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2024.02.28
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カワジシャ(ゴマノハグサ科)

コチドリ(チドリ科)

チャバネセセリ(セセリチョウ科)、タチアワユキセンダングサ(キク科)

ウシハコベ(ナデシコ科)


「ねこログ」、総目次(笑)/新・「ねこログ」、総目次(笑)/続・「スクラップ・ブック」、の、目次。
目次:毎年恒例の(笑)、「陰●嚢」という名の春花を探す旅・・・英語なら「ヴェロニカ」などという愛らしい名前なのに?、そして、「とんとんみー」、「第一背びれ」談義/ちっとも、「耐えられない退屈さ」、などではなかった・・・ミラン・クンデラ「存在の耐えられない軽さ」を、ようやく、読む・・・そこから話はそれて、カレル・チャペック、カフカ、アインシュタイン、米原万里のプラハ/「ドイツ人は、『ホロコースト』のせ・い・で・、ユダヤ人を絶対に許さないんだ」という、あまりにも正確な言明・・・ガザをめぐる報道は続く/「贈与」に対して「返礼」を尽くさないことが、どれほど人々を絶望に追い込むものであるか、などと考えましたので・・・「ミラル」を読み直す。/「アメリカは、無意識まで占領している」、「国境Landes Grenze」、はどこなのか?・・・ヴィム・ヴェンダース「さすらい」を観る。/「第二〇〇番駅」、とはどこか?・・・リリアン・ヘルマン「ジュリア」のベルリン。/老人の手すさび(笑)、「三角関数の加法定理」、の証明。/恒例(笑)、「春の七草」談義、など。/




あぜ道にしゃがみこんで、這いつくばらんばかりにして、「雑草」にしかみえないものの写真を、たいそう大事そうに撮っているらしい、農家の人たちが、不審そうに通り過ぎて行かれるのも、当然といえよう(笑)。


毎年恒例の(笑)、「陰●嚢」という名の春花を探す旅。

「ヴェロニカVeronica」という言葉は、この種を含むゴマノハグサ科のうち、・・・、同科の花の多くは、例えば、トキワハゼのように、ラッパ状の花序なのだが、そうではなく、このオオイヌノフグリ、とか、カワジシャ、のように、まんまるの形をしているグループを指して、用いられるらしい、その由来は、「Veil of Veronica/聖ヴェロニカのヴェール」にあるそうで、聖書の中には描かれていないようだが、この人物はエルサレム在住の女性で、ヴィア・ドロローサVia Dolorosa、旧市街、聖墳墓教会Church of the Holy Sepulchreの東200メートル、からカルヴァリーCalvary、この言葉は、一般に、キリスト教の礼拝施設を指すようだが、ここでは、エルサレム西郊の、ゴルゴダの丘Golgotha、へ向かう路上で、イエスと出会い、自分のヴェールで、イエスの顔から、血と汗を拭きとった、と伝えられている、とのこと

エルサレム旧市街・拡大

エルサレム広域・拡大
これも何度も、毎年この時期に、書いたことだけれど、オオイヌノフグリという草は、どの図鑑や植物誌を見ても、変哲もない外来植物と扱われているけれど、「野草観察家」(笑)となって、すでに二十年になるけれど、一年のうち、たった一度か二度だけ見ることのできる、とても稀有なもので、そんなわけもあって、とても気に入っている花の一つなのだった、うちの近所の遊水地で、たった一度きり、見かけたことがあったが、どうも、同じサトウキビ畑の畔とはいっても、土の種類が異なっているからなのか、以来、南部では、一向見かけない、読谷村、嘉手納町の境界をなす比謝川を境に、この島は大きく植生を変えるといわれているが、その北側、いわゆる「やんばる/山原」の、酸性土壌、が「好み」なのか、わざわざそこまで出かけていくと、ほとんど間違いなく、見つけることができるのだ、北部特有の「赤土」に、いやが上にも映える、薄いブルーが美しく、しかも、なんだか、二つの突出した雄蕊が「目」にみえるのか、笑い顔にさえ見えてくるからね・・・この花が、「ヴェロニカ」と呼ばれるのは、おそらく、その花のつくりが、「聖ヴェロニカのヴェール」、布の中央に、イエスの顔が浮かび上がっているように見えるんだそうである、に、似ている、ということからであるらしい、なるほど、「顔」に見立てるのも、そう突飛な発想でもなかったのだ。


オニタビラコ(キク科)


「春の」、という形容語句が付されることもあるが、この「常夏」の島(笑)では、ほとんど、年中、咲く、・・・、それでも、今は、「春」だからね。




ノゲシ(キク科)

オオイヌノフグリ(ゴマノハグサ科)

カタバミ(カタバミ科)



オオイヌノフグリ(ゴマノハグサ科)


探しに出掛けてきた、三つのもののうち、二つは、結局見つけられなかったのだけれど・・・。

あれ?、何を探しに来て、何を見つけられなかったのかも、忘れてしまった(笑)、おそらく、この、「やんばる」の海沿いのサトウキビ畑に、立て続けに二度出かけた、一度目は、出かけるのが遅すぎて、お目当ての、オオイヌノフグリ、はすでにみなしぼんでいた、それから、ここでは、だいたい二年か三年に一度くらい、ルリハコベ(サクラソウ科)の「亜種」であるといわれる、アカバナルリハコベ、を見ることができたのだが、それが今回は見つけられなかった、もう一つはなんだろう(笑)?・・・ああ、思い出した、「春の七草」の一つ、「おぎょう」、ホウコグサ(キク科)、だ。






ルリハコベ(サクラソウ科)

ノゲシ(キク科)

オオイヌノフグリ(ゴマノハグサ科)



ダンダラテントウ(テントウムシ科)、オオイヌノフグリ(ゴマノハグサ科)











オオイヌノフグリ(ゴマノハグサ科)

ナナホシテントウ(テントウムシ科)、ヤエムグラ(アカネ科)

オオイヌノフグリ(ゴマノハグサ科)、・・・、左側が、その、「犬の陰嚢」に擬せられた果実



オオイヌノフグリ(ゴマノハグサ科)

ツルソバ(タデ科)


ずっと待ったのだが、か細い声で、慎ましく(笑)、二声、あげてくれたにとどまった。






サシバ(タカ科)


「もうすぐ、春ですね」、なのか(笑)?、あるいは、ススキの穂の上に載っても、ススキの穂がたわまないほどの軽さ。

これも何度も言ったが、セッカ(ウグイス科)は、「留鳥」、一年中いるはずなのだが、繁殖期が近づくとようやく、オスがサトウキビ畑の上空を旋回しつつ、「ちっ、ちっ、ちっ、ちっ」みたいな声で盛んに鳴き始める、だから、その声が、あたかも「春の訪れ」を伝えるものとなってくれるのだった。








セッカ(ウグイス科)
・・・

トックリヤシモドキ(ヤシ科)
オオイヌノフグリやアカバナルリハコベについては、こちら↓
「犬の陰●嚢」という名の、花を探して
トックリヤシモドキ(ヤシ科)、については、こちら↓
「西サハラ紛争」、「モロッコ」をめぐる記事から、いくつかの連想の糸をたどる、ジェレミー・ハーディング、四方田犬彦、エスター・フロイト、サン=テグジュペリ、・・・。


頭上から降り注いでくるような、「絶叫」。






ヒヨドリ(ヒヨドリ科)


動かぬ証拠、を押さえたつもりだったが、はて、先端が尖っているようでもいないようでもあり、黒い帯があるようでもないようでもあるではないか(笑)?

当地に生息する、ハゼ科のトビハゼ類、方言では、「とんとんみー」という、「みー」は、琉球語の音韻規則にのっとって、「眼」のことであり、「トントン」は、それが、突出していることの擬態語であろう、・・・、そのトビハゼ類の中には、非常によく似た二種があって、もちろん、通常「近縁種」というものは、「棲み分け」をしたりするから、同時に並・ん・で・いる、という事態は、ありそうもないので、人は、たとえば私は(笑)、つねに、どちらか一方しか見ていないのであるが、だから、自分が今、見ているものが、その二種のうちのいずれであるかを、一向に知ることができないのである、ものの本によれば、その二種、一方が、全国に分布する、トビハゼ、もう一方が、たしか、当地の固有種、ミナミトビハゼ、で、その識別方法たるや、「第一背びれ」の先端が尖っており、かつ、黒い帯がある、ものが、後者、ミナミトビハゼで、同じく「第一背びれ」の先端が丸みを帯び、かつ、黒い帯がない、ものが、前者、なのだそうであるが、・・・、元来水中の生き物であったはずのものが、こうして乾燥した地上に出てきているのであれば、当然、背びれ、などというものは、さしあたり用がなく、折りたたまれ、身体に貼りついているものなので、その先端が、どう、とか言われても、当惑を禁じ得ない(笑)、うっかり二匹が、出会いがしら、となった際に、おそらく、警戒の信号、相手を威嚇する身振り、として、そうね、たとえば猫ならば、「毛を逆立てる」などというのと同様であろう、背びれが、ぴんっ、と立てられる場面がある、そういう所が、ほら、うまく写っている一枚があったのだが、しかし、仔細に眺めてみても、・・・、上述のような事態なのである(笑)、でも、一応、尖っており、かつ、黒帯がある、ということにして、キャプションは、ミナミトビハゼ、にしておくことにした(笑)。







ミナミトビハゼ(ハゼ科)



イソヒヨドリ(ツグミ科)・メス


「タデ科」、という名辞だけで想起されてしまう、「トラウマ」的な、経験、について(笑)。


イヌタデ(タデ科)

カッコウアザミ(キク科)





イヌタデ(タデ科)



イヌタデ(タデ科)、一つ二つ、花が咲いている、ということは、他の、「赤のまんま」は、つぼみ、ということになるのか?

タカサブロウ(キク科)

タチアワユキセンダングサ(キク科)


「キンポウゲ科」は、英語で、バター・カップ、という、そんな名前の女の子が出てくる小説を読んだことがあるのだ。






タガラシ(キンポウゲ科)

タガラシ(キンポウゲ科)、ハチ目の一種

タガラシ(キンポウゲ科)


「終わり」が目前に近づいているのだから(笑)、「最後に・・・したのは・・・」みたいな思い出話ばかりになるのも、しょうがない。








リュウキュウコザクラソウ(サクラソウ科)

ヒメカメノコテントウ(テントウムシ科)

ルリハコベ(サクラソウ科)、花弁の色が薄い「変種」、アカバナルリハコベ、のように、なのか?、それとも、たとえば、土壌の違い、とかで、色が変わるのか?

セリ(セリ科)、おりしも、「春の七草」、の一つ。



イソヒヨドリ(ツグミ科)・メス


「奥山住まい」だと、気持ちも鷹揚になる、のであろうか(笑)?










シジュウカラ(シジュウカラ科)


電柱の天辺ばかり見てたら・・・(笑)。




サシバ(タカ科)


写っているのは二人なのだ、それは、電線のねじれ具合を見れば、わかる。








リュウキュウツバメ(ツバメ科)



サシバ(タカ科)


黒いシルエットになってしまったのは、その先に夕陽があるからだ、つまり、撮影者は西に向かって立っている(笑)。


ダイゼン(チドリ科)









シロチドリ(チドリ科)


ことさらに指摘しなければ、これが、「フェンス」の向う側、だなんて、気づくまい(笑)。


シロガシラ(ヒヨドリ科)、止まっているのは、モモタマナ、または、コバテイシ(シクンシ科)、と思われる




「創世記の冒頭に、神は鳥や魚や獣の支配をまかせるために人を創造された、と書かれている。もちろん創世記を書いたのは人間で、馬ではない」、こんな一節は、いかが?

