニツァRogoźnica、グロース・ローゼン強制収容所Gross-Rosen concentration campおよび、同じくポーランド、クラカウKrakówとカトヴィッツKatowiceの中間あたり、オシフェンチムのOświęcimアウシュビッツ強制収容所Auschwitz concentration campに収容されていた、という、のもとに生まれた、という記述がある。幼少期からしばしばイスラエルを訪れる機会があり、イスラエルの兵士によるパレスチナ人への処遇を目撃、それが、「その意図においても、効果においても、完全に」、ナチによるユダヤ人への処遇と、同等のもの、すなわち、「侮辱し、非人間化する」ものであることを理解し、それが、彼女をして、パレスチナ人に関する学術的な研究にむかわせた、という。日本語に訳された著作として、「ホロコーストからガザへ―パレスチナの政治経済学」、他の著作として、「ハマスとガザの市民社会、イスラム派の社会活動に触れて見ることHamas and Civil Society in Gaza: Engaging the Islamist Social Sector」、などがある。

Hamas and Civil Society in Gaza: Engaging the Islamist Social Sector/Sara Roy
(訳注)ネゲブ砂漠のオアシスの一つである、ベエルシェバBe'er Shevaと、ガザの南端ラファRafahを結んだ直線の中央あたりに、ツェリムTze'elim、という「キブツkibbutz」に由来する町があり、1948年「ナクバ」に際して、すでに軍事基地として使用されていたが、2005年、「IDF」は、アメリカの支援を受けて、ここに、7.4平方マイル、というから、約19平方キロ(正方形にすれば一辺4.4キロ)の「都市戦闘訓練センターUrban Warfare Training Center」を建設、アラビア語で「都市」を表わす言葉から、「バラディアBaladia」なる「ニックネーム」が付された・・・その「バラディア」なる言葉のアラビア語綴りは、確証はないが、以下のものであるように思われる。
بلدة
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(訳注)第四次中東戦争Yom Kippur War(1973年10月)、最終的にはイスラエルの勝利に終わったが、緒戦におけるアラブ側の成功は、イスラエル軍の「不敗神話」を覆した、エジプトは、この戦争後の1979年、アンワル・サダトの下で、イスラエルと国交回復、これを受けてイスラエルは、1982年、シナイ半島を返還
(訳注)シール・ヒーバーShir Hever、詳細は不明だが、イスラエルの経済学者のようである。シューキ・サデShuki Sadeh、の方は不明
(訳注)「境界防衛作戦Operation Protective Edge」、2014年7月のガザ侵攻を指す、イスラエル側の作戦名
「キャスト・レッド作戦Operation Cast Lead」、2008年~2009年のガザ侵攻を指す、イスラエル側の作戦名、「鋳造された鉛」の意で、ユダヤ教の祝日「ハヌカー(ユダヤ暦第9月の25日から8日間)」の際、子供たちに与えられる「ドレイドルDreidel」と呼ばれる独楽、に由来する命名、とのこと
「防衛の柱作戦Operation Pillar of Defense」、2012年11月のガザ侵攻を指す、イスラエル側の作戦名
(訳注)ジークムント・バウマンZigmunt Bauman(1925-2017)、社会学者、哲学者。ポーランド、ポズナニPoznańの、ポーランド系ユダヤ人の家庭に生まれる、ポーランドが、ナチ占領下に入った1939年、家族は、東に向かいソ連領内に避難した、第二次世界大戦末期に徴兵され、ソ連が組織した「第一ポーランド軍」に参加。戦後は、軍の諜報機関に勤務、これについては、後に、自分は、強固な意志を持った共産主義者であったことは認めるが、たとえ、事務仕事に限られていたとはいえ、軍の諜報部門で働いた事は誤りであった、と述懐しているらしい。1953年に、唐突に軍から解雇される、シオニズムの信奉者であった父は、イスラエル大使館に移住を打診したりしているが、本人は、強い反シオニスト的見解を持っていたようで、これらの事情から、父との関係が非常に悪化した、とのこと。この間学業を継続、ワルシャワ大学に講師の職を得る。1968年「プラハの春」に先行する時期、ポーランド統一労働者党は、「反シオニスト」と銘打った、「反ユダヤ主義」的パージを行い、多くのユダヤ系知識人が、国外脱出を余儀なくされ、バウマンもまた、ワルシャワ大学の職を奪われ、ポーランドの市民権を断念することでようやくイギリスに脱出することができた。アントニオ・グラムシAntonio Gramsci(1831-1937)を、もっとも影響を受けた思想家として挙げており、ポーランドの共産主義者から受けた弾圧にもかかわらず、終生、自らを社会主義者と呼び、マルクス主義を全面的に捨て去ることはなかったという。
(訳注)ローズマリー・サイクRosemary Sayigh(1927-)、英国生まれのジャーナリスト、バグダッドで教職についている間、パレスチナ人の経済学者ユーシフ・サイクYusif Sayigh(1916-2004)と出会い、結婚してベイルートに住む。1980年代から1990年代にかけて、口述歴史の記録プロジェクトで、シャティラ難民キャンプなどで、パレスチナ人女性たちの声を聞く仕事に従事、2006年の、イスラエル侵攻の際には、キプロスに避難、2007年以降、ベイルート・アメリカン大学などで教職に就く。
(訳注)ジュディス・バトラーJudith Butler(1956-)、米国の哲学者、ジェンダー学の研究者、両親はハンガリー系、および、ロシア系ユダヤ人。母方の祖母はホロコーストで殺害されたという。
(訳注)バート・ムーア・ジルバートBart Moor-Gilbert(1952-)、タンザニア生まれ、英国の研究者、ポストコロニアル文学を専門とする
(訳注)ヌール・マサラNur Masalha(1957-)、パレスチナ人の歴史家
(訳注)ペリシテ人Philistine、鉄器時代に、「カナン」、南部レパント、の地中海沿岸地帯に入植した民族、聖書の中では、古代イスラエル人の主要な敵として描き出されており、現代ヨーロッパ語では、「文学や、芸術に関心を持たない無趣味な人間、俗物」といったネガティヴなニュアンスの言葉として用いられる、一方「パレスチナ」という言葉は、「ペリシテ人の土地」という由来であるものの、今日のパレスチナ人と、古代のペリシテ人との間の、「人種」的、生物学的な、つながりは、否定されている、とのこと
(訳注)旧約聖書「士師記Judges」の記事によると、イスラエルの地をペリシテ人が支配していた時、サムソンなる屈強な男が現れ、ペリシテ人を倒してイスラエル人を指導した、その恋人デリラは、サムソンの力の秘密が、その髪にあることを聞き出し、これをペリシテ人に銀貨1100枚で売る、ルーベンスの絵は、デリラの膝の上で眠るサムソンの髪を、ペリシテ人たちが剃刀でそり落としている場面を描いている
士師記/Judges

Samson and Delilah/Rubens
士師記16:17-19
16:17彼つひにその心をことごとく打明して之にいひけるはわが頭にはいまだかつて剃刀を當しことあらずそはわれ母の胎を出るよりして神のナザレ人たればなりもしわれ髮をそりおとされなばわが力われをはなれわれは弱くなりて別の人のごとくならんと
16:18デリラ、サムソンがことごとく其のこころを明したるを見人をつかはしてペリシテ人の群伯を召ていひけるはサムソンことごとくその心をわれに明したれば今ひとたび上り來るべしとここにおいてペリシテ人の群伯かの銀を携へて婦のもとにいたる
16:19婦おのが膝のうへにサムソンをねむらせ人をよびてその頭髮七繚をきりおとさしめ之を苦めはじめたるにその力すでにうせさりてあり
Judges 16:17-19
16:17 That he told her all his heart, and said unto her, There hath not come a rasor upon mine head; for I have been a Nazarite unto God from my mother's womb: if I be shaven, then my strength will go from me, and I shall become weak, and be like any other man.
16:18 And when Delilah saw that he had told her all his heart, she sent and called for the lords of the Philistines, saying, Come up this once, for he hath shewed me all his heart. Then the lords of the Philistines came up unto her, and brought money in their hand.
16:19 And she made him sleep upon her knees; and she called for a man, and she caused him to shave off the seven locks of his head; and she began to afflict him, and his strength went from him.
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Naziriteナジル人:自ら志願して、あるいは神の任命を受けることによって、特別な誓約を神に捧げた者、地名の「ナザレNazareth」、ハイファHaifaの東、ガラリア湖の西、の町、とは、異なる由来のようである
(訳注)エスター・ベンバッサEsther Benbassa(1950-)、イスタンブール生まれ、1492年「レコンキスタ」でイベリア半島を追われオスマン・トルコに移住したユダヤ人を祖先に持つ、という。彼女が15歳のとき、家族がイスラエルに移住、ジャファの学校で学び、フランス大使館から、バカロレア合格証を受ける、テル・アビブ大学就学を経て、奨学金を得て、1972年、パリ第8大学へ進む、結婚によりフランス国籍を取得、こうして、トルコ、イスラエル、フランスの三国のパスポート所持者となった。ムスリムとユダヤ人との間の対話を推進、「シャルリ・エブド」事件に際しても、対話の日をもつことを呼びかけた、「緑の党Europe Ecology–The Greens(EELV)」から立候補して、上院に議席をもつ。
(訳注)「シャルリ・エブド」誌編集部襲撃と、その後の「イスラモ・フォビア」の暴発、エマニエル・トッドによる分析・・・「シャルリとは誰か?」エマニュエル・トッド、を読む
(訳注)フランスユダヤ人団体代表委員会Conseil Représentatif des Institutions juives de France(CRIF)
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(訳注)1フィートは、30.48センチ、1インチは、2.54センチ、計算すると、「6フィート4インチ」は、「193.04センチ」になる

ヤード・ポンド法、長さ、メートル法への換算表

南アフリカ

アフリカ南部、ザンビア、ジンバブウェ、ボツワナ等
(訳注)リチャード・ステンゲルRichard Stengel(1955-)、アメリカ合衆国のジャーナリスト、「タイム」誌編集者、オバマ政権下では、公共外交・広報担当国務次官。マンデラの自伝「自由への長い道のりLong Walk to Freedom(1994)」は、この人物と、マンデラとの共著であったとされている、ただし、マンデラの生前、その事実は、明かされていなかったようでもある