神が本当に人間に他の生き物を支配するようにまかせたのかどうかはまったく定かではない。どちらかと言えば、人間が牛や馬を支配する統治を聖なるものとするために神を考え出したように思える。・・・
・・・すでに創世記で神は人間に生きものの支配をまかせたが、しかし、それは人間に支配をただ委任したに過ぎないと理解することも可能である。人間は支配者ではなく、いずれはこの管理の責任をとらなければならなくなる惑星の管理人である。デカルトは決定的な一歩を進めて、人間を「自然の主人である所有者」とした。そしてこの一歩とまさに彼が動物に心があることをけっして認めないという事実の間には何らかの深い関連性がある。・・・
「存在の耐えられない軽さ」ミラン・クンデラ(集英社)
The very beginning of Genesis tells us that God created man in order to give him dominion over fish and
fowl and all creatures. Of course, Genesis was written by a man, not a horse. There is no certainty that
God actually did grant man dominion over other creatures. What seems more likely, in fact, is that man
invented God to sanctify the dominion that he had usurped for himself over the cow and the horse. ...
...
... Even though Genesis says that God gave man dominion over all animals, we can also construe it
to mean that He merely entrusted them to man's care. Man was not the planet's master, merely its
administrator, and therefore eventually responsible for his administration. Descartes took a decisive step
forward:
he made man "maitre et proprietaire de la nature." And surely there is a deep connection between that
step and the fact that he was also the one who point-blank denied animals a soul. ...
The Unbearable Lightness of Being/Milan Kundera
・・・
あれは、「バブル」末期、であったろうか、「大胆なセ●ックス描写」、と、「鳴り物入り」で公開された映画、の、まことに「耐えられない退屈さ」に辟易して、申し訳ないが、この著名な小説にも、全然よい印象をもてずに、長らく敬遠していたのだが、古書店の書棚に、わずか200円という捨て値で、単行本が売られているのを発見、半世紀近くの遅れを伴ってではあるものの、読みはじめ、そうして、とまらなくなってしまった、依然として、濃厚な「セ●ックス描写」は、苦手(笑)なのであるが、ほら、この一節のようなのに、ときどき、出会うことになって、驚嘆させられているわけである・・・。もちろん、いつも通り、ここでの「映像」とは、ほとんど、何の関係もない話だが(笑)・・・。
・・・
1-25 神地の獸を其類に從ひて造り家畜を其類に從ひて造り地の諸の昆蟲を其類に從ひて造りたまへり神之を善と觀たまへり
1-26 神いひ給ひけるは我儕に象りて我儕の像の如くに我儕人を造り之に海の魚と天空の鳥と家畜と全地と地に匍ふ所の諸の昆蟲を治めしめんと
「創世記」・第1章
1-25⁠ And God made the beast of the earth after his kind, and cattle after their kind, and every thing that creepeth upon the earth after his kind: and God saw that it was good.
1-26⁠ And God said, Let us make man in our image, after our likeness: and let them have dominion over the fish of the sea, and over the fowl of the air, and over the cattle, and over all the earth, and over every creeping thing that creepeth upon the earth.
Genesis-CHAP.⁠ I.

The Unbearable Lightness of Being/Milan Kundera/「存在の耐えられない軽さ」ミラン・クンデラ(集英社)
The Unbearable Lightness of Being/Milan Kundera(English/PDF)
・・・
「そう。叔父に首ったけみたいよ。そのカリーナ・マシュークがこないだのデートの時に、胸元が大きく開いた真っ黒なドレス着て現れたんだって。あんまりセクシーだったもんだから、叔父はあそこがおっ立っちゃって困ったらしいわよ、なにしろ、人通りの多いバツラフ通りの真ん中だったから」
「嘘つきアーニャの真っ赤な真実」米原万里(角川文庫)
1960年代、まだ、日本共産党が、ソ連の党からは、「親中国派」とみなされていた時代だ、コミンテルン、コミンフォルムの後継組織、「平和と社会主義の諸問題」誌編集局に、お父さんが日本の党の代表として勤務していた関係で、小学生の米原氏は、「在プラハ・ソヴィエト学校」に通っていた、その頃の回想を綴った大変興味深い書物なのだが、プラハの町の地名が登場するのはごくわずか、この「バツラフ通り」ぐらいのもの、1980年代、ソ連崩壊後の、「ベルベット革命Velvet Revolution」の主要な指導者が、バツラフ・ハーヴェルVáclav Havel(1936-2011)、であることは知っていたが、この人物にちなんで命名されたのだとしたら、米原氏が回想の中でその名称を用いているのも、少し変、と調べてみたところ、・・・、プラハの街中でもっとも繁華、と言われる「バツラフ広場Wenceslas Square/Václavské náměstí」の名の由来は、10世紀の、「ボヘミア公ヴァーツラフ1世/Wenceslaus I, Duke of Bohemia」、そのチェコ語の表記が「Václav」、カトリック及び東方教会で、ボヘミアの守護聖人、「聖ヴァーツラフ/Saint Wenceslas」に叙されている、とのこと、・・・、wikipedia英語版で、「平和と社会主義の諸問題Problems of Peace and Socialism/World Marxist Review(WMR)(1958-1990)」の調べはついた、その本部は、プラハ市の北西部、読み方は怪しいが、「タクロヴァThákurova」と言うところにあったようで、「ソヴィエト学校」は、その近傍であるかのような書きぶりだった気もする、・・・、引用した言葉を発したのは、軍事独裁体制下で、亡命状態にあったギリシャ共産党の代表を父に持つ、リッツァ、その物語については、以下で若干書いた、・・・、
続「ホワイト・ティース」、ファースト・ネームを聞いただけで、「歴史」が開示されてしまうこと、そして、「ギリシャ内戦」から、米原万里、など
リッツァはのちに、ドイツで開業、移民労働者たちに慕われる医師となるのだが、その資格を取得したのが、「カレル大学」と説明されていた、・・・、「カレルKarel」は、ドイツ語なら「カールKarl」、フランス語なら「シャルルCharles」、スペイン語なら「カルロスCarlos」、英語なら「チャールズCharles」、「自由人free man」を意味するらしい、の、チェコ語版、だから、そのファースト・ネームをもった人は数多あるだろうが、この大学の名の由来となったのは、17世紀の、神聖ローマ帝国皇帝フェルディナンド三世Ferdinand III、であるらしい、チェコ語では、「Univerzita Karlova」、より一般には、「カレル大学プラハ校Charles University in Prague」、「プラハ大学University of Prague」として知られる、とのこと、・・・、
「カレル」と言えば、思い出すのは、カレル・チャペックKarel Čapek(1890-1938)、「園芸家12カ月」とか「チャペックの犬と猫のお話」の、いわゆる可・愛・い・お話ばかり選んで、「うつ病」の一番ひどい時期をやり過ごすことができた、忘れがたい作家なのだ、「山椒魚戦争」は、岩波文庫版をちゃんと買ってあるのに、どういうわけか、読まずに放置されたままだ、この作品が、痛烈にナチを批判する内容だったため、ゲシュタポから、目の敵にされ、1939年3月のチェコスロバキア併合時、すでに数か月前に彼が亡くなっていることを知らず、自宅が襲撃を受けたというエピソードが残っているそうだ、妻のオルガOlgaもこの時逮捕されたが、のちに釈放、1968年まで生きた、兄のヨゼフは、同年9月に逮捕、1945年に、ベルゲン―ベルセン収容所Bergen-Belsenで亡くなった、とのこと、・・・、カレルは、1909年、カレル大学入学、1910年、ベルリン大学/フリードリヒ・ウィルヘルム大学(ちなみに同大学は、1809年「ベルリン大学」として創立、1828年に「フリードリヒ・ウィルヘルム大学」と改称、さらに、1949年、東ベルリンの大学であるから、その「帝国」的過去をしのばせる命名を嫌ったのであろう「フンボルト大学Humboldt-Universitat」、哲学者、言語学者のウィルヘルム・フォン・フンボルトWilhelm von Humboldt、博物学者のアレクサンダー・フォン・フンボルトAlexander von Humboldtの兄、にちなむ名称となって今日に至る)、パリのソルボンヌ大学留学、1917年から、「国民新聞Národní listy」、「民衆新聞Lidové noviny」などでジャーナリストとして働く

ドイツ・拡大、「ベルゲン―ベルセン収容所」は、ハノーバーの北東100キロあたり、ベルゲンBergen、にあった

「園芸家12カ月」カレル・チャペック(中公文庫)/「チャペックの犬と猫のお話」カレル・チャペック(河出文庫)/「山椒魚戦争」カレル・チャペック(岩波文庫)
さらに、「プラハ大学」で気になったのは、最近、「マリリンとアインシュタインInsignificance(1985)」ニコラス・ローグNicolas Roeg、を観たのがきっかけで、ずっと前に買ってあったアインシュタインAlbert Einstein(1879-1955)の伝記などを読み始めているのだが、彼は、
1897-1900年、チューリッヒ工科大学Eidgenössische Technische Hochschule Zürich/Federal Institute of Technology Zurich在学
1903年、ベルンBernの「スイス特許局」就職
1905年、チューリッヒ大学Universität Zürich/University of ZurichにPh.D論文提出
1914年、ベルリン、フンボルト大学Humboldt University of Berlinに招聘される
おや?、wikipedia英語版では省略されてしまっているが、チューリッヒ大学とベルリン大学の間に、プラハ大学に勤務しているのである、・・・、それについては、当時のプラハ、という町の性格をうかがい知るのに、非常に興味深い話題がいくつかあるので、のちに改めて書くことにしよう、・・・、これも今は備忘にとどめるが、フロイトが、「夢判断」の中で、例示として自分自身の夢を語る部分なのだが、幼少期のプラハの記憶の叙述に、よく意味のとれない部分があった、それが、このアインシュタインの伝記の記事に照らし合わせると、少しはわかりそうな気がしたので、・・・、ちなみに、ジークムント・フロイトSigmund Freud(1856-1939)は、現チェコ、当時のオーストリア帝国、モラヴィアの町フレイベルクFreiberg、現プリボルPříbor、に生まれており、そこからライプチッヒを経てウイーンに移ったようだから、プラハには住んではいない