Long Walk To Freedom Vol 1: 1918-1962/Vol 2: 1962-1994/Nelson Mandela
(訳注)スプリングボックSpringbok、南西アフリカに生息するレイヨウ(羚羊、アンテロープ)の一種、その動物をかたどったデザインが、19世紀末に創立された「南アフリカ・ナショナル・ラグビー・ユニオン」の記章として用いられ、アパルトヘイト下で、1960年の「シャープビル虐殺事件」等を契機に、国際的「スポーツ交流・ボイコット」の機運が高まるとともに、しばしば非難の対象となってきたようである。シャープビルSharpevilleは、ヨハネスブルグの南約50キロの町。
(訳注)トゥーラ・シンプソンThula Simpson、詳細は不明だが、「ANC」の歴史家、との表記があった。
(訳注)アルチュール・ゴールドライクArthur Goldreich(1929-2011)、南アフリカおよびイスラエル国籍の抽象画家、反アパルトヘイトの闘士にして、イスラエルが採用する形のシオニズムに対する批判者であった。ピーテルスブルグPietersburg、現ポロクワネPolokwane、プレトリアの北北東300キロ、生まれ、1948「ナクバ」にあたっては、「ハガナHaganah」(独立後「イスラエル国防軍(IDF)」に編成されることになるシオニスト民兵部隊)の精鋭部隊であった「パルマックPalmach」のメンバーとして従軍、その後は、テルアビブ北郊のヘルツリヤHerzliyaに居住、1962年に、生まれ故郷の南アフリカに戻り、創立されたばかりの、「ANC」軍事部門「ウムコントウェ・シズウェUmkhonto we Sizwe(MK)」に、自身の経験から、ゲリラ戦の手法などを伝える顧問的役割を果たす。彼のイスラエルの政策への批判の要諦は、2006年、英国の「ガーディアン」紙の以下の記事に示されている、本文に用いられている「『唾棄すべき』人種主義」という言葉も、ここから引用されたものと想像される:
ゴールドライクは、イスラエル社会の中に、「その占領および分離の政策を通じて、『バンツースタン主義』が貫徹されていること、内閣を構成する大臣たちが、アラブ人の強制的排除を奨励するまでに至っている、「唾棄すべき」人種主義が蔓延し、「パレスチナの被占領地域に暮らす人々に対して、残虐かつ非人間的な制度が押しつけられていること」、を見る。「ヨーロッパにおけるファシズムとナチズムが敗北したことによって、ようやくのことで存在することができるようになった、この国とその国民、そして、ただただユダヤ人であるという以外何の理由もなく6百万人におよぶユダヤ人たちが、その生命をもって、ようやく闘い取ることができたこの国とその国民、であるにもかかわらず、ほかならぬこの場所に、このような発言をなし、このような行為を行うことのできる人物たちが存在していることは、恐るべきこと、唾棄すべきことだと、言わなければならない、とは思いませんか?」、と彼は問いかけているのである。
Goldreich speaks of the 'bantustanism we see through a policy of occupation and separation', the 'abhorrent' racism in Israeli society all the way up to cabinet ministers who advocate the forced removal of Arabs, and 'the brutality and inhumanity of what is imposed on the people of the occupied territories of Palestine'. 'Don't you find it horrendous that this people and this state, which only came into existence because of the defeat of fascism and Nazism in Europe, and in the conflict six million Jews paid with their lives for no other reason than that they were Jews, is it not abhorrent that in this place there are people who can say these things and do these things?' he asks.
(訳注)バンツースタンBantustan、南アフリカ、アパルトヘイト下の国民党政権が、南アフリカ、および、その保護国化されていた現ナミビア、南西アフリカにおいて、黒人居住地区として、しばしば恣意的に指定された土地区域、「Bantu」は、ニジェール―コンゴ語族Niger–Congoバンツー諸語Bantuにおいて、広く「人々people」を意味する言葉であり、「-stan」は、パキスタン、アフガニスタン等と同様の、ペルシャ語起源の「~の土地」の意
(訳注)ポール・S・ランダウPaul S Landau、詳細は不明だが、米国メリーランド大学の歴史学教授であるらしい、南アフリカに関する著書多数、ちなみに、ここに引用されている書物「民族の槍:マンデラと革命家たち」の、「spear」なる英単語は「槍」の意、「ANC」の武装部門「ウムコントウェ・シズウェUmkhonto we Sizwe(MK)」は、コーサ語Xhosa(ニジェール―コンゴ語族Niger–Congoバンツー諸語Bantu)の言葉で、直訳すれば、「Spear of the Nation/民族の槍」となる。

Spear: Mandela and the Revolutionaries/Paul S Landau

ニジェール―コンゴ語族分布図、ちなみに、この図の中で、南アフリカ西部、ナミビア、そして、マダガスカルが、空白となっているのが気になったが、前二者に関しては、ヨーロッパからの入植者、オランダの「ユグノー/カルヴァン派プロテスタント」に由来するアフリカーンス語話者が多いこと、ナミビアに関しては、南西アフリカが南アフリカの保護国化される以前、ドイツの植民地であった歴史を反映して、入植者にはドイツ語話者も多いこと、また、独立後の政府は、バンツー諸語の、オバンボOvambo語話者が多数を占めるにもかかわらず、英語を公用語とする政策を推進したこと、などの影響かと想像されるが、はっきりしたことは不明、また、マダガスカルに関しては、古代より、遠く東南アジアからインド洋を越えて移住してこの地の多数派住民となった人々に由来するマラガサイ語Malagasy(オーストロネシア語族Austronesianマレー・ポリネシア語派Malayo-Polynesian)が主要言語である
(訳注)メナヘム・ベギンMenachem Begin(1913-1997)、リクード党創設者、イスラエル首相(1977-1983)、1948年イスラエル建国以前は、民兵組織「イルグン」の指導者として武装闘争に従事
(訳注)イルグンIrgun、ヨルダン川両岸においてユダヤ人人口が多数を占めるような、領土的拡張主義によって特徴づけられ、イスラエル初代首相ベン・グリオンBen-Gurion(1886-1973)等の「現実的シオニズム」からの「修正」という意味で、「修正主義的シオニズムRevisionist Zionism」と呼ばれる傾向を信奉する、「ハガナHaganah」の分派・・・例えば、ルラ・ジェブレアル「ミラル」、筆者自身がその出身者だが、ヒンディ・ホセイニが東エルサレムに創設した孤児院「アラブの子供たちの家」は、1948年「ナクバ」に際しての、デイル・ヤシン村の虐殺で両親を失った子供達を収容するのが、最初の目的だったのだが、この虐殺事件の実行者が、「イルグン」であり、「ハガナ」は、それに、暗黙の了解を与えていた、と記されている。「ミラル」については、以下の記事参照↓
「バスキア」、「夜になる前に」、「ミラル」の、ジュリアン・シュナーベル、そして四方田犬彦「見ることの塩」
タクシーの車種や、ホテルの名前、そんな些末な事柄への偏執によっても、決して分かり得ないはずの「他者」の苦痛へ、少しは「同じ高さ」の視点に近づけるのなら、「不謹慎」と呼ぶこともなかろう、と思いましたので、・・・、「ミラル」続編

Miral/Rula Jebreal(Penguin)
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(訳注)アメリカ・ユダヤ人会議American Jewish Congress(AJCongress)、1918年、保守的で裕福なユダヤ人の利益代表団体「アメリカ・ユダヤ人委員会American Jewish Committee (AJC)」に対抗して創立、ナチの台頭に警鐘を鳴らし、ヨーロッパ在住ユダヤ人の救出活動に尽力、戦後は、「リベラル」陣営の一翼として、「公民権運動」に関与、「全米黒人(有色人種)地位向上協会National Association for the Advancement of Colored People(NAACP)」とも協力関係に立つ、一方、「アメリカ・シオニスト機構Zionist Organization of America(ZOA)」と、指導部層の顔触れはほとんど同じで、イスラエル国家の存続を擁護、パレスチナ人の祖国建設には、反対の立場をとる、とりわけ近年は、合衆国政府とイスラエル政権との架橋役を果たし、「BDS」等、パレスチナ支援運動を、「反ユダヤ主義」として弾劾する声の先頭に立つ。
(訳注)ワシントン・コンセンサスWashington Consensus、1989年にイギリスの経済学者ジョン・ウィリアムソンJohn Williamsonによって用いられた用語で、合衆国の首都ワシントン・DCに根拠地を有する諸機構、「IMF」や「世界銀行World Bank」、合衆国財務省、等が、経済的な危機状態に陥った「開発途上」諸国に対して、呈示するパッケージ化された諸改革案、自由市場free-market、民有化privatization、など、「ネオリベラリズム」的施策をその内容としている
(訳注)オセヴァブラントゥヴァOssewabrandwag(OB)、1939年、ブルームフォンテインBloemfonteinで創立された、アフリカ―ス・ナショナリスト団体。ナポレオンの時代、イギリス帝国が、オランダ領ケープ植民地を獲得、オランダ系の入植者たちが、英国による支配を嫌って、数次にわたって「ボーア戦争」が戦われた、アフリカーンス系住民が、第二次世界大戦期に、親ナチ傾向に傾くのは、「ボーア戦争」下、イギリス側が採用した「焦土作戦」や「強制収容所」の記憶に根差すもの、と言われている
(訳注)サーシャ・ポラコウ・スランスキーSasha Polakow-Suransky(1979-)、合衆国のジャーナリスト、ニューヨークタイムズ編集者、両親は、南アフリカのユダヤ人で、兄の、シャヘル・ポラコウ・スランスキーShael Polakow-Suransky(1972-)、は、反アパルトヘイトの活動家、逮捕を逃れるべく合衆国に移住、という経歴をもつ
(訳注)ゴルダ・メイアGolda Meir(1898-1978)、第4代イスラエル首相(任期1969-1974)、初の女性首相、労働党、キエフ生まれのウクライナ系ユダヤ人、建国英雄の一人として称賛されつつも、「ヨム・キプル戦争/第四次中東戦争」緒戦の敗北の責任者として、非難を受ける、「ナクバ」に際しては、アラブ系住民の強制排除を、「恐るべきことdreadful」と形容、ナチ占領下のヨーロッパでのユダヤ人の境遇になぞらえた発言をする一方、「ナクサ/六日間戦争(1967)」二周年に際しての、英国「サンデー・タイムズ」紙のインタヴューの中で、悪名高い、「パレスチナ人などと言うものは、存在しない/There was no such thing as Palestinians」という発言をしている。当該インタヴューのこの発言部分は次の如くである:
フランク・ジャイルズ(インタヴュアー):いわゆる「フェダイーン」と呼ばれるパレスチナ人の戦闘部隊の登場は、中東情勢にとって重要な新たな要因と思われますか?
Frank Giles: Do you think the emergence of the Palestinian fighting forces, the Fedayeen, is an important new factor in the Middle East?
ゴルダ・メイア:重要性という面では答えは「ノー」。新しい要因、という意味では確かに「イエス」ですが。パレスチナ人などと言うものは存在しないのです。パレスチナ人の国家をもつ、独立のパレスチナ人などと言うものが、いつ存在したというのです?第一次世界大戦前の南部シリアにも、その後のヨルダンを含むパレスチナにも、(そんなものは存在しなかった)。あたかも、パレスチナに、自分自身をパレスチナ人と考えるようなパレスチナ人なるものが存在して、まるで我々が、彼らを追い出してその土地を奪ったみたいなことを言う。しかし、そんなものは、存在していなかったのです。
Golda Meir: Important, no. A new factor, yes. There was no such thing as Palestinians. When was there an independent Palestinian people with a Palestinian state? It was either southern Syria before the First World War and then it was a Palestine including Jordan. It was not as though there was a Palestinian people in Palestine considering itself as a Palestinian people and we came and threw them out and took their country from them. They did not exist.
(訳注)シャープビル虐殺事件Sharpeville massacre、1960年3月21日、ヨハネスブルグの南南西約50キロの、シャープビルの町で、「パス法」、アフリカ系住民に課せられた、身分証明書類の常時携帯義務、に反対するデモ隊が、警察署に押しかけ、警官側が、まずガス銃、次に実弾発砲で、これに応じたことから数多の死傷者が生じた。人口過剰でスラム化した近隣の町から強制移住させるべく、急ごしらえで建設された町であったため、犯罪の温床となり、これに対する警察の高圧的な態度のため、すでに事件以前から、緊張関係が高まっていたといわれる。
(訳注)ここに言及のある書物、