「マリリンとアインシュタインInsignificance(1985)」ニコラス・ローグNicolas Roeg/「評伝アインシュタイン」フィリップ・フランク(岩波現代文庫)
・・・
さらに、話が広がって、ますますまとまりがつかなくなり、またしても「間に合うのか?」と不安になるが(笑)、アインシュタインがチューリッヒにいた頃と前後して、ローザ・ルクセンブルク、少しのちにレフ・トロツキーがこの町に滞在している、それから、プラハ時代のアインシュタインは、やはり、プラハ大学の出身者であり、同地の、ドイツ語を話すユダヤ人コミュニティーのメンバーたる、作家の、マックス・ブロート、フランツ・カフカと知遇を得ているようで、おそらく、政治的な事柄を嫌った、と思われるアインシュタインが、「シオニズム」に初めて接近することになったのは、このコミュニティ、とりわけ、マックス・ブロートの影響だったのではなかろうか、とされているようである、・・・、マックス・ブロートMax Brod(1884-1968)、は、1912年以来、熱烈な「シオニスト」で、1918年、チェコスロバキア独立後の一時期、「ユダヤ民族協会Jüdischer Nationalrat」の副議長を務めている、1939年、ナチのプラハ占領とともに、英国委任統治下パレスチナ、テル・アビブに移住、建国以後のイスラエル国家に関して、どのような見解を有していたのかはwikipedia記事からは読み取れない、・・・、カフカの遺言に逆・ら・っ・て・、その原稿を焼却せず、出版してくれたおかげで、今日われわれがカフカの作品を目にすることができるのだ、というエピソードでしかこの作家を知らなかったが、上述の「評伝アインシュタイン」には、その作品の中に、ティコ・ブラーエと、ヨハネス・ケプラーとの間に交わされた議論の場面の引用があり、どうやら、彼は、後者のほうに、アインシュタインのイメージを重ねているのでは、と語られているが、その作品も含め、手に入りそうな著作は、ほとんどなさそうであった、・・・、もう一つ、前回、多和田葉子「百年の散歩(9)トゥホルスキー通り」で見たが、ベルリン生まれのユダヤ人ジャーナリスト、クルト・トゥホルスキーKurt Tucholsky(1890-1935)も、ちょうど同じころ1911年、プラハで、マックス・ブロート、フランツ・カフカに面会している、という
(9)トゥホルスキー通り、ブレヒト・ハウス、白熊のクヌート、フランツ・カフカ、そして「新しいものがこれまでに出逢った中で最高のものよりも更に良いである確率」

チューリッヒ・拡大
・・・
ちなみに、上の引用部分の、チェコの女優とおぼしきカリーナ・マシューク、らしき名前は、1960年代の「チェコ映画一覧」みたいなサイトを調査するも、発見できず、リッツァの叔父と「不倫関係」みたいな設定なのだから、おそらく名前は変えてあるのだろう。

プラハ・拡大
・・・
というわけで、いろいろ話が飛んで、肝心のミラン・クンデラの話は、中途半端に終わってしまったが、ほかにも、引用したい部分が多々あるので、これは、次回以降、ということにしよう、えっと(笑)、もちろん「間に合うのならば」、ということだが。




(訳注)ワシントンDC、地図↓在米イスラエル大使館は、同市の北部、下の図面では、「Rock Creek Park」と「Washington National Cathedral」の間、「Van Ness」地区にあるようである。

・・・
(訳注)「エリネルンクス・クルトゥール/記憶の文化」、この用語は、以下のwikipedia記事などを瞥見する限り、もっぱら「ホロコースト」の記憶を保全する、というドイツの歴史教育の文脈で、用いられてきたようである
Erinnerungskultur/Culture of Remembrance
ネット上で閲覧できるこのテーマに関する議論(英語・日本語)を見つけることはできなかったが、日本語で書かれた書籍では、岡裕人「忘却に抵抗するドイツ――歴史教育から『記憶の文化』へ」(大月書店)。
(訳注)マールールMa'alulは、ナザレNazarethの西6キロにあった村、ドキュメンタリー映画「マールールはその破壊を祝福するMa'loul Celebrates its Destruction」は、ナザレ生まれ、現ベルギー在住のパレスチナ人映画作家、マイケル・クレイフィMichel Khleifi(1950-)による1985年の作品、同監督の作品には、他に「ガラリアの婚礼Wedding in Galilee(1987)」がある

西岸、ガザ、イスラエル
(訳注)「下からの社会主義/ゾチアリスムス・フォン・ウンテン」、wikipediaにはエントリーなし、ウェッブ・サイトは見つかった↓、もちろんドイツ語であるが、その自己紹介と思しきページの冒頭の「拙訳」を試みてみると、・・・、
SOZIALISMUS VON UNTEN
「下からの社会主義」は、社会主義陣営内の、一つの革命的な組織です。
‚Sozialismus von unten‘ ist eine Organisation revolutionärer Sozialist:innen.
私たちは青年組織で、パレスチナ問題、反ファシズム闘争(アンティ・ファ)、反戦闘争に重点を置いて活動しています。
Wir sind eine junge Organisation und arbeiten mit Schwerpunkt zu den Themen Palästina, Antifaschismus, Antikrieg.
(訳注)「ワルシャワ・ゲットー」は、下の地図では、おおよそ北は「グダンスキー橋Most Gdański」、南は「スラスコ―ダブロウスキ橋Most Śląsko-Dąbrowski」、東は「サクソン庭園Ogród Saski」、西は「ユダヤ人墓地Cmentarz Żydowski」で囲まれたエリア、3.4平方キロの土地に、最盛時46万人が居住、1942年夏、「大行動Großaktion」と名づけられたナチの政策により、25万人が、トレブリンカTreblinka絶滅収容所へ移送された、移送を一時的に中止させることになった1943年5月の「ワルシャワ蜂起Warsaw Ghetto Uprising」以降、ドイツ軍により破壊された。