「南アフリカをよりよき場所へと導いた12人の人たち」マシュー・ブラックマン、ニック・ドール/Legends: Twelve People Who Made South Africa a Better Place/Matthew Blackman & Nick Dall
が取り扱っている「12人」の顔ぶれは、以下の通り、
(1)Nelson Mandela(1918-2013)
(2)Steve Biko(1946-1977)、South African Students' Organisation(SASO)創立メンバー、「黒人意識運動Black Consciousness」
(3)Mahatma Gandhi(1869-1948)、1893~1914、南アフリカで、弁護士として、公民権運動に従事
(4)Olive Schreiner(1855-1920)、反戦活動家、プロテスタント宣教師の家庭に生まれる
(5)Sol Plaatje(1876-1932)、ジャーナリスト、作家、「South African Native National Congress(SANNC)」創立メンバー
(6)King Moshoeshoe(1938-1996)、レソト王
(7)Sailor Malan(1919-1963)、アフリカーナーの飛行士、英空軍で、ヨーロッパの空でファシストと闘い、戦後は、南アフリカの路上で、アパルトヘイトと闘った、とある
(8)Cissie Gool(1897-1963)、ケープタウン市議会に、黒人初、女性初の議席、ムスリム、反アパルトヘイトの闘士
(9)John Fairbairn(1794-1864)、ケープ植民地の教育者、政治家、ジャーナリスト、スコットランド生まれ
(10)Eugène Marais(1871-1936)、アフリカーナーの、詩人、ナチュラリスト
(11)Miriam Makeba(1932-2008)、歌手、1960年代、ロンドンで、アフリカ系アメリカ人俳優ハリー・べラフォンテの知遇を得る、南アフリカ政府が、彼女の帰国を阻止したため、米国在住、公民権運動に参加、「ブラック・パンサー党」の、ストークリー・カーマイケルと結婚、これに対して米政府がヴィザを取り消したため、ギニアに移住。アパルトヘイト体制崩壊後、南アフリカへ帰国、1992年、映画「サラフィナ」出演
(12)Thuli Madonsela(1962-)、法学者、1996年、マンデラ大統領の下で、憲法起草に協力
・・・
(訳注)反アパルトヘイト闘争の、「人種」的多様性、の一例として、「ANC」のインド系ムスリム出身の指導者、アーメド・カトラーダ、関連記事
ナイフとフォーク、アパルトヘイトとレインボー・ネーション
ネルソン・マンデラ、「その人を見・た・ことがある」、について、そして、「南アフリカ共産党SACP」議長の、リトアニア系ユダヤ人、ジョー・スローボJoe Slovo(1926-1995)について・・・特に二番目の記事には、南アフリカに在住するユダヤ人の由来について、「ホロコースト」を逃れて移住してきたリトアニア系、アシュケナジー・ユダヤ人が多い、との記述がある、ジョー・スローヴォに関しては、両親とともに、ナチ台頭の時期に移住してきたと書かれているが、記事の中に見えた、アルチュール・ゴールドライクの祖先の出身地までは突き止められず、かつ、南アフリカ生まれである以上、移住は、ナチ以前の時代ということになるが、それ以前のヨーロッパに頻発した「ポグロム」を逃れて、移住してきた人々かもしれない、と想像することはできよう。
ケープタウンからプリンスアルバートまで、・・・、クッツェー「マイケル・K」精読
「金のないユダヤ人たち」、マイケル・ゴールド、という作家とともに、「ローワー・イースト・サイド」を歩いてみる
・・・
その他の、参考文献・・・
彼らのテロリズム、我らのテロリズム/Terrorism: Theirs and Ours」イクバール・アーメドEqbal Ahmad(1933-1999)
「ストリーミング」とやらでタダで観れる映画いくつかについてもメモ、「ガザの美容室」など
・・・

テルアビブ、アンマン周辺

ヨルダン川西岸地区、詳細図

ガザ地区

西岸、ガザ、イスラエル



下に掲げた3つのヴィデオのうち、まず、2番目(2)、「レディスミス・ブラック・マンバゾLadysmith Black Mambazo」は、南アフリカ、ズールー族の伝統的な、アカペラ風歌唱法である「イシカタミアIsicathamiya」の合唱グループ、1985年、ポール・サイモンPaul Simonのプロデュースによって、アルバム発表、「アパルトヘイト」に対する「文化ボイコット」運動の原則に反する、との非難を受けたが、世界的なヒットとなる、・・・、このヴィデオは、同じくポール・サイモンが呼び掛けて実現したものと思われる、1987年に、ジンバブウェで開催された「Township jive, graceland, concert」、その記録映画の一部であるらしい、トランペットを吹いているのが、ヒュー・マセケラHugh Masekela(1939-2018)、「アフリカン・ジャズの父」と呼ばれる人で、数多の反・アパルトヘイト・ソングを作曲した、そして、上でも紹介した、ミリアム・マケバMiriam Makeba(1932-2008)も参加している。コンサート会場は、ハラレの「ルファロ・スタジアムRufaro Stadium」、その7年前になるだろう、1980年、この国の独立直後に、ボブ・マーリーが、記念コンサートを開催したのも、同じスタジアムだった。このYouTubeヴィデオの説明によれば、「ンコシ・シケレリ・アフリカ」の元来の歌詞は、イーノック・ソントンガEnoch Sontonga(1873-1905)、という、コーサ人の教師、メソジスト教会の合唱隊の指導者、が、1897年に書いた、と言われている、1925年以来、「アフリカ民族会議(ANC)」のアンセムであったが、アパルトヘイト体制終結後の1994年、大統領ネルソン・マンデラは、この「ンコシ・シケレリ・アフリカ」および、従来の「Die Stem/The Call of South Africa」を、ともに南アフリカ国歌とする、と宣言、さらに、両者を結合した形の新たな国歌が、1996年に作られた、3番目のヴィデオの所に掲げた歌詞のうち、「アフリカーンス語」部分が、おそらく、この、旧国歌「Die Stem」、に由来する部分なのではないかと思われる、・・・、その3番目のヴィデオ(3)は、現在の南アフリカ国歌、「レインボー・ネーション」の面目躍如というべきであろう、同国で話される主要言語のほとんど、コーサ語Xhosa、ズールー語Zulu、セソト語Sesotho(南部ソト語Southern Sotho)、アフリカーンス語Afrikaans、英語English、を網羅した形になっているが、そのすべての英語訳が付されていたので、さらに日本語への「拙訳」を試みた、・・・、そして、1番目のヴィデオ(1)、・・・、ネルソン・マンデラNelson Mandela(1918-2013)は、ケープタウンの北西海上、「ロベン島Robben Island」の監獄に1964年から1982年まで、ケープタウン南部トカイTokaiの「ポルスムーア監獄Pollsmoor Prison」に1982年から1988年まで、そして、ケープタウンの東北東約80キロ、パールPaarl近郊、「ビクター・ベルスター監獄Victor Verster Prison」に1988年から、1990年まで、収監されていた、ヨハネスブルグ近郊リボニアRivonia、リリーズリーフ農場Liliesleaf Farmにおける、武装部門「ウムコント・ヴェ・シズヴェUmkhonto we Sizwe」創立の謀議が、政府の暴力的転覆の陰謀とされ、終身刑に服していたのであった、釈放されたのが、1990年2月、もう、その年の4月には、アフリカ諸国、ヨーロッパ、合衆国、キューバ、インド、インドネシア、マレーシア、等への歴訪に旅立っているようである、そして同年5月には、政権との停戦交渉に入った、というから、このヴィデオの1990年6月30日、という日付は、もう一度、合衆国を訪れたのか、少し疑問が残るが、ともあれ、その、カリフォルニア州オークランド・コロッシアムOakland Coliseumでのコンサート、冒頭、客席に、パレスチナの旗が、掲げられているではないか、・・・、歌が終わった後、「アマンドラ!Amandla!」と一人が叫び、これに皆が「アウェツ!Awethu!」もしくは、「ンガウェツ!Ngawethu!」、と答える、前者が、コーサ語でもズールー語でも、「権力Power」を意味し、後者が、「われわれにto us」の意味なんだそうだ、・・・、で、ここから先は、ささやかな「私事」なのだが、私は、ネルソン・マンデラ、というその人を、一度「見た」ことがあるのだ、・・・、もう、記憶がはっきりしなくなっていたのだが、今調べてみて、上で見たように、釈放直後の1990年4月、世界各国の歴訪の途上、日本も訪れている、とあったので、きっと、そのときだったに違いない、アルバイト先の同僚、中●核派の隊列で三里塚に行ったこともある、というような、ずっと年下の左翼学生さんだが、「反アパルトヘイト」支援の運動に多少はかかわっている、という人が誘ってくれたのだ、京都府立体育館、北野白梅町から少し南に下がったあたりだ、行ったことのない会場だったが、バスに乗って出かけた、主催団体は「創●価学会インターナショナル(S●GI)」、なんだ、大して運動なんかしてこなかったくせに、釈放となると急にしゃしゃり出て、みたいな悪態を、こっそりついてみたりはしたものの、もちろん、大したことはしてこなかった、のはこちらも同じだ、通訳を通してのマンデラ氏の演説は、残念ながら、頭がぼーっとしていた、という訳なんだろう、何にも覚えていない、舞台の上で、劇が演じられ、その中で、「Free Mandela! Free Slovo!」と書かれたプラカードを掲げるシーンがあって、南アフリカ共産党(SACP)議長の、ジョー・スローヴォJoe Slovo(1926-1995)、という人が「白人」である、ということは、そのころから知っていて、興味を持っていたから、そこだけは記憶に残っている、ずっと後に知ったのだけど、この人は、リトアニア系のユダヤ人、上で見た、アルチュール・ゴールドライクもそうだが、「ANC」には、少なからぬユダヤ人が参加していたらしい、・・・、その劇中のプラカードの記憶があるから、てっきり、スローヴォ氏は、マンデラ氏とともに、長きにわたって服役していたのだ、と思い込んでいたが、これも今調べると、世界各国へ亡命を余儀なくされてはいたものの、獄外で、活動に従事していたらしい、そうなると、そのプラカードの文字の記憶も、あやしくなってくるけどな、・・・、集会の式次第が印刷されたプログラム、A3版くらいの二つ折り、赤白二色の印刷だった、裏面に、「ンコシ・シケレリ・アフリカ」の歌詞が、あるいは楽譜も、印刷されていて、最後に会場全員が立ち上がって、そう、このヴィデオでもそうだったけど、やはり右腕の握りこぶしを高く掲げて、歌ったのだった、カタカナで書かれていたんだろうな、読むのに必死だったけど、
ンコシ・シケレリ・アフリカ、ティーナ・イル・サポルワヨ
その言葉は、今でも、覚えているのだ、「アマンドラ!」、という掛け声も、・・・、いや、ただそれだけの話だ、そのとき一緒だった学生さんとも、つまらない言い争い、いつもながら、たぶん、こちらが「病的」に「キレて」しまった、というだけのことだったろう、ほどなく音信不通になってしまったし、それでも「冥土の土産」の一つにはなるだろう、ってことで、こんなところにでも書き残しておきたくなった、という訳だ。
・・・
それは、伝説的なジャマイカのミュージシャンによる、電撃的な、レゲエの一撃だった、歌の合間合間に、会場の上空を満たすように、「ヴィヴァ・ジンバブウェ」の叫びが、反響するのだから・・・独立の祝祭に湧くジンバブウェ人を前に、ボブ・マーリーが、歌った夜/ファライ・マツィアシェ/2020年4月18日アル・ジャジーラ

Bob Marley-Zimbabwe、これは、おそらく、1979年、ボストン、ハーヴァード・スタジアムHarvard Stadiumにおける「アマンドラ・フェスティバルAmandla Festival」でのものと思われる、ジンバブウェ独立の前年、そして、ボブ・マーリーがなくなる前々年、ということになる
・・・

(1)Nelson Mandela - South African National Anthem - 6/30/1990 - Oakland Coliseum Stadium


(2)NKosi Sikeleli Africa (African National Anthem)- With Miriam Makeba, Paul Simon, Black Mambazo, etc
Nkosi Sikeleli Africa
Malup hakanyiswu phando lwayo
Yiswa imithanda zo yethu
Nkosi Sikelela
Thina lusapo lwayo

Nkosi Sikeleli Africa
Malup hakanyiswu phando lwayo
Yiswa imithanda zo yethu
Nkosi Sikelela
Thina lusapo lwayo

Yiza Moya (Yiza, Yiza)
Yiza Moya (Yiza, Yiza)
Yiza Moya oyingcwele
Nkosi Sikelela
Thina lusapo lwayo

Morena boloka sechaba sa heso (sa heso)
O fedise dintwa le matswenyeho
Morena boloka sechaba sa heso
O fedise dintwa le matswenyeho
O seboloke (O se boloke)
O seboloke morena
O seboloke sechaba
Sechaba sa Heso
Sechaba sa Africa

O seboloke morena
O seboloke sechaba
Sechaba sa Heso
Sechaba sa Africa
・・・

(3)South Africa National Anthem English lyrics

(Xhosa)
Nkosi Sikelel' iAfrica/God bless Africa神はアフリカを祝福し給う
Maluphakanyisw' uphando lwayo/Raise high Her gloryその栄光を高く掲げ
(Zulu)
Yiswa imithandazo yethu/Hear our Prayers私たちの祈りを聞き給う
Nkosi Sikelela/God bless us私たちを祝福し給う
Thina lusapo lwayo/your children私たちは神の子ら
(Sesotho)
Morena boloka setjhaba sa heso/God we ask you to protect our nation神よ、我が祖国を守り給え
O fedise dintwa le matshwenyeho/Intervene and end all conflictsあらゆる争いの仲立ちとなり、争いを終わらせ給え
O se boloke, O se boloke setjhaba sa heso Setjhaba sa, South Africa - South Africa/Protect us, protect our nation, our nation, South Africa - South Africa私たちを守り給え、我が祖国を守り給え、我が祖国南アフリカ、南アフリカ
(Afrikaans)
Uit die blou van onse hemel/From the blueness of our skies私たちの空の青きから
Uit die diepte van ons see/From the depths of our seas私たちの海の深きから
Oor ons ewige gebergtes/Over our everlasting mountains見晴るかす山稜を越えて
Waar die kranse antwoord gee/Where the echoing crags resound山肌にこだまが響く
(English)
Sounds the call to come together共に来れとの呼び声
And united we shall stand私たちは、ともに立ちあがる
Let us live and strive for freedom共に生き、自由のために戦おう
In South Africa our land我が祖国南アフリカの土の上で
・・・
南アフリカ、言語分類
Zulu 24.7%
Xhosa 15.6%
Afrikaans 12.1%
Sepedi(Northern Sotho) 9.8%
Tswana 8.9%
English 8.4%
Sotho(Southern Sotho/Sesotho) 8%
アフリカーンス、英語が「インド―ヨーロッパ語族Indo-European西ゲルマン諸語West Germanic」である以外は、すべて、「ニジェール―コンゴ語族Niger–Congoバンツー諸語Bantu」

南アフリカ西部・拡大

南アフリカ・拡大


・・・

キセキレイ(セキレイ科)

ダイサギ(サギ科)

アオサギ(サギ科)


「一家団欒」、の、練習問題、・・・、あるいは、「偽造」であったとしても、必要な過程(笑)。

バン(クイナ科)、「鷭」と書きます。うちの近くの遊水地で、はじめて見かけたときは、まだ「バードウォッチャー」初心者(笑)、でしたから、クイナ科、などという分類名があることも知らず、やみくもに図鑑のページを繰って、うわっ、どうしよう?天然記念物のヤンバルクイナを見つけてしまった!、などと、慌てたものであった(笑)。ヤンバルクイナは、それまでも、「保護」されて飼育下にあるものは、何度か見たことがあったが、数年前、「高江」に通っていた頃、明け方、県道のアスファルトの上を、夫婦であろうか、二人、並んで歩いているところを、目撃、いたく感動した。同じく、クイナ科の「留鳥」としては、シロハラクイナ、というのを、やはり「やんばる/山原」で何度か見かけたことがあるが、あっという間に隠れてしまって、写真はとれなかった、ヤンバルクイナも、それから、このバンも、「飛べない鳥」であって、とは言っても、翼を広げ、脚を蹴って、二、三メートルくらい浮き上がり、十メートルかそこいら先まで、滑空することはできるようである、同じクイナ科でも、このバンより一回り大きくて、くちばしも、くちばしとつながった額の部分も赤いバンとは異なって、白い、オオバン、という種は、なんと、はるばる長距離を渡ってくる「冬鳥」なのであった、クイナ科はみな、「飛べない鳥」という思い込みがあったから、海辺で、カモ類といっしょにときどき潜っては餌探しをしている、そいつの種名が判明するのに、ずいぶん時間がかかったものだ、オオバンは、ウ科の鳥や、カモ科のうちのハジロガモの仲間のような潜水性のもの同様、とても潜るのが得意で、あまりにも長時間浮き上がって来ないから、心配(笑)になるほど、・・・、「鳥」偏に「番」、「鷭」という名の由来は、いつも水田にいるから、水田の「番人」みたいだ、ということらしい、江戸時代には、「三鳥二魚」、「鳥」は、鶴(つる)、雲雀(ひばり)、鷭(ばん)、「魚」は、鯛(たい)、鮟鱇(あんこう)、で、水戸藩が宮廷に献上する五大珍味の一つ、だったとのこと。・・・ここに写っている者たちのうち、翼が黒くて、くちばしから額にかけてが赤いのが、成鳥、おそらく親鳥で、くちばしのあたりも白っぽく、翼も、灰色がかっているのが、若鳥、その年の一番初めに生まれた子、一番子、が、親達の二度目の出産以降、「ヘルパー」として、子育てを手伝う、という習性があるらしく、そのありさまは、以前、この同じ遊水池で、その頃は、まだ、うちの犬たちが存命だったから、毎朝散歩に通りがかるので、仔細に観察できた。親鳥二羽を先頭にして、そのうしろをおぼつかない泳ぎ方で、雛たちが五羽ばかり、ついて行く、どうしても遅れてしまうのが一羽はいて、見ている方がはらはらする、草むらに戻ると、今度は、この「ヘルパー」の若者が、雛たちに、えさの取り方を伝授などしているらしい光景も、・・・、「親に愛されなかった子供」、という「物語」(笑)、を、あるいは「偽造」(笑)することで、それが、自分の「発病」の「原因」である、との「解釈」を与えることで、どうにか、「病」と、「折り合い」をつけることが出来たのだから、それはもちろん、たとえ「偽造」であったとしても(笑)、必要な過程ではあったのだ、そんな時期に、彼らの、掛け値なしにほほえましく甲斐甲斐しい、「一家団欒」を目撃することは、そんなものを、自らの経験として参照することが一切できない者にとっては、いや、そんなものがなかった、というのすら記憶の「偽造」である可能性はあるけれど(笑)、一つの、「練習問題」、ではあったのだね。