ワルシャワ

ドイツ、ポーランド・・・トレブリンカは、ポーランド東部、ワルシャワの北東100キロ、ケルン(コローニュ)Köln/Cologneは、ドイツ東部、オランダ、ベルギー国境近く
(訳注)「イーデッシ語Yiddish」、神聖ローマ帝国の領域に居住していたユダヤ人ディアスポラを祖先とする「アシュケナジー・ジュウAshkenazi Jews」の話す言語、これらの人々は、後の時代に、度重なる「ポグロム」を逃れて、東ヨーロッパへと移住する、この言語は、高地ドイツ語とヘブライ語の混淆から生まれたと言われ、さらにスラブ諸語、ロマンス諸語の語彙を含むバリエーションも存在する
(訳注)「ラディーノLadino」という用語には、中央アメリカの先住民とスペイン人の混血、「メスティーソMestizo」を指すなど、いくつかの用例があるが、ここでは、イスラム治下のイベリア半島に多く居住し、後にカトリックによる迫害で北アフリカに逃れたユダヤ人、「セファルディック・ジュウSephardic Jews」の話す言語を指す
(訳注)ここからは「私見」ですが、70年代、80年代を生きてきたものの一人としては、おそらく同様の感想を持っている人も多いと思うのですが、過去の「戦争」において、自らの「国家/国民」が手を染めたところの犯罪行為に対する、「自己批判」、「贖罪」の態度において、つねに言を左右にし続けるわが日・本・国に比して、当時の「西ドイツ」が、どれほど輝いて見えたか、いまさら隠そうとは思いませんね、現段階で振り返ってみて、いや、あんなものは、皮相的な、偽善に過ぎなかったのだ、と言い募るのは、「裏切られた」という被害妄想からくるそれ自体一つの「症状」であって、しかも、奴らは、最初から、意図的に嘘をついていたのだ、などと言を継ぐとしたら、それは、多くの「陰謀史観」と同じく、「敵」を「全能化」してしまう、という矛盾に逢着してしまいます、そんなことはないでしょう、「彼ら」は、真摯に「贖罪」しようとしていたに違いない、それを認めることから始めたいと思います、・・・、「バグダット・カフェBagdad Cafe(1987)/監督パーシー・アドロンPercy Adlon」という映画がありましたね、モアベ砂漠真っただ中のハイウェイ沿いのカフェ、モーテルに、「ドイツ人」夫婦が現れる、店の主人の「黒人」が、あの客は怪しい、とシェリフに通報、登場したシェリフが、おそらく「インディアン/アメリカ先住民」で、パスポートに問題はない、「ここは自由の国だ」、と言って、いきり立つ主人をなだめる、その見事な「転倒」ぶりには、いささかの皮肉も感じられず、屈託なく笑えるものだった、くだんのパスポートに記された「西ドイツ/West Germany」を見るにつけ、ああ、あ・の・国・は、いい国だったんじゃなかったか、などと思ってしまったものだった、そのわずか数年後、ドゥシャン・マカヴェイエフDusan Makavejev、これはユーゴスラビアの映画作家だが、「ゴリラは真昼に水浴すThe Gorilla Bathes at Noon(1993)」、「統一」直後の東ベルリン、レーニン像だったかが引き倒される、そこにかぶさる「外国人は出て行け!アウスランダー・アウスAusländer aus」のデモ隊の声、・・・、「東」が、「建前」に過ぎなかったとしても、掲げてきた「国際主義」がかろうじて抑え込んできた「民族」対立が、「統一」と共に噴出したのだ、という理解を、「共産主義者」としては、取ってしまいがちだが、「東側」諸国での少数民族迫害の歴史的事実が、あまりにも多々明らかになってしまった現在においては、それも説得力があるとは言えないでしょう、・・・、そんな「大文字」の説明は脇において、付け焼刃の怪しいものですが、一つ、自称「精神分析」的、解釈を披歴しておくことにします、・・・、人は、他者が不幸の中にあるとき、必ずしもその不幸の原因を自分が与えたわけではない場合でも、「罪悪感」としてそれを引き受けることがある、それは、他者への「共感/エンパシー」を育む美しい場面でもありうるけれど、ある「閾値」を超えると、正反対の「憎悪」に簡単に転換しかねない、というやっかいな性質を持っているらしい、「こんなに同情しているのに、そんな可・愛・い・私を、なお『罪悪感』によって責めさいなむあなたが憎い」と、「自己愛」的なものが起動して、本来の「被害者」であったものを、攻撃の対象と化してしまう、「被害者の『被害者』化victimise the victim」、手短に言えば「逆ギレ」、ということになる、「差別」というものには、いずれもそのような「転倒」が含まれている、と言ってもいいのかもしれない、神戸の震災のとき、当初は、家を失って公園のテントに住む人々に、惜しみない同情が注がれていたのが、ほんの二三か月後には、「社会」の風当たりが、すっかり変わって、「いつまでも甘えて」という非難がましい論調、公園の付近で何か事件が起ころうものなら、たちまちこの人たちを「犯罪者」扱いしてしまう、という論調が、あっという間に繁茂していくのを目撃した記憶がありますね。この記事にもあったように、はじめは自ら進んで、「罪悪感」を引き受け、「贖罪」の身振りを引き受けていたのに、それが長く続くと負担となってくるのだろう、そのような「ネガティヴ」な気持ちを持ち続けなければならないという負担が、あたかも、「被害者」から、自分に対して突き付けられた、「迷惑」であって、そのような「迷惑」を受けることが、自分に対する「不正義」と解釈され、では、誰が悪いのだ?と、「犯人探し」に向かうことになる、というのはありそうなことに思える、・・・、「ドイツ人は、『ホロコースト』のせ・い・で・、ユダヤ人を絶対に許さないんだ」、という言明は、このようなメカニズムを、冷酷なまでに正確に表していると思います、・・・、だが、ここにもうひとひねりの「転換」があるようで、自分がかつて「危害」を加えた「被害者」を、「被害者」であるがゆえに「憎む」、というのとは別の、もう一つの、「罪悪感」の「負担」から逃れる、「昇華」する方法に、そのほかならぬ「被害者」が行う不当な行為を、ことさらに「許す」、「大目に見る」ことで、自らが優位に立つことができた、という錯覚をもつことができる、という機制があるようです、かつての日本の侵略行為に対する「贖罪」意識から、その侵略行為の「被害者」の一人であるところの、朝鮮半島の人々に対して謙虚に頭を下げる、ことは、疑いもなく、正しいことでもあり、必要なことでもあった、だが、そのゆえに、私たちも含め、「左翼」陣営の多くは、「北朝鮮/DPRK」の現実を直視することを怠ってしまった、というのなら、それは、合衆国、ドイツをはじめとする「西側」のイスラエル擁護と、同根のものと言わざるを得ないでしょう、自分に許されることがらは、相手にも許されなければならない、もとより手っ取り早い解決法があるわけではないので、私としては、いつまで生きるつもりか知らないけど、これからも、葛藤し、困惑し続けることにしよう、と決意を述べるにとどめることにします。
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(訳注)ベルリン自由大学Freie Universität Berlinは、ベルリン市の中心、たとえば、ポツダム広場、から見れば、南西に8キロほどの地区に、いくつものキャンパスが散在しているようである・ベルリン広域地図
(訳注)この記事の冒頭に掲げられた写真、ベルリン自由大学のキャンパスでの集会の様子のようだが、パレスチナの旗の他に、いくつか赤旗が掲げられているのに注意を引かれた、労農同盟のシンボル、「ハンマー・アンド・シッケル/鎌と鍬/hammer and sickle」が、逆向きに置かれているのは、「第四インターナショナル/トロツキスト」系の記章であろう、ドイツのその系列および周辺の諸党派について、若干の調査
・「革命的国際主義機構Revolutionary Internationalist Organisation(RIO)」:2010年、「Revolution」から分派
・「革命Revolution」:英国の「第五インターLeague for the Fifth International」系党派、「労働者の力Workers Power」が1990年代中葉に組織した青年組織、ドイツを含むヨーロッパのいくつかの国に支部を持つ
・「社会主義平等党Socialist Equality Party/Sozialistische Gleichheitspartei(SGP)」:1971年創立の「社会主義労働者同盟Federation of Socialist Workers/Bund Sozialistischer Arbeiter」、1997年、「社会的平等のための党・第四インターナショナル支部Party for Social Equality, Section of the Fourth International/Partei für Soziale Gleichheit, Sektion der Vierten Internationale(PSG)」を経て、2017年創立、1953年創設の「第四インター国際委員会International Committee of the Fourth International(ICFI)」所属
・「社会主義的オールタナティヴSocialist Alternative/Sozialistische Alternative(SAV)」:1973年創立、「国際主義的社会主義オールタナティヴInternational Socialist Alternative」ドイツ支部
・「ドイツ・スパルタクス労働者党Spartakist-Arbeiterpartei Deutschlands(SpAD)」:1990年創立
・「左旋回Left Shift/Linksruck」:1970年代創立の「社会主義労働者グループSocialist Workers' Group/Sozialistische Arbeitergruppe(SAG)」、に由来する、このグループは、英国の「社会主義労働者党Socialist Workers Party(SWP)」のもととなった「国際主義的社会主義者International Socialists(IS)」の、西ドイツにおける支持者により形成、「ドイツ統一」後は、アンティファ運動の一翼、1990年代には、「SPD」の青年組織「Jusos」への加入戦術を採用、2007年、解散して、「左翼党The Left/Die Linke」に合流、「マルクス21・国際社会主義ネットワークMarx21 – Network for International Socialism」という会派を構成
・「左翼党The Left/Die Linke」:2007年に、旧東ドイツの「ドイツ社会主義統一党Socialist Unity Party of Germany/Sozialistische Einheitspartei Deutschlands(SED)」の後継政党、「民主的社会主義の党Party of Democratic Socialism/Partei des Demokratischen Sozialismus(PDS)」と、「労働者と社会的正義・投票におけるオールタナティヴLabour and Social Justice–The Electoral Alternative/Arbeit und soziale Gerechtigkeit–Die Wahlalternative(WASG)」との合同によって創立
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(訳注)スーザン・アブルハゥアSusan Abulhawa(1970-)、クウェート生まれの、パレスチナ人、合衆国在住、両親は、東エルサレム生まれだが、1967年「ナクサ」の際に、難民となる、父親は、銃剣の脅迫の下で、その住居を追われ、母親は、当時ドイツに留学中だったが帰国できず、二人は、ヨルダンのキャンプで再会することになったという、両親はその後離婚、スーザンは、クウエート、ヨルダン、合衆国、またパレスチナと、親戚のもとを転々とするという少女時代を過ごした。10歳から13歳まで、東エルサレムの、「アラブの子どもたちの家Dar el Tifl」に暮らしていた、これは、「ナクバ」に際しての「ディル・ヤシン村Deir Yassin」の虐殺事件で孤児となった何十人もの子供のために、東エルサレム在住の女性ヒンディ・ホセイニが創立した孤児院、女学校、「ミラル」の著者の、同じくパレスチナ人・ディアスポラの女性作家、ジャーナリスト、ルラ・ジェブレアルRula Jebreal(1973-)も、同校の出身者である、以下参照↓
スーザン・アブルハゥワ「ジェニンの朝」
「ちょっと回り道にはなるんだが、気に入ると思うよ」
「バスキア」、「夜になる前に」、「ミラル」の、ジュリアン・シュナーベル、そして四方田犬彦「見ることの塩」
タクシーの車種や、ホテルの名前、そんな些末な事柄への偏執によっても、決して分かり得ないはずの「他者」の苦痛へ、少しは「同じ高さ」の視点に近づけるのなら、「不謹慎」と呼ぶこともなかろう、と思いましたので、・・・、「ミラル」続編
ルラ・ジェブリアル「ミラル」と、スーザン・アブルハゥワ「ジェニンの朝」、東エルサレムの「アラブの子供たちの家」、の創立者、ヒンディ・ホセイニ、の記述を抜き出してみる
同じ著述者による記事↓
こうして「左翼」は、ガザのパレスチナ人を「非・人間化」する/スーザン・アブルハゥワ(アル・ジャジーラ2019/05/04)
『二つの側』の間の『複雑な紛争』という観念によって、隠蔽されてしまう、実在する圧倒的な『不均衡』について・・・「アペイロゴン(不規則多角形)」、出版産業における、また一つの植民地主義的過誤/スーザン・アブルハゥワ、2020/03/12アル・ジャジーラ
おそらくはスプーンのみを用いてイスラエルが誇る最も厳重な監獄の地下にトンネルを穿つことができた、彼らは、その犠牲において、私たちに、何事も不可能ではありえない、という鼓舞を与えてくれたのだ・・・「ハッシュタグ:パレスチナの囚人たち」、今は、絶望すべき時なんかじゃ、ない/スーザン・アブルハゥア2021年9月21日アル・ジャジーラ
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(訳注)「旧市街Old City」、「アル・ザウィヤAl-Zawiya」、おおよその場所を、地図に書き入れておいた、後者は、「Al Zawya」というローマ字音訳の綴り字で見つかった
「カマル・アル・ディンqamar al-din/قمر الدين」、アプリコット(あんず)のドライフルーツで作った飲み物、アラビア語で「宗教の月Moon of the Religion」の意、とのこと
「ムルキヤmulukhiya」、「ジュート」のスープ、「ジュート」は繊維植物のアオイ科シマツナソ、食物として用いられる別名の「モロヘイヤ」は、このアラビア語の「ムルキヤ」が語源
「カタイフqatayf」、ナッツやクリームをはさんだパンケーキ様の菓子、聖月間の間だけ、特別に作られるデザート
スフールSuhur/سحور:朝、断食開始前にとる食事
イフタールiftar/افطار:日没後、断食明けの食事
「イスラム信仰の5つの柱Five Pillars of Islam/arkān al-Islām أركان الإسلام」:(1)Shahada信仰の宣言、(2)Salah礼拝、(3)Zakat喜捨、(4)Sawm断食、(5)Hajj巡礼
このうち(2)の「礼拝」は、通常、一日5回・・・1:ファジュルFajr・夜明け前、2:ズフルZuhr・正午、3:アスルAsr・午後遅く、4:マグリブMaghrib、日没後、5:イスハIsha・夜間、ラマダン期間中は、これに加えて、「タラウィtarawih」、ラマダン期間中のみに行われる特別礼拝、が行われるようである
(訳注)「ラマダン」開始日の推移、1955年~2024年:純然たる太陰暦であるイスラム暦は、「朔望月」29.5の12倍が、「太陽年」365より、約11少ないことから、たとえば「ラマダン/断食月」の初日は、グレゴリオ暦上の日付では、年々11日ずつ早・く・なっていく。したがって、「ラマダン」は、あらゆる季節である可能性があり、365を11で割れば約33だから、33年周期で、だいたい同じ季節に戻っていくことになるのだ。この表は、昨年、たまたま、今度は、東洋の旧暦と同じく、太陽太陰暦、11日の誤差を、19年に7回という「メトン周期」に従って、「閏月」を挿入することで補正をはかった暦、であるユダヤ暦(宗教暦)の年初の月である「ニサン」開始日が、「ラマダン」開始日と一致する、と聞いたので、作ってみた計算表、ユダヤ暦では、旧約聖書の記述を典故として、春分後最初の満月を「過ぎ越し」、そこから遡った新月をもって、年初としているから、春分を春(一月、二月、三月)の中ほどに据えるよう調整されている東洋の旧暦の年初、「旧正月」とは、一月ないし二月ずれる。
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(訳注)「オヨウンOyoun」、としておいたが、どう読むのかも、名称の意味もわからない、wikipediaにはエントリーなし、だが、GoogleMapでは、たしかに、ノイケルン区、ゾンネンアレーの、一つ西側の道が、「カール・マルクス通り」なのだが、その近くに、見つけることが出来た、同地図の説明には「文化センターCultural Center」とある、また、もちろんドイツ語であるが、ウェッブサイトも発見、かろうじて英語のメッセージらしきものの中で、次のような自己紹介的な文言を見つけた・・・
「オヨウン」、それは、ベルリンの、「反体制」運動の震源地、として、脱植民地主義的、移民による、あるいは、クィアー・フェミニストによる芸術文化活動に力を注いできた・・・
Oyoun, Berlin’s anti-disciplinary epicenter dedicated to decolonial, migrant and queer*feminist arts and culture
(訳注)多和田葉子という作家は、1980年代以来ドイツ、ハンブルクに住み、ということは、その地で「統一」を経験しているわけだが、近年、ベルリンに引越したそうで、この町のさまざまな著名人の名を冠した街路、たとえば「カール・マルクス通り」、「ローザ・ルクセンブルク通り」など、を章の表題に挙げて、きわめて含蓄の深い文章を、「百年の散歩」(新潮文庫)、という作品に綴っている。「カール・マルクス通り」の章には、富裕層からは忌み嫌われるかもしれない、移民の街としての「ノイケルン区」、しかし、同じく荒・れ・た・マイノリティーの街区である、ロンドンの「イースト・エンド」同様、草の根的な、寛容な文化の発信地としての表情を、若干韜晦的な筆致であるものの、描いている、以下参照↓
「喉元でつかえてしまう『笑い』」、について、など・・・多和田葉子「百年の散歩」、によるベルリン、多和田葉子「百年の散歩」、によるローザ・ルクセンブルク。
(2)カール・マルクス通り、あるいは、脱落者を差別しない優秀な若い人
ベルリン市、中心部、地図
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(訳注)「マザー・ジョーンズMother Jones」誌、1976年創刊、アイリッシュ・アメリカンの労働組合活動家にして社会主義者、Mary Harris Jones(1837-1930)にちなんで名付けられた進歩派の雑誌、人権、環境問題などを中心に扱う
(訳注)「ハイ・アス・サラムHai as-Salam」、地図の上で見つけることはできなかった
(訳注)西岸地区、ラマラRamallahの中心部から、西南西1キロほどのところに、「レイチェル・コリー通りRachel Corrie Street」を発見することができた
(訳注)記事に言及のあった、「ロウキー」によるヴィデオ↓、レイチェル・コリーさん、アーロン・ブシュネルさんの行為と、その死後、彼らに対して行われた当局による誹謗キャンペーン等について語る、冒頭と末尾は、レイチェルさんが小学五年生の時に学校で行った演説会の様子が映し出される、「第三世界で毎日4万人ものもの人々が飢えて死んでいます、・・・、We've got to understand that THEY ARE US, ME AM THEM・私たちは、彼らが私たちであること、私たち一人一人が、彼らであること知らなければなりません」