バン(クイナ科)・若鳥

バン(クイナ科)・成鳥

バン(クイナ科)・若鳥



イソシギ(シギ科)、・・・、「夫婦者」のようである(笑)。







イソシギ(シギ科)、・・・、その「夫婦者」の一方、イソシギは「雌雄同体」なので、どっちがどっちか、区別がつかない、もう一方は、さっきまで、すぐそば、画面左下の方、にいたのだが、・・・。





ハクセキレイ(セキレイ科)




コンラート・ローレンツが雛から育てたコクマルガラスの名前が「チョック」、それはその鳴き声に由来する、という、ならば、うちの(笑)「カー君」という呼び名も、そう悪くない気がしてきた(笑)。

アルテンベルクの切妻屋根のまわりにはじめてコクマルガラスが飛んでから、そして私が銀色の目をもったこの鳥に心をうばわれてから、もう二十四年たつ。われわれの人生における深い愛のはじまりがしばしばそうであるように、最初のコクマルガラスのヒナと対面したとき、私はそれほど重大なことだとは気づかなかった。そのコクマルガラスはロザリア・ボンガール愛玩動物店にいた。私はもう四十年ほどもこの店と知り合いだ。私はきっかり四シリングでそれを買った。そのヒナの大きな黄色くふちどられた赤いの・ど・においしい餌をつめこんでやりたいという衝動にかられたからにすぎなかった。私はそいつがひとり立ちしたら、すぐに放してやろうと思っていた。そして実際そのとおりにした。ところが結果はまったく予期に反し、コクマルガラスたちは今なおわれわれの家の屋根でヒナをかえしている。・・・

・・・
私が一九二七年に十四羽のコクマルガラスを育てたのも、ひとえにチョックのためだった。すなわち、人間にたいする彼女の本能的行動がさっぱり意味がわからずほとんど理解できなかったので、私は好奇心をかきたてられたのである。・・・
・・・
自分の敵がどんなものか、生まれつき「本能的」には知らない一匹の動物が、年長の、経験をつんだ仲間から、どんな動物を敵としておそれるべきかを教・わ・る・のだ。おどろくべきことではないだろうか!個々に得られた知識が父から子に伝えられる――それは真に伝統といえるものである。・・・ヒナたちのまだ知らない生きものの姿があらわれたら、リードしている年長のコクマルガラスはたった一度だけわめいてそれが敵であることを教えてやればよい。ヒナたちの頭の中には、その敵の姿と警告との結合が、ただちにそして永久的に確立される。・・・

・・・
とにかくこんなふうにして、私はコクマルガラスたちと暮らしていた。彼らの一羽一羽の顔というか人相を、私は正確に知りぬいていた。もう色分けの足環をみたりする必要もなくなった。・・・

・・・
こんな表現をしても、私はけっして擬人化しているわけではない。いわゆるあ・ま・り・に・人間的なものは、ほとんどつねに、前・人間的なものであり、したがってわれわれにも高等動物にも共通に存在するものだ、ということを理解してもらいたい。心配は無用、私は人間の性質をそのまま動物に投影しているわけではない。むしろ私はその逆に、どれほど多くの動物的な遺産が人間の中に残っているかをしめしているにすぎないのだ。・・・
「ソロモンの指環―動物行動学入門」コンラート・ローレンツ/日高敏隆訳(ハヤカワ文庫NF)
・・・
「チョック」は、最初にヒナから育てたコクマルガラスの、その鳴き声から付けられた呼び名、十四羽を買い始めたのは、まだ「チョック」存命中と、読めるから、「愛玩動物店」でヒナを購入したのは、その数年前だろうと想像される。ローレンツの実家は裕福だったようで、アルテンベルクに広い家をもち、ここで息子のコンラートが、ありとあらゆる動物を飼育するのを、両親は少しも厭わなかったようである、ウィーン市内にもアパートを所有していて、彼は、そこからウィーン大学に通っていたようである。ちなみに、この書物が書かれたのは、1949年。
コンラート・ローレンツKonrad Lorenz(1903-1989)、ウィーンの北西20キロ、アルテンベルクAltenberg(現ザンクト・アンドレー・ヴェルダーンSankt Andrä-Wördern)に生まれる、一時期米国のコロンビア大学にも在籍したが、1923年には、ウィーン大学に戻り、1928年には、医学の学位を取得して卒業している、1938年にナチ党に入党、同党政権下に、1940年、ケーニッヒスブルグ大学に心理学教授として、職を得ている、1941年には軍医として、ポーランドのポズナニPoznań、後の1956年、反スターリン主義暴動の起きた町だ、に駐留、この時、絶滅収容所への移送の光景を目撃した、と後年述懐しているという、1944年、ロシア戦線に従軍、ほどなく捕虜となり、1948年まで、当時ソ連のアルメニアに抑留されるが、医師の資格があったことが幸いして、寛大な処遇を受け、祖国に送還される際も、自著の草稿のみならず、ペットのムクドリも、持ち出すことができた、戦後、彼は、ナチ党員であった過去も、ジェノサイドの事実を目撃したことも、否定し続け、最晩年は、「オーストリア緑の党」の党員として、環境保護運動に献身。・・・彼のウィーン大学医学部在学時、時期的に見て、フロイトが在職していたことになる・・・ジークムント・フロイト(1856-1939)は、「夢判断」の中にも、自分の「宗派」、すなわち、「ユダヤ人であること」が原因で、教授のポストがなかなか得られないことを嘆いている場面があるが、1902年に、ようやく、給与も与えられない代わりに、教授義務もない、「特別教授」の地位を、ウィーン大学から与えられ、通常の教授職に就くのは、1920年のことであるらしい、・・・、1933年、ナチ党、政権掌握、フロイトの著作は、「焚書」に付される、1938年3月13日、「アンシュロスAnschluss/ナチのオーストリア併合」、当初、ウィーンを離れることを躊躇していたフロイトも、娘のアンナがゲシュタポの尋問を受けるにいたって、英国への脱出を決意、当時の国際精神分析協会IPA/International Psychoanalytical Association」会長、アーネスト・ジョーンズErnest Jones(1879-1958)の各方面への尽力もあり、同年4月から5月にかけて、家族が順次出国、しかし、ナチ政府の妨害もあって、彼自身が、ロンドンに到着したのは、6月6日であった。・・・

フロイト、主要著作、いや、自分が読んだことがある、というだけだが(笑)、関連年表

ウィーン、ポズナニ

アルメニア
・・・
ミヤマガラスの群れの中にすごく小柄でかわいいのが混じっていたら、コクマルガラスである。くちばしは短く、体つきも丸っこい。鳴き声も「キュッ」「キュン」とムクドリのようだ。コクマルガラスは色彩多型があり、真っ黒な黒色型と白黒の淡色型がある。淡色型はパンダのようで特にかわいい。
「カラスの教科書」松原始(講談社文庫)
コクマルガラスは、ハシブトガラスやミヤマガラスと同じ、カラス科カラス属、当地では、ミヤマガラス自体が、きわめて稀な渡り鳥、コクマルガラスも、同様のようであるが、当地では、ハシブトガラスの群れにまじっていることが多い、と言われる。コクマルガラスCorvus dauuricusは極東地域に生息、ローレンツの著作に登場するのは、近縁種のニシコクマルガラスCorvus monedula