「Lowkey EXPOSES The Dark History Behind Israel’s Murder of Rachel Corrie/イスラエルによるレイチェル・コリーさん殺害の背後に隠された醜悪な歴史を、ロウキーが暴露する」
(訳注)イェリコの町を地図で探してみたが、ブシュネルさん、あるいは、ダルウィーシュ氏の名を冠した通りは発見できなかった
(訳注)マームード・ダルウィーシュMahmoud Darwish(1941-2008)の経歴等については、以下の記事参照↓
どこかで断ち切られなければならない、連鎖、・・・「セプテンバー・イレブンス」から20年、カブールを、脱出しなければならなかった人、とどまることを決断した人、など
また、ネット上で手に入る、同氏の英語版の作品のいくつかのリストが、以下の記事にある↓
ジャンセニスト「痙攣派」、マルチニックサトウキビプランテーション負債をめぐるイエズス会追放事件、「ダルウィーシュ」という言葉からのいくつかの連想、ディケンズ「二都物語」
(訳注)ジョン・ブラウンJohn Brown(1800-1859):熱心な福音主義キリスト教徒、長年にわたる平和的奴隷解放運動が失敗に帰した以上、武力闘争に訴えるのは必然、と主張、「流血のカンザスBleeding Kansas(1854-1861)」事件で勇名をはせた、1859年、連邦武器貯蔵庫襲撃、奴隷たちの決起を促したが、失敗、反逆罪で死刑宣告、処刑された。
マイケル・シュヴェルナーMichael Schwerner(1939-1964):ニューヨーク州で、ユダヤ系家族のもとに生まれる、1960年代、「人種的平等委員会CORE/Congress of Racial Equality」の活動家、アフリカ系アメリカ人の投票権推進活動のために、「クー・クラックス・クランKKK」の憎悪の対象となり、ミシシッピ州で殺害された。
ディヴィッド・グッドマンDavid Goodman:不明
ヴィオラ・リウッソViola Liuzzo(1925-1965):カリフォルニアの貧しい家庭に生まれる、高校中退後、家族とともにデトロイトへ、人種隔離政策下にあったこの町で、数々の人種間暴動を目撃したことが、後の公民権活動へのきっかけとなったと言われる、マーティン・ルーサー・キング師の呼びかけによる「セルマ・モントゴメリー行進」支援のため、アラバマに向かい、そこで、「KKK」メンバーによって銃殺された、彼女の車を追尾していた「KKK」の車両には、FBIの覆面捜査官も同乗していた事実が後に発覚、FBI長官は、これを隠蔽すべく、記事にあるような、ヴィオラの名誉を傷つける風説を流した、と言われている。
(訳注)「セルマ・モントゴメリー行進」については、以下の記事参照↓
アラバマ州セルマ、エドマンド・ピッタス橋、1965年3月、カイロ、カスル・アル・ナイル橋、2011年1月、「世界」はそういう「隠喩」、「反復」、「引用」に満ちていて、そこに何か「意味」を見出してしまったりすることを、「歴史」を生きる、と言うのかも知れない、とも思いましたので。
(訳注)「ウェザー・アンダーグラウンドWeather Underground/ウェザーマン地下組織Weathermen」、1969年、ミシガン大学アン・アーバー校Ann Arborにて、「民主的社会のための学生集団Students for a Democratic Society(SDS)」の一分派として創設された、マルクス主義組織
バーナディン・ドホルンBernardine Dohrn(1942-):シカゴ生まれ、父親はユダヤ系、「Dohrn」なるファミリー・ネームは、彼が、その出自を隠すために改名したもの、とのこと、1967年、シカゴ大学法学部等で学位取得、キング師の下で、公民権運動に参加、「全国弁護士組合/ナショナル・ロイヤーズ・ギルド」内での組織作りに努める、在学中から、「SDS」急進派の「革命的青年運動Revolutionary Youth Movement(RYM)」の指導者として頭角を現す、1969年6月の「マニフェスト」は、ボブ・ディランの「サブテラニアン・ホームシック・ブルース」↓からの引用で、次のような表題が付されている・・・「風がどっちから吹いてくるかを知るために、天気予報官(ウェザーマン)など、必要ではない」・・・1970年代と通じて、FBIの最重要容疑者リストに掲載されていたが、1980年、逃亡生活に終止符を打ち、弁護士、法学部教授としての生活を送る

Bob Dylan - Subterranean Homesick Blues (Official HD Video)
(訳注)フレッド・ハンプトンFred Hampton(1948-1969):イリノイ州生まれ、両親は、20世紀初頭の「大移動Great Migration」期にルイジアナから移住してきた。20代になったばかりの頃、すでに、ブラック・パンサー党イリノイ支部副議長として頭角を現す、彼が主導した著名なプロジェクトとして、「レインボー・コアリションRainbow Coalition」がある、これは、白人貧困層を組織した「ヤング・パトリオッツYoung Patriots」、ヒスパニック系住民を組織した「ヤング・ローズYoung Lords」等と共闘関係を結ぶとともに、シカゴのストリート・ギャングたちをも同盟に引き入れた。彼の存在を「安全保障上の脅威」と捉えたFBIは、密告者を党内に送り込み、虚偽の風説を流すなどしつつ内偵を続けていたが、1969年12月に彼のアパートを急襲、殺害に及んだ。検視報告によれば、室内には、100発以上の弾痕があったが、被疑者が発砲したと思われるのは、ただ一発であったという。
「西独赤軍Rote Armee Fraktion/バーダー・マインホフ・グリュッペBaader-Meinhof-Gruppe」:1970年創設、1998年まで存続、爆破、誘拐、暗殺、銀行強盗等の都市ゲリラ戦術を採用、東ドイツ等「東側」諸国の、諜報機関から支援を受けていたことが知られている、私的な古い記憶だから確かではないが、1970年代、レバノン内戦期、同地の「PFLP」キャンプで、「日本赤軍」やイタリア「赤い旅団Brigate Rosse」等とともに、軍事訓練を受けていた、との回想が、重信房子の書物に書かれていたと思う
ロニー・カスリルスRonnie Kasrils(1938-):ヨハネスブルグ生まれ、両親は、ツァー支配下のロシアにおけるポグロムを逃れてきた、ラトヴィア、および、リトアニア系ユダヤ人、映画、テレビの仕事についていたが、1960年「パス法」反対のデモ隊が発砲を受けた「シャープビル虐殺事件Sharpeville massacre」をきっかけに、反アパルトヘイト運動に接近、同年、「ANC」に加入、翌年「南アフリカ共産党(SACP)」加入、「ANC」の軍事部門「ウムコントウェ・シズウェUmkhonto we Sizwe (MK)」創設メンバーとなる、ソ連、現・ウクライナのオデッサで軍事訓練を受け、以降、英国を根拠地に、ジョー・スローヴォらとともに、地下活動を指導、アパルトヘイト打倒後は、政府要職について現在に至る
ルス・フィルストRuth First(1925-1982):両親は、1906年に南アフリカにラトヴィアから移住してきたユダヤ人、「SACP」の前身となる「南アフリカ共産党(CPSA)」の創設メンバーであった、大学在学中から、学生運動に従事、卒業後は、ジャーナリストとして、アパルトヘイト体制を告発、1949年、ジョー・スローヴォと結婚、1956年、「反逆罪裁判」被告、1964年以降、ロンドン、ダル・エス・サーラム、マプト、など各地で亡命生活を送る、1982年、モザンビーク滞在中、南アフリカ警察長官の命令で送られてきた小包爆弾により暗殺
ジョー・スローヴォJoe Slovo(1926-1995):リトアニア、オベリアイObeliaiに、ユダヤ人家族のもとに生まれる、8歳のとき、家族は南アフリカへ移住、高校卒業後、配送業に就職、組合活動に従事、1942年「南アフリカ共産党(SACP)」加入、第二次世界大戦中、東部戦線でのソ連赤軍のナチに対する戦いに感銘を受け、(はっきり書かれていないが、イギリス軍であろうか)志願兵となり、北アフリカおよびイタリアでの戦闘に参加、1961年、「ウムコントウェ・シズウェ」創立メンバー、以降、各国に亡命、1990年、27年間にわたる亡命生活から帰国、ポスト・アパルトヘイト体制への過渡期に重要な役割を果たす
(訳注)ティームスターInternational Brotherhood of Teamsters (IBT):アメリカ、カナダの、トラック運転手の労働組合、1903年創立
(訳注)元シオニスト民兵部隊「ハガナ」の戦闘員にして、のちにイスラエルと決別した、もう一人の「ANC」のユダヤ人、 アルチュール・ゴールドライクの事跡については、以下の記事参照↓
「私たちには、そんなことは、分かっていた」という「話型」ではなく・・・ガザからのニュースは続く
ジョー・スローヴォに関する、「私的」な思い出については↓
私は、そ・の・人・を、見たことがある・・・「ンコシケレリ、アフリカ、ティーナ、ルサポルワーヨ」、の想い出
(訳注)この記事のトップの写真、いつのものかは不明だが、ベイルート北東部、アウカル地区Aukarの合衆国大使館前でのデモ、レイチェル・コリーさんのポスターを掲げた男性の着けている赤いゼッケン、「ハンマー・アンド・シッケル/鎌・トンカチ」のエンブレム、の下のアラビア語の文字、試みに、「レバノン共産党Lebanese Communist Party」のアラビア語ウェッブ・サイトの表題とくらべてみると、素人目には、一致しているように見える、一方、ネット上のアラビア語辞書で、「レバノンのLebanese」、「共産主義者のcommunist」、「党party」を引くと、それぞれ以下のようで、語尾変化、いや違う、アラビア語なんだから、右端は「語頭」だ、定冠詞的なニュアンスの、ا、「'alif」が付されているからかもしれない、と想像する。参考:アラビア語アルファベット一覧表
wikipedia英語版「レバノン共産党Lebanese Communist Party」、に記されている、同党のアラビア語表記は、
الحزب الشيوعي اللبناني
次が、アラビア語辞書で引いたもの、
لبناني=Lebanese
شيوعي=communist
حِزْب=party
以下、左が、記事の写真からとったゼッケンの、拡大図↓