スズメ目カラス上科、分類表
・・・
「ソロモンの指環」が、日高敏隆氏の翻訳で、刊行されたのが1963年、この人は、「ファーブル昆虫記」の翻訳者でもあるから、フランス語もドイツ語も堪能だったのである、・・・、ローレンツが、ナチ党員であったという「過去」が、知られるようになったのは、1973年のノーベル賞受賞はもとより、1989年の彼の死よりも、ずっと後のことであったようだから、翻訳に携わった時期に、日高氏もそれを知らなかったことになる。ローレンツが、連合軍による捕虜の身分から解放され、アルメニアの収容所から、オーストリアに帰国するのが1948年、「ソロモンの指環」は、その翌年に出版されているのだから、彼が、ペットのムクドリとともに、持ち帰ることが許された「草稿」の中に、この書の原稿も含まれていたのだろう、と想像される、・・・、「アルテンベルクの切妻屋根のまわりにはじめてコクマルガラスが飛んでから」、「コクマルガラスたちは今なおわれわれの家の屋根でヒナをかえしている」、これら二つの表現の間に、前者が、1927年から遡る数年前、後者が、1948年から1949年、とすれば、「ナチ党入党」、「戦争」、「従軍」、「捕虜収容所」等々の経験が、ことごとく含まれていることになる。・・・若い頃から深く傾倒していたであろうこの「動物行動学」の先駆者の、「過去」を知ることは、日高氏にとって、とてもショッキングなことであっただろう、もし、という無意味な「仮定」をしてみるとして、あらかじめ、「知って」おられたとしたら?翻訳を引き受けることはしなかっただろうか?いや、そもそも、「傾倒する」こともなかったのだろうか?「学問的業績」は、著者の「政治的立場」と無関係に「中立」である、などということを言いたいわけではなくて、人と書物が、人が、ある「思想」に、「出会う」という経験は、「無理由的」な、ほとんど、「先験的/トランセンデンタルtranscendental」とも呼ぶべきもの、と思っているから、そのような「仮定」自体が、やはり無意味なのだ、というところで、とどめておくことにしよう。
・・・
受け取るがよい、王にしてダビデの子なるソロモンよ。主なる神、いと高きゼバオト(万軍の主)が汝にくだされた賜物を。これによって、汝は地上の悪霊を男女とともにことごとく封じるであろう。またこれの助けによって、汝はエルサレムを建てあげるであろう。だが、汝はこの神の印章を常に身に帯びねばならぬぞ
"Take, O Solomon, king, son of David, the gift which the Lord God has sent thee, the highest Sabaoth. With it thou shalt lock up all demons of the earth, male and female; and with their help thou shalt build up Jerusalem. [But] thou [must] wear this seal of God. And this engraving of the seal of the ring sent thee is a Pentalpha."
「ソロモンの遺訓/The Testament of Solomon」
「ソロモンの指環」があれば、動物の言葉がわかる、という伝説があるようで、ローレンツは、そこから、この書物のタイトルをとったらしい。「ソロモンの遺訓」は、旧約聖書の「偽典」の一つとされているらしい。



そこで、私はレンベルガンという記者に云って、彼の姪にあたる子供の日記のうち、一昨年の十二月八日から昨年の二月十五日まで、戦争中の日記のところだけ切りとって来てもらった。彼女はオランダ系のユーラシアンで十四歳の少女であった。・・・レンベルガンの姪の言によると、祖国というものを持たないユーラシアンは、そのときそのときの支配者に従うよりほかに行く道はない。英国に行けば東洋人だと云って排斥され、東洋にいると混血児だと云って歓迎されそうもない。祖国を持つ人をつくづく羨むと彼女は云った。
・・・
十二月十二日
たいていの人たちは、もう空襲はないものと安心して避難所のことを慎重に考えなくなった。・・・警報が鳴っても人々はあまり驚かない。
・・・
十二月二十日
人々は土嚢を手に入れようとあせりだした。とても暴利で売っている。公共の避難所がないのである。なぜ、それを造らないのだろう。民衆を不安にさせることは、英国軍そのものの損であるのがわからないのだろうか。
・・・
一月一日
昨夜は空襲警報が二回あった。私たちは眠っていても警報が鳴ると「警報だ、警報だ」と夢うつつで叫び、それから目をさまして「どこだろう、静かに静かに」などと云った。そして着物を着ていると、途端に爆弾の破裂する音がしたので私は外に飛び出して、防空壕に逃げ込んだ。私の小さい弟は、防空壕のなかで眠っていた。警報も爆弾の音も、彼の目をさまさせなかった。暗闇は恐怖の度を深くした。ほんの小さな物音がしても、私たちは飛びあがるほど驚いた。数人のピジャマ姿の人たちが、戸外で月光を浴び、お互いに話をしながら空を見て立っていた。飛行機を探す探照灯の光芒は、かくれんぼの遊戯を私に思い出させた。日本軍の飛行機は銀色に塗ってあるので空の色とまがい、見つけるのが難しい。弾丸が飛行機の近くで光の十字架のように炸裂するのが見えた。瞬間、美しい光景であった。
・・・
二月十四日
私たちは砲弾や機関銃の音に慣れたということに仮定して、なるべく待避所へ行かないように約束した。そうでもするよりほかに何の慰めも誇りもない。・・・
・・・
二月十五日
・・・すると午後九時に、殆ど三日間も耳にしなかった警報解除のサイレンが、高らかに明瞭に鳴り渡った。・・・

「或る少女の戦時日記」井伏鱒二(講談社文庫「花の町・軍歌『戦友』」所収)
「一昨年の十二月八日」、1941年12月8日、「パールハーバー攻撃」と同時に、日本軍は、マレー半島ペナンPenangに上陸、そこから南下し、翌1942年2月16日、シンガポールを占領する、陸軍報道班員として徴用されていた井伏鱒二は、移送される船中で「開戦」の報に接する、シンガポール「入城」後は、「昭南」と改名されたこの町で、「昭南タイムス」なる英字新聞の編集者となる、その記事の中に、英文で書かれたこの少女の日記を掲載しようとしたのであろう、「ユーラシアン」はもちろん「Europe」と「Asia」からつくられた言葉だが、多くは、ヨーロッパ人入植者男性と、「原住民」の女性の間に生まれた子供を指す用語として、当時、用いられていたらしい、たとえば、ジョージ・オーウェル「ビルマの日々」にも、この言葉「Eurasian」が用いられていた、「レンベルガンという記者」は、おそらく「マライ人」と思われ、したがって、日記の書き手の少女も、マレー系であったと想像される。
「植民地主義者、『原住民』に会う」症候群、と名付けようと思う、・・・、ものについて、井伏鱒二と小津安二郎のシンガポール

  • Woodsvale:「ウッヅ・ヴィーユ」
    Kelantan:「ケランタン」・・・地方からの一部撤退者がシンガポールに着いた。ウッヅ・ヴィーユに送られた。・・・ウッヅ・ヴィーユに送られた人たちは、ほかの場所のいろいろの家に分宿させられた。船に乗込むためである。しかし英国人にだけ乗船の権利を与えられた。・・・ケランタン陥落。(十二月十五日)
  • Katong:「カトン公園」・・・カトン公園が閉鎖された。たとえ開かれていたにしても、水泳ができないから不必要、海岸全部が鉄条網で塞がれたからである。(十二月十八日)
  • High Street:「ハイ・ストリート」
    North Bridge Road:「ノース・ブリッヂ・ロード」・・・各商店は硝子戸を板で塞いだので、街が暗くなった。しかし「いつも通り営業」と、至るところカードに書いて貼ってある。ハイ・ストリートノース・ブリッヂ・ロードは、もっともおかしものに見える。(十二月二十日)
  • Zoo Johor Bahru:「ジョホール動物園」・・・ジョホール動物園の動物たちが殺された。このような運命になったのは大変に悲しい。一方では嬉しい。もう苦しむことがないだろうと思われるから。――爆撃につづく爆撃、しかし猿と小鳥たちだけが解放された。例のオランウータンはスマトラへ送られた。以上、今日の新聞に書いてあった。(十二月二十一日)
  • Kuala Lumpur:「クアラ・ルンプール」
    Penang:「ペナン」
    Ipoh:「イポ」・・・クアラ・ルンプール市が初めて空襲を受けた。人の噂では、ペナンの最初の放送として、それが放送されるのを人々は予想していたということである。・・・イポ撤退。(十二月二十六日)
  • Perak:「ペラ」
    Sungai Siput:「エス・シプウ」
    Terengganu:「トレンガヌ」
    Kemaman:「ケマラン」・・・ペラエス・シプウ、及びトレンガヌケマランの激戦。(十二月二十七日)
  • Alexandra Road:「アレスキャンドラ・ロード」・・・続いてアレスキャンドラ・ロードの重油タンクが爆撃され、大きな火柱が立ちのぼった。(十二月二十九日)
  • Kluang:「クルーアン」・・・(宣伝班員の私たちは、一月二十九日から二月十一日まで、クルーアンの宿舎において待機した。クルーアンは小さな町である。そこかしこに岡がある。夜、その岡に登ると、ゴム園の向うの空が赤く染まって見えた。セレタ軍港の重油タンクの燃えている明るみである。私は二月八日の夜、はじめて岡の上からその明るみを見た。毎日のようにシンガポール空襲に出かける日本軍の飛行機を私たちは見た。・・・)
  • Pasir Panjang:「パシル・パンジャン」・・・日本軍がパシル・パンジャン地方に侵入したとのうわさである。(二月八日)
  • Pulau Ubin:「プラウ・ウビン」
    Cathay Building:「カセイ・ビル」・・・日本軍上陸の記事が新聞に載っていた。またプラウ・ウビンの上陸の記事も載っていた。
    ・・・
    今日の一回の警報中、私は外出して家にいなかった。私はカセイ・ビルの近くを通行していたので、そこの待避所の一つに逃げ込んだ。(二月九日)
  • Raffles University:「ラッフルス大学」
    Jurong Island:「ジュロン」・・・診療所の人の話では、ラッフルズ大学が応急的に病院に使われることになったそうだ。・・・今日は四人の給仕が呼び出しを受け、一台の病院車と三つの担架と共にジュロンに派遣されることになった。(二月十日)
  • Serangoon Road:「スランゴン・ロード」
    Tanglin Road:「タングリン・ロード」・・・スランゴン・ロードの区域では、市民は家の戸締りをして必ず在宅するようにと警告が発せられた。タングリン・ロードでは住宅地帯に対空火器が据えつけられ、市民はもし可能なら三十分以内に退去すべしという通告を受けた。(二月十一日)
  • Orchard Road:「オーチャード・ロード」・・・昨日、オーチャード・ロードに軍の貨物自動車の群れが駐車して、兵隊が路傍で眠っていた。この兵隊たちは、今日どこかへ出発した。オーチャード・ロードの市民たちは、どこかへ移転するように警告された。・・・このどさくさの際に出来た怪我人たちは、ゼネラル・ホスピタルに運ばれて一時そこに収容されることになった。(二月十一日)
  • Bukit Timah:「ブキテマ」・・・もうブキテマの丘も日本軍のために占領されたという噂もあると、戦闘が身近なところに迫って来たことが痛切に感じられる。印度兵や英国兵の部隊を見ても、前線ではこのようでもあろうかと思われるように忙しそうである。(二月十三日)
  • Johor Bahru:「ジョホール・バール」
    Johor Strait:「ジョホール水道」
    Seletar:「セレタ」・・・この日記の最終日の二月十五日には、私はジョホール・バールの空き家に泊まっていた。ジョホール水道を隔てた対岸に、三箇所から重油タンクの燃える煙が立ちのぼっていた。左手のセレタ軍港の重油タンクの煙が最も壮大であった。・・・翌日、十六日の早朝、私たちは仮修理された陸橋を渡ってシンガポールに入った。