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「レバノン共産党Lebanese Communist Party(LCP)」の歴史をたどってみると、1924年、「シリア―レバノン共産党」として創立、委任統治当局による非合法措置の下、「レバノン人民党Lebanese People's Party」と名乗る、フランス人民戦線政府下で合法化、シリアの党とレバノンの党は、1943年、形式的に分離したものの、1964年まで、合同の中央委員会を有していた、1956年の、「スエズ危機」の余波と言うべき1958年の反政府蜂起「1958 Lebanon crisis」に重要な役割を果たしたが、1950年代は、「汎アラブ主義」、「ナセル主義」との間で路線が動揺し、支持は低迷した、1965年、ドゥルーズ教徒左翼の、カマル・ジュムブラットの「進歩社会党Progressive Socialist Party」が主導する統一戦線組織、「レバノン民族運動Lebanese National Movement(LNM)」加盟、1970年代、ジュムブラットの入閣とともに、合法化、党員数も増大、内戦期には、民兵組織「人民防衛部隊Popular Guard」を擁し、「LNM」の一翼として、「PLO」と共闘関係に立った、「LNM」は、もっぱらムスリムを中心とする組織であったが、「LCP」指導部は、歴史的に、キリスト教徒(ギリシャ正教、アルメニア正教)が占めていたと言われる、当時の4万人の党員についての調査によれば、シーア派ムスリム、50パーセント、キリスト教徒、30パーセント、残り20パーセントが、スンニー派ムスリムとドゥルーズ教徒、とのこと、1987年には、ナビ・ベリNabih Berriを指導者とする、シーア派の「アマルAmal」との間で、西ベイルートで軍事衝突を起こしている、・・・、
・・・
レバノンの合衆国大使館は、ベイルート中心部から北東へ10キロほど離れたアウカルAwkarという町にあるようである、シリア、レバノン、地図
・・・
(訳注)ベイト・ダラスBeit Daras、「ナクバ」の際に、シオニスト民兵部隊によって無人化された村、現在は、イスラエルの入植地の一つである、アズリカムAzrikamという地域の一部となっている、アズリカムは、ガザ市の北北東30キロの海岸の町、アシュドッドAshdodの南東5キロ、西岸地区の地図参照
なお、wikipedia英語版、および、「記憶されるパレスチナPalestine Remembered」のサイトに、この集落の歴史について記したものがある↓
wikipedia英語版「Beit Daras」
「記憶されるパレスチナPalestine Remembered」、「ベイト・ダラスへようこそWelcome to Bayt Daras」
・・・
(訳注)マムルークMamlukمملوك、は、ムスリム世界において、アラブ系支配層、オスマン帝国支配層の下で使役されていた、非アラブ系住民からなる奴隷、傭兵、を意味する言葉だが、13世紀エジプトに、この階層出身の傭兵隊長が、「マムルーク朝/バフリ朝Mamluke Sultanate/Bahri mamluk dynasty」の開祖となった、その版図には、レパント地域も含まれているから、ここではこの王朝を指していると思われる
・・・
(訳注)ヤッファYaffa、テルアビブの南、西岸、ガザ、イスラエル地図参照
(訳注)タビヤTabiyya、という入植地は見つけられなかった
・・・
(訳注)「ウム○○/Um ○○」は「○○の母」という呼び名と思われる、筆者の父は「ラムズィ・バルードRamzy Baroud」が「アデルAdel」と呼ばれていたのならば、これは、筆者の父方の祖母が父に語った、ということになるが、ちょっとわからない
(訳注)スーザン・アブルハゥアSusan Abluhawa「ジェニンの朝Mornings in Jenin」には、次のような一節がある、まさにこの記事と類似した情景、シオニスト民兵部隊の襲撃を受け、村を追い出されジェニン・キャンプへ向かう道すがら、その村にかつて何世代が暮らしてきたのかを、老人が想起しようとする場面・・・
It was a task made simple by the way Arabs name their children to tell the story of their genealogy, conferring five or siz names from the child's direct lineage, in proper order.
アラブ人たちは、子供たちにその一族の系図について語ることができるように、その子の直接の祖先から、五ないし六個の名前を、正しい順序で、くり返し名付ける、という方法で、その作業を簡便化したのである。
・・・この記事も、読み流してしまうと、名前が混同して分からなくなってしまいそうだが、係累の中に登場する男性はほとんど同じ「モハンメド」であるし、この筆者の名前「ザレファ」も、父方の祖母のそれを継承しているようなのも、このような事情であるかも知れない
上の注でも見たが、「ウム○○」は、「○○の母」の意味であるから、ここでの「ウム・モハンメド」は、筆者の父「ラムズィ・バルードRamzy Baroud」の母方の祖母「ザイナブZainab」と思われ、つまり、孫に語り聞かせた、ということであろう
(訳注)ザイナブZainabزينب、「香り豊かな樹木」の意で、女性のファースト・ネームに用いられる、預言者ムハンマドの、娘、孫、と、妻のうちの二人が、この名を持っていたことに由来するのであろう
ザレファZarefah、はっきりしたことはわからないが、おそらく旧約聖書に典故を有する名称と思われる
ラムズィRamzyرمزي、アラビア語由来の名前であるらしいことだけが判明
(訳注)記事に登場した名前から、筆者の「系図」を作ってみると、このようになるのではなかろうか↓

・・・
(訳注)イスドゥードIsdudもまた、「ナクバ」期に無人化された村、現在、アシュドッド南郊テル・アシュドッドTel Ashdod付近に位置する、とのこと、ベイト・ダラスからは西の方角、ということになる
アル・サワフィルal-Sawafirも、同じく「ナクバ」期に無人化された、ベイト・ダラスの南東にあるようだが、はっきりした場所はわからなかった、上記「記憶されるパレスチナPalestine Remembered」には、いずれの村についても、記述がある
イスドゥードIsdud
アル・サワフィルal-Sawafir
・・・
(訳注)ダヴィド・ベン・グリオンDavid Ben-Gurion(1886-1973):イスラエル初代首相、1935年から、「パレスチナ・ユダヤ人事務局」代表、ワルシャワ北西70キロの、プウォンスクPłońsk生まれ、家族は、1906年、オスマン帝国治下のパレスチナに移住
「パレスチナ・ユダヤ人事務局Jewish Agency for Palestine」:「世界シオニスト機構World Zionist Organization(WZO)」の執行機関として1929年、すなわち、英国委任統治下において、創立
ポーランド、地図
・・・
(訳注)「ブレイジ・キャンプBureij」、「ヌセイラット・キャンプNuseirat」、ガザ市の南西7キロ
(訳注)アル・カララAl Qarara、ガザ地区南部、カーン・ユニスKhan Yunisの北東郊外
(訳注)「マスジッドmasjid」は「モスクmosque」の別称
・・・
(訳注)ラムズィ、ザレファ、バールード父子が、ガザの抵抗運動の歴史について語る、というヴィデオが、以下の、「レイチェル・コリー基金Rachel Corrie Foundation(RCF)」のサイトに紹介されている↓
「ラムズィ、ザレファ、バールード父子が、ガザの抵抗運動の歴史について語る」レイチェル・コリー基金Rachel Corrie Foundation(RCF)
・・・
(訳注)オヘアO’Hareは、シカゴ市の北西部、国際空港のある地域、夜間に飛行機が頭上を通過する、というのは、それを指しているのだろう

シカゴ市
(訳注)ヴィエット・タン・グゥエンViet Thanh Nguyen(1971-)、1975年の「サイゴン陥落」を機に、両親に連れられて、合衆国へ「難民」として逃れる、ヴェトナム難民を収容するキャンプを転々としたのち、両親は、カリフォルニア州サン・ホセで、ヴェトナム食品の店を開店、・・・、1992年、UC・バークレー卒業、南カリフォルニア大学、ハーバード大学等で教職に就く、・・・、作家としての著作には、「シンパサイザーThe Sympathizer(2015)」、パレスチナへの連帯の表明で知られ、2016年には、「BDS/ボイコット・資金引き上げ・経済制裁」運動への支持を言明、2023年には、即時休戦を求める公開書簡に署名、このため、あるユダヤ人団体は、彼の作品の朗読会をキャンセルした。

The Sympathizer(2015)/Viet Thanh Nguyen
・・・
(訳注)ストックホルム国際平和研究所Stockholm International Peace Research Institute(SIPRI)、1966年創立、本拠地は、スウェーデン、ストックホルム北西郊外、ソルナ市Solna、「SIPRI年鑑:軍備、軍縮及び国際安全保障年鑑/SIPRI Yearbook: Armaments, Disarmament and International Security」を刊行

北欧、バルト海
・・・
(訳注)アル・シーファ病院Al-Shifa Hospital、ガザ市北部リマルRimal地区、以下の記事参照↓
「私たちには、そんなことは、分かっていた」という「話型」ではなく・・・ガザからのニュースは続く
・・・

ガザ地区

西岸地区



"My great-grandfather died in a British prison, where he was put for joining the Arab revolt of 1936. My grandfather and grandmother died in Jordan during Black September, in 1970, when - as you must know - many Palestinians were killed there by the bedouin soldiers in the service of King Hussein. Palestinians were oppressed everywhere by Arab regimes. They killed us in Lebanon, in Jordan, in Syria, and here in our homeland. My father was a fedayee with the Popular Front for the Liberation of Palestine. He met my mother in a refugee camp in Jordan, where they were fighting against the Jordanians. Then they went to Lebanon, where I was born, and where my father was killed during one of the clashes between Palestinians and Israeli soldiers during the invasion of Lebanon. All I have left of my father's are these trousers I'm wearing and a little red book with the saying of Mao Tse-tung. My father underlined one of them: 'Political power grows out of the barrel of a gun.' I also have a photograph of him standing next to George Habash, one of our leaders, holding an automatic weapon and smiling. ..."
Miral/Rula Jebreal
「曾祖父さんは、イギリスの監獄で亡くなった、1936年のアラブの反乱に参加したことを罪に問われたんだ。お祖父さんとお祖母さんは、1970年、「黒い九月」の中、ヨルダンで亡くなった、あんたも知っていると思うが、ヨルダン王フセインに仕えるベドウィンの兵士たちによって、たくさんのパレスチナ人が殺されたんだ。パレスチナ人は、アラブ人の政権によって、いたるところで抑圧を受けてきた。奴らは、レバノンでも、ヨルダンでも、シリアでも、そして、ここ、僕たちの祖国であるはずの場所でも、僕たちを殺す。父さんは、「パレスチナ解放人民戦線(PFLP)」の「フェダイーン」だった。父さんは、ヨルダンの難民キャンプで母さんと出会った、そこで彼らは、ヨルダン人たちと闘っていたんだ。それから、彼らはレバノンに行き、そこで僕がうまれた、でも、父さんは、イスラエルがレバノンを侵略したときに起こった、パレスチナ人との戦闘の渦中で殺された。父さんの持ち物で僕に残されたのは、いま僕が穿いているこのズボンと、毛沢東の言葉を記した小さな赤い本だけだ。父さんは、ここに下線を引いている:「鉄砲から政権がうまれる」。父さんが、僕たちの指導者の一人、ジョージ・ハバシュ博士と並んで写っている写真も一枚持っているよ、機関銃を手にして、でも、微笑んでいるんだ。・・・」
「ミラル」ルラ・ジェブレアル
・・・
語っているのは、ラマラRamallah郊外の、カランディア難民キャンプKalandiaの少年、カルドゥンKhaldun、東エルサレムの「アラブの子供たちの家Dar El-Tifel」に住むミラルが、キャンプの子供たちに、英語や数学を教える、というボランティア活動に参加したときに出会った、時期は、「オスロ合意」の直前、ミラルは十代後半、カルドゥンは、おそらく十代前半。
・・・
「1936–1939、パレスチナにおける、アラブ人の蜂起1936–1939 Arab revolt in Palestine」:委任統治パレスチナにおいて、イギリス行政当局に対し、パレスチナの独立、無制限のユダヤ人入植政策の廃絶を求めた反乱、この時期は、おりしも、ナチの台頭によって、入植者数が著しく増大しており、彼らによる土地取得で、窮民化した農民が都市部に流入していた。直接の引き金となったのは、「アル・カッサムIzz ad-Din al-Qassam(1881-1935)」の支持者による、ユダヤ人殺害、とその報復としての、アラブ人労働者殺害であった。これに引き続く騒乱の中で、「アラブ高等委員会Arab Higher Committee」代表、エルサレム大司教(グランド・ムフティGrand Mufti of Jerusalem)の、アミン・アル・フセイニAmin al-Husseiniは、1936年5月16日を「パレスチナの日」として、ゼネストに決起すべきことを呼びかけた。同年10月まで継続したゼネスト、抗議行動に対して、イギリス当局は、戒厳令の脅迫をもって臨み、その強硬な弾圧姿勢から、1937年末から始まる、この運動の第二期、農民による武装蜂起へと移行する。
「黒い九月Black September」:1967年「六日間戦争/ナクサ」後、「PLO」は、ヨルダンの国境の町カラメKaramehを根拠地としていた、1968年のイスラエルによる越境攻撃を撃退した、「カラメの戦いBattle of Karameh」により、「PLO」に対する支持は高まった、その中で、左派に属する諸組織が、ヨルダンの王族「ハシェミテHashemite」による支配の打倒を呼号し始め、とりわけ、「PFLP」による、「旅客機同時ハイジャック事件Dawson's Field hijackings」がきっかけとなって、ヨルダン国軍との武装衝突となった。パレスチナ側は、イルビドIrbidを「解放区」とし、シリア政府の支援を受けた「パレスチナ解放軍Palestine Liberation Army(PLA)」も、その地へ向けて侵攻したが、ヨルダン側の攻撃を受けて撤収、イラク等アラブ諸国からの圧力で、フセイン王は、10月、いったんは停戦に合意するが、翌年1月戦端が再開、パレスチナ側が投降する7月まで戦闘が続いた。引用部分の「カルドゥン」の言葉の中で、「ベドウィンの兵士たちbedouin soldiers」とあるが、wikipediaの記事には、戦闘の最末期の6月、フセイン王に対する暗殺未遂への報復として、軍の「ベドウィン部隊Bedouin units」が、「アル・ワハダット・キャンプAl-Wehdat」等に砲撃を加えた、との言及があった。
「レバノン内戦Lebanese Civil War(1975-1990)」:

イスラエル、西岸、ヨルダン・拡大

ヨルダン川西岸地区・拡大

イスラエル、西岸、ガザ、ヨルダン、シリア、レバノン拡大

Miral/Rula Jebreal
・・・
Every Communist must grasp the truth; "Political power grows out of the barrel of a gun."
Quotations from Mao Tse Tung-5. War and Peace
共産党員の一人ひとりが、「鉄砲から政権がうまれる」という真理を理解すべきである。
「毛主席語録―五、戦争と平和」
毎个共产党员都鹰懂得这个真理:「抢杆子里面出政权」。
「毛主席語録―五、战争与和平」
个/個コ、カ、gè
トウ、dǒng(理解する)
这/這シャ、こ(の)、これ、は(う)、zhè(手に届く範囲にある事物を指す)
抢/搶ショウ、ソウ、あつ(まる)、つ(く)、qiāng(奪い取る)
カン、たて、てこ、gān(棒状のもの)、「枪杆」で「銃身」
「革命は、客を招いてごちそうをすることではない」・・・小さな赤い本、「毛主席語録」にまつわる思い出、など、アルンドゥハティ・ロイ「小さなものたちの神」、ジュンパ・ラヒリ「低地」
中国語辞典/漢字辞典
・・・
今回は、「毛語録」の典故をたどる作業に終始してしまったが、「ミラル」、二度目に読了したし、ほかにも引用すべきことが多々ある気もするが、字数オーバーが近いので、次回以降に回したい、・・・、作品全体を通じて、とりわけ、その末尾、「オスロ合意」に対する、人々の忌憚ない「希望」がにじみ出ているから、現時点から振り返ると、とても胸が痛むのはやむを得なかろう、・・・、だまされたんだ、奴らは最初から、約束を守る気なんかなかったのだ、と詰ることはおそらく容・易・い・だろうが、それは、同時に、ここに描かれているような、人々の、かつて一度は持ったはずの「希望」すらも、水に流してしまうことになりかねない、と思う、・・・、「戦争」という苦痛と悲しみに満ちた事態を、ともかく終了させるために、と、パレスチナ人の多くは、奪われた土地の、たった22パーセントで、妥協する、という選択をしたのだ、いわば、それは、過分な譲歩、一つの「贈与」の振る舞いだったといえる、・・・、人が一歩引きさがって見せれば、相手もまた、一歩引きさがるという身振りでもって答える、それが、相互に、まさに、つねに「過分」であることが根拠となって、「対話」が持続できる根拠なのだ、・・・、一歩引きさがって見せたのに、相手は、そうしてあけられた場所に、意気揚々と一歩、歩を進めてきた、そうして「対話」が破綻してしまったことに対する「絶望」、を思わざるを得なかったので・・・。




「さすらいKings of the Road/Im Lauf der Zeit(1976)」ヴィム・ヴェンダースWim Wenders
・・・
in schwarz/weiß・・・モノクロ映画
Breitwand 1:1,66・・・ビスタサイズ、1対1.66
und Originalton・・・同時録音
gedreht in 11 Wochen zwischen dem 1. Juli und dem 31. Oktober 1975, zwischen Lüneburg und Hof, entlang der Grenze zur DDR.・・・1975年7月から10月まで、11週間をかけて、東ドイツ国境沿いで撮影した
・・・
「schwarz/weiß」、「schwarz」が「黒」、「weiß」が「白」、ああ、多和田葉子「百年の散歩」、カント通りの壁が黒いカフェは、やっぱり「シュヴァルツ・カフェ」で合ってたんだ!・・・つまり、この映画は「白黒/モノクロ」で撮影された、と言っている、ところで「モノクロ」とは?・・・monochrome、ここに、chromeは、金属元素のクロムCr/Chromiumと同じ綴りだが、語源、古代ギリシア語で「色」を表す、と同じなのかどうかははっきりしなかった、つまり「単色」、ということだ、当然にも、「白/黒」は「二色」ではなく、「黒」という「一色」の、いわば「有徴」記号と、「何もしない」という、「無徴」、「ゼロ記号」たる「白」で成り立っているからなのだな、すべてが、「黒」の濃淡によって、限りなく「白」に近いものから「まっ黒」まで、で表現される、・・・、映画の世界では、1935年、米、イーストマン・コダック社、独、アグファ社、が、ほぼ同時にカラーフィルムを開発するまでは、「二色法」、「三色法」、前者は赤と緑、後者は、赤、青、緑、プリズムで分解し、フィルターによって取り出したそれぞれの要素を、別々のフィルムに記録、後にそれを重ね合わせる、私の理解があっているのかどうか怪しいが(笑)、ものであったようである。参考:「Technicolor
「Breitwand」、ワイドスクリーン、「breit」広い、「wand」壁、・・・、映画の画面の縦に対する横の比、「アスペクト比Aspect Ratio(A/R)」については、以前、アルンドゥハティ・ロイ「小さなものたちの神」、で、見た、さらに、wikipedia「Aspect ratio」によれば、1953年までの、すべての「トーキー」は、「1:1.33」だった、たしか、「無声」時代より、「サウンドトラック」分だけ、画像に使えなくて、狭くなったのだ、と、どこかで聞いた記憶がある、・・・、で、ほぼ同じ比率の、1:1.3を採用したテレビの登場を、映画業界は脅威と受け止め、ワイドスクリーンの開発にいそしんだ、という事情だったらしい、1953年に、「1:1.85」、の画面が登場し、以来、これが、もっとも広く用いられるフォーマットになったらしい、この時代、「シネマスコープ~1:2.6」、「ヴィスタ・ヴィジョン1:2.40」など、各社が開発にしのぎを削ったが、急速に忘れ去られた、という事情を、たしか四方田犬彦が書いていた、なるほど、古来、人間が最も心地よく感じる、と言・わ・れ・る・、「黄金比Golden Ration」(1+√5)/2≒1.62、に比して、それらは、横が長すぎるのだ、で、ここでヴェンダースが用いている用語は、「1:1.66」つまり「2:3」、ちっとも「ワイド」とは思えないのだが、おそらく、「1:1.33」より広い、という意味で用いられたのだろう、ヨーロッパの映画業界では、たしかにこの比率が、「wide screen」と呼ばれていたようである、とすると、上に掲げた日本語字幕は、少し正確さを欠くかもしれない。
「揚げ句、自分たち自身の歴史の外側を生きてしまった、そうして、もはや自分たちの足跡をあとづけることさえかなわない」、・・・、「モウイー」と「ゴーヤー」、それから「優しいマンゴー」とは?・・・合わせて、アルンドゥハティ・ロイ「小さなものたちの神」精読、は、さらに続く
「Originalton」、wikipediaドイツ語版で、この言葉を発見できたが、怪しい理解だが、あとで音声を重ねるのではなくて、撮影と同時に録音する、という意味のように思える、英語で何と呼ぶのかは、つきとめられず。
zwischen:~の間
drehen:回る、あるいは、「カメラを回す」という意味かも知れない、その過去分詞が、gedreht
entlang:~に沿って
Grenze:国境
「DDR/デーデーエル」はもちろん、「Deutsche Demokratische Republik/German Democratic Republicドイツ民主共和国」すなわち「東ドイツ」、字幕では省略されているが、「リューネブルクからホフにかけてのzwischen Lüneburg und Hof」、国境、とある、・・・、ちなみに、これに対して、当時の「西ドイツ」は、BRD/ベーエルデーBundesrepublik Deutschland/Federal Republic of Germanyドイツ連邦共和国」。
・・・
無声映画の話を聞かせて
私は楽士だった、そして、妻がピアノを弾いていた、私はバイオリンだ、だが大作の「ニーベルンゲン」や、「ベン・ハー」だと、ほかの楽士も来た、チェロとベースが1人ずつ、それにオルガン、場面によっては打楽器まで、大演奏だった
そして全員、失職?
ああ、トーキーが現れてね、いや、ナデルトン式が先だ、レコード盤さ、大きい盤だ、フィルムは12巻から14巻の小さなロールだった、よくあることだが、フィルムが途中で切れる、そうなると音と合わない、映写室で必死につなぐが、なかなか合わないから、毎晩、非難の口笛を浴びた
最も苦心策は?
「ニーベルンゲン」だよ、2部作になってる、“ジークフリート”と“クリームヒルトの復讐”だ、「ベン・ハー」も2部作だ、違ったかな、正確には覚えてない、「ニーベルンゲン」は2部作だった
映画館だけで生活できる?
ますます困難になる
小さな町には映画館がなくなるかな
1館ずつ残ると思いたい、この辺りにも、“シルンディンク”や“ホーエンベルク”など、どの町にも何軒か映画館があったが、全部なくなった、だが私は信じてる、たった1館でも残れば、映画が制作されるかぎり、10年後でも上映しているさ
昔は映画で生活できたんだろ
私の場合、1951年からだよ、第三帝国のせいさ、しかたないがね、何年も営業停止だった、
なぜだい
党員だったからさ、社会民主党(SPDエス・ぺー・デー)ならよかったが、ナチ党(NSPエヌ・エス・ぺー)では、だめなんだ、51年の裁判で、映画館を返してくれた、当時の多くの館主がそうだ
・・・
・・・
冒頭、ある、劇場主との会話、「ナデルトン」、Nadel:針、ニードルneedle、Ton:音、tone、ではなかろうか?
「ニーベルンゲン・第一部:ジークフリート、第二部:クリームヒルトの復讐(1924)」フリッツ・ラングDie Nibelungen – Part 1: Siegfried,Part 2: Kriemhild's Revenge/Fritz Lang(1924)
「ベン・ハー(1925)」フレッド・ニブロBen-Hur:A Tale of the Christ(1925)/Fred Niblo
「ホーエンベルクHohenberg」はよくある地名のようで、「シュテンダルStendal」の北東15キロ、などにも見つかったが、「シルンディンク」は、不明、その「シュテンダル」の近くのことを言ってるのだとすれば、「東ドイツ」なんだが、この劇場主の回顧として、「失われてしまった」という隠喩ととるならば、ふさわしいかもしれない。
「ドイツ社会民主党Sozialdemokratische Partei Deutschlands(SPD)」
「国家社会主義ドイツ労働者党Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei(NSDAP)」
・・・