・・・

シンガポール全図・拡大

シンガポール中心部・拡大

マレー半島、カリマンタン島・拡大
ラッフルズ大学は、1823年に、イギリスの植民地行政官、スタンフォード・ラッフルズにより開学、現在は、郊外に移転、地図には、「Raffles Institution」と示した、元来の所在地は、現在「Raffles City」というショッピング・モールとなっているようである
スタンフォード・ラッフルズStamford Raffles(1781-1826)、西インド諸島の交易に従事する船主だった父の下で、ジャマイカ沖の船上で生まれる、1795年、14歳で、英国東インド会社の事務員として働き始め、1805年、マラヤのプリンス・オブ・ウェールズ島、現・マレーシア、ペナン島に派遣、1811年、ナポレオン戦争で、オランダがフランスによって併合されると、オランダ領東インド、現・インドネシア、ジャワ島への侵攻に従事、その戦功により、(英国支配下となった)オランダ領東インド副知事に任命される、この際、ボロブドゥール遺跡を再発見、1812年、ヨグヤカルタYogyakartaの地元首長の宮殿を襲撃、掠奪等を行う、スマトラ島パレンバンPalembangでも地元スルタンを排除すべく進撃、1814年、イギリス―オランダ条約により、ジャワ島がオランダ領に帰すとともに解任、英国に戻る、「ジャワ誌The History of Java」執筆、1818年、スマトラ島ベンクレーンBencoolen、現・ブンクルBengkulu副知事として再び東南アジアへ、マレー人のイスラム国であるジョホール王国の内紛に乗じて、シンガポール獲得、1819年、シンガポール開港、1824年まで、同島に滞在、植民地建設、博物学的貢献として、「ラフレシアRafflesia」という花に、その名を残している。

オーストラリア、パプアニューギニア、インドネシア・拡大



「寝ころんでたのさぁ、屋上でぇ・・・」、てな感じで(笑)、あるいは、「ア・フール・オン・ザ・ルーフ」、ちょっと「回文」みたい?

二階建て住居の二階分の「賃借人」に過ぎない私には、何ら「権限」がないのだが、こうして、我が物顔に(笑)、屋上を闊歩できて、ほんとによかったと思う、月が昇ってから沈むまで、追うことができるし、隣の庭を訪れる鳥たち、ほら、ちょっと離れたところにとまったサシバも、眺められるし、そう、カラスと遊ぶことだって(笑)!その、サシバ(タカ科)








サシバ(タカ科)


これは、「昼下がり」の日差しだな。




ハクセキレイ(セキレイ科)

コサギ(サギ科)

ハクセキレイ(セキレイ科)

キセキレイ(セキレイ科)

カワセミ(カワセミ科)

イソシギ(シギ科)


でも、それ、君のせいじゃないから(笑)。










クロツラヘラサギ(トキ科)、・・・、毎年、集団で、越冬する場所が、沖縄本島内にも、二か所ばかりあるようなのだが、ここは、その場所とは異なる別の海岸で、たった一羽ぽつねんと休んでいた、まだ、干潮時の「かき入れ時」(笑)には、間がある、一番下の写真は、その重そうな「箆(へら)」状くちばしを、背中に乗せて、重心が二本の細い脚、いや、片足ごと交互に休めることもあるから、一本と言うべきかも、の直上になるように工夫されているのだろう、これが、彼らの、「眠り」のポーズのようなのである、今季初めてお目にかかることになった、あるいは、ここよりもっと南で越冬する者たちが、旅の途中に立ち寄った、という事情かもしれない、と想像する。・・・ちなみに(笑)、「かき入れ時」は、「書き入れ時」と、書くんだね(笑)、商店に、弾きも切らずに客がやって来て、品物が売れるから、帳簿に「書き入れ」るのも大変、という由来らしい。


そろそろ「出勤時間」だから、出てきました、という風情、・・・、あるいは、コンクリートの上に、ゆらゆらと、波の模様が反射して揺れている、こういうのを「陽炎/かげろう」って、言うんだよな?






ゴイサギ(サギ科)、・・・、今日は、旧暦十月十一日、少し「太った」下弦、だから、干潮は日没後になる、それに、このゴイサギは、「夜行性」とも言われているし、だから、今、ふらりと飛来して、この、コンクリートの、消波壁って言うのかな?、そのぎざぎざになったところに、すっぽり、おさまるように止まった、こちらからだと、残念ながら、上半身しか見えないけど(笑)、そろそろ「出勤時間」だから、出てきました、という風情であろうか?全体に、黄色っぽいまだら模様になっているのは、「子供」のしるしであろう、・・・、コンクリートの上に、ゆらゆらと、波の模様が反射して揺れている、こういうのを「陽炎/かげろう」って、言うんだよな?、今日は、それほど、天気がよかった。


安心して(笑)、そう断定しているにすぎない、・・・。








リュウキュウミスジ(タテハチョウ科)、・・・、上の写真のように、羽を広げると、茶色地に白で三本の横筋になるから、そういう名前なんだろう、「内地」にも、何種類かのミスジチョウの仲間が生息していることは、「昆虫図鑑オタク」(笑)の子供は、もちろん知っていた、それらの間の微妙な差異を識別するのは、困難なはずで、だが、どうやら、当地には、この、固有種、リュウキュウミスジ、のみしか生息しないようなので、安心して(笑)、そう断定しているにすぎない、・・・、もう、11月も下旬だというのに、「泳げるんじゃないか?」などと酔狂なことを言いだしかねないような(笑)、暑い日であった、羽を広げているのは、「日光浴」のように見える、鳥の場合なら、紫外線の力を借りて、寄生虫などを駆除する、という「目的」ということになるが、蝶たちがしばしば行うこの行動も、そういう「動機」にもとづくものかどうかは、知らないけど(笑)、・・・、とまっているハート形の葉っぱは、ここは、入り江の防波堤のすぐそば、海岸植物たる、オオハマボウ(アオイ科)、と思われる。



サシバ(タカ科)

イソヒヨドリ(ツグミ科)




これは、さる有名私立中学の入試問題なんだそうだ、a,b,cには、具体的な数値が示されていて、黄色い部分の面積Sを求めよ、という話、・・・、うっかり目に入ってしまったから気になり(笑)、錆びついた頭を動かして、やってみた、「時間」を「無駄使い」できるのは、ありがたいことだからね(笑)、・・・、「バウムクーヘン」の一切れみたいに、湾曲しているが、aが「下底」、bが「上底」、そして「高さ」がcであるような「台形」の面積と、同じ結果になる、という話は、遠い昔(笑)、やはり「有名私立中学」の受験生だったからだろう、おぼろげに、聞いたことがあったような気もする、いや、それだけの話だ(笑)、まあ、解けてよかった、解けたからこそ、自慢そうに書いているわけだが(笑)、・・・。



消失してしまうことになる年の春先、「内地」から、辺野古の支援に来てくださった人たちをご案内したのが、首里城を見た「最後」だった。小高い丘の上にあるから見晴らしがよく、ああ、あのあたりが私の家です、なんて指差した記憶があるから、ということは、うちの屋上からも、首里城が見えるはずなんだ、もっとも、あの特徴的な朱塗りが緑の中に浮かんでいるからこそ、あそこだってわかるわけで、焼けてしまった直後は、きっと見えなかったはずだ・・・「小春日和」なんて生易しい(笑)ものではない、汗ばむような「夏日」が、十二月の初旬には必ずあって、春花がうっかり(笑)一斉に咲いたりする、そんな日、浮かれて出かけたいが、車にガソリンもなく、お金もない(笑)、仕方なく、歩いて行ける所に行くしかなかったのだ、「再建」された全容を、目にすることができるまでは「生きていないだろう」(笑)と思ってたんだが、なかなか工事は進んでいるようだ・・・鳥、魚、花、あるいは猫しか撮らない「写真家」だから(笑)、建物にカメラを向けるなんて、緊張する・・・(1)「奉神門」、その背後が「正殿」になるんだろう、(2)「守礼門」

奉神門

守礼門

首里城の全体図:1-正殿 2-北殿 3-南殿 4-奉神門 5-番所 A-守礼門 B-歓会門 C-瑞泉門 D-漏刻門 E-広福門 F-久慶門 G-右掖門 H-木曳門
「瞼の裏の」、首里城
四年前に書いたものだが、再録しておこう・・・
まだ空が暗いうちから、頭上をヘリコプターが延々と旋回しているようで、そんな爆音には慣れている筈の耳にも、時刻が時刻だけに、異様だった。何台もの消防車やパトカーのサイレンが、ごく近所に響き渡っているし、何か、ただならぬ事態が生じているのは想像できたが、お腹の上で猫が何匹か(笑)、熟睡しているのを揺り起こすのも申し訳なく、というのを言い訳にして、起き出さなかった。
74年前、になるのか、沖縄戦の際には、日本軍がその地下に総司令部を設営していたから、首里城は、米軍によって、完膚なきまでの砲撃を受けた。占領下の1950年、米軍政府によって、その跡地に琉球大学が開学、復帰後、1979年から1984年にかけて、西原町、中城村の現キャンパスに移転、あ、これは今調べたんだけどね(笑)。琉球大学の移転は、当時どこの大学にもあった都心から郊外へ、の、流れに沿ったものであったろうが、施政権返還後の沖縄にとっては、首里城の復元、というのが、大きな動機だったんだろうね。アメリカ流の「近代的」な校舎を全部取り除いて、そこに、300年前の建築物を復元する、というのだから、埋蔵物調査など、大変な仕事だったんだと思う。復元が完成するのが1992年、十年近い差月が費やされたのだからね。
私が沖縄に来たのが、1999年、初めて見る首里城は、その「異国的」な色合いとも相まって、まだ、出来たばかりだったから、「ペンキ塗りたて」、みたいな、失礼だけれども、少し「チープ」な印象がしないでもなかった。あなたも京都生まれだからわかるでしょう?私たちは、このお寺は900年前に建てられました、とか言われても、へぇ?と大して驚かないようにできている(笑)。本当は、そんなお寺でも、ほとんどは、何度も火災に遭って建て直されたものばかりなんだろうけれど、木造建築が時の流れとともに醸し出す、古びた「味わい」を、私たちは、当然のものと思っている。
こちらに住んで間もなくの頃、関西からお友達が、わざわざ訪ねて来てくれた。首里城に案内して、帰りの車の中、きっと、私の第一印象と似たようなものだったんだろう、やや「落胆」の雰囲気が漂っていたんだが、そのうちの一人が、「でも、なんもかんも、いっぺん焼けてしもたんやからなぁ」、とまるで自分に言い聞かせるみたいに呟いてくれたのに、救われた。その人も、当時、阪神間に住んでいて、その数年前の、「なんもかんも焼けてしもた」街を、だから、知っているのだ。
今の那覇市は、港町である那覇と、高台にある城下町、首里とが、合体して出来ている。那覇の方は、米軍が上陸して地上戦が始まる1945年の前年の秋、「十・十空襲」と呼ばれる、10月10日の空爆で、「灰燼に帰した」と言われている。だから、この町には、どちらにも、70年以上の「歴史」を持つ、建物は、一つもないのだな。でも、そんな「歴史」を失ってしまった街を、私もまた、「愛そう」として生きてきたように思う。
今年の初め、本土からの客人を案内する機会があって、何年かぶりに首里城を見物した。「見物」というのは、入場料を払って、という意味で、無料で入れる外郭は、うちから歩いて十五分もかからないから、まだ、犬も私も(笑)元気だった頃は、定番の散歩コースだった。さすがに二十年の歳月は、ちゃんと、首里城の、朱塗りの壁や柱にも、堂々とした「落ち着き」を、付け加えてくれたようで、ちょっと「見直した」(笑)、ところだったのだ。
もう一度、再建が成るとして、前回のように、調査に難航することがなければ、数年、でも、再び「歴史」の「おもむき」が加味されるまでには、また、それから二十年(笑)、さすがにそれは、もう、生きていない(笑)気がするから、これからの「残り」の時間は、瞼の裏の、「記憶」を大事にしていこうと思っています。
早速のメール、ありがとうございました。おかげで、こんな長すぎるお返事(笑)、いろいろ思い出しながら、書いてみる機会が出来ました。
猫や鳥や魚の写真しか撮らないので(笑)、首里城が辛うじて写っているのをやっと探すのも大変だった。イソヒヨドリ(ツグミ科)というこの鳥は、元来「磯」を好む、だから、このサンゴ由来の石灰岩の石組もお気に入りの場所なのだろう、いつ行ってもいる。もう十年ほど前の写真。





「望」、という「中心」を欠いているので、なにか、まとまりのない感じは、否定できないが(笑)・・・旧暦十一月の月。


そう、天気予報が今夜もはずれた話と、野球の話ばかり、何度も何度も繰り返す、「タクシー・ドライバー」、みたいにね!


「下弦」はうさぎさんのお顔が隠れているので、もう一つ親しみがわかないのだが(笑)、「有明」の、刻々変わっていく空の色合いには、思わず見とれてしまうので。


旧暦十一月三日の月、月の入時間前

旧暦十一月六日の月、南中

旧暦十一月六日の月、月の入二時間前

旧暦十一月七日の月、南中二時間前

旧暦十一月七日の月、南中二時間後







旧暦十一月十三日の月、月の出二時間後

旧暦十一月十三日の月、南中一時間前

旧暦十一月十三日の月、南中一時間後

旧暦十一月十三日の月、月の入二時間前

旧暦十一月十四日の月「待宵」、月の出二時間後

旧暦十一月十四日の月「待宵」、南中二時間後



旧暦十一月十七日の月「立待」、月の入三時間前「有明」

旧暦十一月十八日の月「居待」、南中一時間後

旧暦十一月十八日の月「居待」、月の入二時間前「有明」

旧暦十一月二十日の月「更待」、月の出二時間後

旧暦十一月二十日の月「更待」、月の入三時間前「有明」

旧暦十一月二十一日の月、月の出二時間後







旧暦十一月二十一日の月、南中「有明」

旧暦十一月二十一日の月、南中二時間後「有明」





旧暦十一月二十二日の月、南中一時間前「有明」

旧暦十一月二十三日の月、月の出二時間後

旧暦十一月二十三日の月、南中二時間前

旧暦十一月二十三日の月、南中一時間前「有明」

旧暦十一月二十三日の月、南中一時間後「有明」

旧暦十一月二十四日の月、南中二時間前「有明」

旧暦十一月二十五日の月、月の出二時間後

旧暦十一月二十五日の月、南中二時間前「有明」



旧暦十一月二十六日の月、南中二時間前「有明」
・・・
月の出と月の入の方角、それから南中時の仰角のデータが得られたので、それら3点を通る円の中心座標を求められないか?と、始めて見たものの(笑)、なかなか収拾がつかなくなってきたようである・・・


2024年、月の出月の入、潮汐付きカレンダー/2024年、キリスト教行事、ユダヤ歴、ヒジュラ暦との対応表

多分、最後まで、解けないままに終わるだろう(笑)、「謎」。

「国立天文台」のウェッブサイトに、全国各地の月の見え方、月の出、南中、月の入、の時刻ばかりではなく、月の出、月の入は、その方角、南中ならば、その高度、が記してあるので、それを利用して、前から「謎」だったのだ、月の地球に対する公転軌道が、ある周期をもって遷移しているのだが、その周期たるや、朔望月29.5日に、非常に近いのだが、わずかにずれているために、たとえば、南中高度が一番高くなる月が、いつも「満月」ってなわけではなくて、それもだんだんずれて行く、だからこそ、高い満月もあれば低い満月もある、というわけで「風流」この上ない(笑)、には違いないのだが、これはどういうわけなんだろう?、「チャート式地学」程度の(笑)参考書では、それは判明しないようで、おそらく、このまま、判明しないままに、終わることになるのだろう、それも、まあ、良しとしよう(笑)、こうして、月の出、南中、月の入、という3地点の座標がわかった以上、それらを通る平面は、ただ一意的に決定されるわけで、さらに、当該平面上において、これら3点を通る円もまた、決定される、その中心座標を、計算することは、もちろん、原理的に(笑)可能なのであるが、何度やってみても、うまく合わない(笑)、というところで、投げ出さざるを得なくなっているところ、・・・、なんで、こんな、ある種(笑)、どうでもいい事柄に、異常にこだわっているんだろうか?、といえば、それは、もちろん、もっとほかに「人生にとって」(笑)、「大事なこと」(笑)とやらをめぐる問題に、いわく「直面」することを、恐れているがゆえに、ある種の「逃避規制」が、働いているのだろうことは、わかりやすい道理ではある、もう、「人生にとって、大事なこと」とか、とっくに諦めてるんですから、そろそろ許してくださいよ!(笑)、とかお願いしても、この、やっかいな、「無意識」ってやつは、あるいは、「超自我」ってやつは、きわめて、しつこい性格をもっておられるらしいのだ(笑)。


「初物」、だからといって、ありがたい、とは限らない(笑)。

グレゴリオ暦2024年、「初日・の・入・」・・・「初日の出」でないのは、単に起きれなかったからだ(笑)、天気はすこぶるよくて、西の空高くには、「臥待」の「有明」の月もかかっていただろうに。もちろん、この写真の並びを逆回しにして、「日の出」を「偽装」することもできたんだが(笑)。
・・・
「初日の出」は、一度だけ見たことがある、グレゴリオ暦2000年の1月1日、場所は、辺野古の漁港と、キャンプ・シュワブに挟まれた砂浜、今は様変わりしてしまって、うまく思い出せないのだが、当時は、粗雑に鉄条網が這わされた柵しかなくて、多少の危険を冒せば、基地の中に、入りこめる状態だったんじゃないかな?日本共産党系の団体の主催で、喜納昌吉とチャンプルーズを招いた、年越しイベントが開催されたのだった。私はその前年の秋に京都から名護に引越してきたばかり、勤め先の予備校が、かつて離島出身生の寄宿舎に使っていた部屋に、タダで住ませてもらっていた。「大みそか」には、夜遅くまで「特別授業」が行われ、そのあと、大鍋で用意した「年越し」沖縄そば、が振舞われる・・・そんな、過度に親密な雰囲気に溶け込む能力を持ち合わせていないはずの私であったが、「新天地」にやって来たばかりの「躁状態」にあったのだろう、「スクールバス」の、おんぼろ(笑)ハイエースを運転して、生徒たちをその辺野古のイベント会場まで連れて行ったのだった、ちょうど、朝日が昇るころ、喜納昌吉が登場して、「花」が演奏される、観客の多くが舞台に駆け上がって、両手をゆらゆら左右に揺らしながら、それは「花」をかたどっていたのかもしれない(笑)、「泣きなさあーいー、笑いなさーああーい」、と、声を合わせるのだ、・・・、経営者が「団塊」活動家系、の人だったから、「基地反対」の言論が、声高に通ってしまう環境だったが、もちろん、生徒さんたちの中には、沖縄経済の基地依存体質を批判する、立派な小論文を書いてしまえるような「優等生」もいる一方、「軍用地主」の子供も、基地従業員の子供もいたのだから、皆は、それぞれに葛藤を抱えていたに違いないのだが、ふとまわりを見ると、生徒たちもみな舞台にのぼっていて、同じく手を振りながら、歌っているではないか!今になって思えば、それこそが、複数の「正しさ」の存在を、当然のこととして生きる、というこの土地の「第三世界」性を、初めて感得した瞬間だったかも知れない、・・・、これが、そのときの写真↓




ムナグロ(チドリ科)

アカアシシギ(シギ科)

キアシシギ(シギ科)

スズメバチ科ドロバチ亜科の一種

チュウシャクシギ(シギ科)

サシバ(タカ科)





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Last updated  2024.02.25 20:21:33



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