Improved Sound Limited - Nine Feet over the Tarmac

Improved Sound Limited - Suicide Road
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出てきた地名を、字幕の通りのカタカナで順に書き写して見たのだが、どこから出発したのかはわからない、トラックを運転して田舎の映画館を回って映写機の修理をする男と、フォルクスワーゲンをものすごい勢いで川に突っ込ませた、自殺未遂、だから「カミカゼ」と呼ばれる男の、道中を描く「ロードムーヴィー」なわけだが、リューネブルクLüneburgの街中には、イルメナウ河Ilmenau、というエルベ川の支流が流れているから、この川はそれだったかも、とすれば、リューネブルクを出発して、次についた町が、ウォルフスブルクWolfsburg、そこの列車の駅で、「カミカゼ」が時刻表を見ながら列挙する町の名前が、レールテLehrte、から、ヘルムシュテットHelmstedt、まで、そこで「その町なら今夜行く」と映写技師の男が言ったので、列車には乗らずドラックの旅が続くことになる、・・・、並べ立てられた町のうち、マグデブルグMagdeburgからドレスデンDresdenまでは、「東ドイツ」なのだ、時刻表に掲載されている以上、線路はつながり、列車も運航しているのだろうけれど、パスポートとかの問題もあろう、簡・単・に・往来できたのかどうかは、想像できない、ところで、デッサウDessau、に聞き覚えがあったのは、「バウハウスBauhaus」、1919年から1933年、というから、「ドイツ革命・スパルタクス蜂起」からナチの台頭までの間になる、革新的な、建築工芸学校、の所在地だったのだね、・・・、ヘルムシュテットを過ぎたところで、「バッガー湖」に行こう、という話が出る、「Bagger」は「浚渫機」の意のようだが、「Baggersee」という湖は、至るところにあるようなので、特定はできなかった、・・・、シェーニンゲンSchöningenを過ぎたところだったか、「回り道をしよう」、と、川を小さなボートで渡って、島に向かう、字幕には「ライン」と出るのだが、これは、「マイン川」であろうかと思う、・・・、次に登場する地名が、ハスフルトHaßfurt、地図で見るように、いきなりずいぶん離れたものだが、この先で、道に迷い、「まずい、国境で行き止まりだ」となる、使われていない米軍の監視所のようなもので一夜を過ごす、たぶん、それが、ホフHofの国境だったのだろう、・・・。
ウォルフスブルク、レールテ、マグデブルグ、デッサウ、ライプチッヒ、シュテンダル、ドレスデン、ギフホルン、ブラウンシュバイク、ヘルムシュテット、バッガー湖、シェーニンゲン、ハスフルト、・・・
トラックの車体の文字を書き写してみると、
umzüge:引っ越し、mubeltransporte-lagerng、lagern:蓄える
おそらく、引っ越し屋のトラックを中古車で手に入れ、そのまま使っているということなのだろう、「ムーベル輸送及び荷物預かり社」みたいな感じだろうか?

・・・
リューネブルクLüneburg Lower Saxony(BRD)
ウォルフスブルクWolfsburg Lower Saxony(BRD)
レールテLehrte Lower Saxony(BRD)
マグデブルグMagdeburg Saxony-Anhalt(DDR)
デッサウDessau Saxony-Anhalt(DDR)
ライプチッヒLeipzig Saxony(DDR)
シュテンダルStendal Saxony-Anhalt(DDR)
ドレスデンDresden Saxony(DDR)
ギフホルンGifhorn Lower Saxony(BRD)
ブラウンシュバイクBraunschweig Lower Saxony(BRD)
ヘルムシュテットHelmstedt Lower Saxony(BRD)
バッガー湖Baggersee
シェーニンゲンSchöningen Lower Saxony(BRD)
ハスフルトHaßfurt Bavaria(BRD)
ホフHof Bavaria(BRD)
・・・

エルベ河Elbe水系

マイン河Main水系
・・・
こうして、前回、東ベルリンと西ベルリンの境界、「壁」はどこだったのか?、に続き、ようやく、旧東ドイツと旧西ドイツの「国境」は、どこにあったのか、を知ることができたわけだ。
・・・

Occupation zone borders in Germany, early 1946


States of Germany




Pentimento: A Book of Portraits(1973)/Lillian Hellman/Lillian Hellman(1905-1984)
Pentimento: A Book of Portraits(1973)/Lillian Hellman(pdf)
・・・ジュリアは大学を卒業して、オックスフォードへ行った、それから、さらにウィーンの医学校に入り、フロイトの患者兼弟子、となったのだ。・・・
... Julia had left college, gone to Oxford, moved on to medical school in Vienna, had become a patient-pupil of Freud's. ...
たとえば、私が知っているのは、彼女が、社会主義者となり、いや、あるいはもともとそうだったのかもしれない、ウィーンの貧しい街区に一部屋のアパートを借りて住み、彼女のもつ巨大な財産を、それを必要とする者たちにはだれでも、分け与えようとしていたことだ。・・・
I know for example, that she had become, maybe always was, a Socialist, and lived by it, in a one-room apartment in a slum district of Vienna, sharing her great fortune with whoever needed it. ...
・・・
ヨハン氏は、躊躇なく言った、「それが本当のことなら嬉しいのですがね。私は、ポーランドへ出発するはずの甥を探しに来たんです。彼は客室にはいませんでした、いつものことだが遅刻したようです。彼の名前は、W・フリッツ、二等の4号車、私が彼に会えなくても、もしよろしければ、彼に私が見送りに来たことを伝えてくださればありがたいです。」彼は帽子を持ち上げ、「とても光栄です、ヘルマンさん、あなたに『こんにちは』とごあいさつができて。」
「私も同じですわ」、とわたしも言った、「本当に、『こんにちは、こんにちは』。」
...
Mr. Johann said, without hesitation, "I wish I could say that was true. But I have come to search for my nephew who is en route to Poland. He is not in his coach, he is late, as is his habit. His name is W. Franz, car 4, second class, and if I do not find him I would be most grateful if you say to him I came." He lifted his hat. "I am most glad, Madame Hellman, that we had this chance to say hello."
"Oh, yes," I said, "indeed. Hellow. Hellow."

・・・
車掌が私の客室に案内してくれるまでに、列車は動き出していた。私が自分の車両に向かう途中、連結器の所に、一人の若い男が、カバンと包みを携えて立っていた。彼はこう言った、「私は、W・フランツ、甥です、二等4号車の。これは、ジュリアさんから預かってきたお誕生日のプレゼントです。」彼は、キャンディーの箱と、「マダム・ポーリーン」とロゴマークの入った帽子の箱を、私に手渡した。そして、軽く頭を下げ、立ち去っていった。
...
By the time a conductor told me where my compartment was, the train had left the station. On the connecting platform, before I reache my coach, a young man was standing holding a valise and package. He said "I am W. Franz, nephew, car 4, second class. This is a birthday present from Miss Julia." He handed me a box of candy and a hatbox marked "Madame Pauline." Then he bowed and moved off.
・・・
彼女がオックスフォードに向かったのは、私たちが19歳の年だった。・・・
...
It was in our nineteenth year that she went away to Oxford. ...
・・・
その翌年、彼女は、イングランドを離れて、ウィーンの医学校へ入ることになった、と手紙に書いて寄こした、無理かもしれないけど、いつかフロイトが弟子にしてくれる、という望みを抱いてね、と。
...
The following year she wrote to tell me that she was leaving England for medical school in Vienna, with the probably vain hope that Freud would someday accept her as a student.
・・・
・・・今思えば、彼女(アン・マリー)は、その頃、ウィーンか、あるいはそのあたりに住んでいたのだろう、私たちは、およそ四年か五年も、音沙汰なしだったのだが、思いがけない手紙が来て、街で偶然ジュリアに出会ったのに、彼女に「無視された」と伝えてきた、そして、ジュリアが、何か奇妙な生活を送っている、との噂を伝えてきたのだ、非常に政治的な事柄にかかわっていて、自分が金持ちであることをひた隠しにして、社会主義者の労働者たちが住むような、フロリズドルフ地区の「スラム」に住んでいる、等々。・・・
...
... Now, it seemed, she was in or near Vienna and her unexpected letter - I don't think we had seen each other for four or five years - said she had bumped into Julia on the steet and been "snubbed," had heard from people that Julia was leading a strange life, very political, pretending not to be rich and living in the Floridsdorf district, the Socialist working-class "slums." ...
・・・
当時、私たちが感じていた通りの形で歴史を書くことが、私にはできそうにない、いや、もっと正確にいうなら、私が、と言うべきだ、私には、何ら記録したものがないし、何を、いつ、自分が理解したか、さえもわからないのだから。ヒトラーが、――ムッソリーニの方は、単に馬鹿げたユニフォームに身を包んだだけの大法螺吹き、に過ぎなかったから、私たちの注意さえ引かなかったのだろう――、そのヒトラーの登場が、私たちをして、急進主義、いや、単に、自分たちで、急進主義と思い込んだだけのものだったかも知れない、の側へと、追い込んだのだ、そして、私たちの稚拙な、新たな信念なるものが、じきに、分裂とか、醜い内紛とかをもたらした。30年代初頭、私の知るかぎり、人々は、プラカードを掲げてデモをする、とか、ニューヨークやハリウッドに流れてきたドイツ人移住者たちから、ショッキングな話を聞く、とか、何やかやの目的のために募金に応ずる、といった程度以上の行動に出た人は、いなかった。反ユダヤ主義が猛威を振るっていることに、落ち着かない気持ちにはさせられたが、ドイツでは、それは、何も目新しいものではなかったし、ただ、私たちのうちの何人かは、今回のそれは、それほど生易しいものではなさそうなことに気づいていたようではあったが。多くの人々にとっては、それは無知な大工たちの内輪もめみたいなもので、ドイツ人、私たちの世代の者にとっては、「進歩的」で、「文明的」と思われていたドイツ人は、そんなくだらないものを相手にしないだろう、と高をくくっていたのだった。しかし、1935年から1936年頃になると、半分くらいしかわかっていなかった、はっきりしない、遠いところの話であったものが、恐るべき悲劇であることが次第にわかって来て、自分たちがいったい何を信ずべきなのか、また、それに対して、何をすべきなのかを、深刻に問い直す必要が生じてきたのだ。20年代のいわゆる「反逆児たち」、私の上の世代の人たちに当たるのだが、は、もはや、スコット・フィッツジェラルド的な意味でしか、「反逆児」などではないことが明らかだった、アルコールの匂いが強すぎることがなかったら、嗅ぐことができたかもしれない、未来を暗示する匂いにも気付かず、無駄に血を湧き立たせていた者たち。スコット自身は、それを知っていたからこそ、これらの旧友たちが、新たな急進派へと、装いを変えていくのを、憎々しく感じていたのであろう。しかし、私にとっては、1920年代の「反逆児」たち、というものは、つねに奇妙な現象でしかないと感じられてきた、遠慮なく言わせてもらえば、彼らのほとんどが、よくできた漫画の主人公たちのように、豊かな社会の中で、大した犠牲も払わずに、それを演じているだけなのでは、と。新たな急進主義、それこそが、私がつねに、追い求めていたものだったのだけれど。
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I could not write a history of those years as it seemed to us then. Or, more accurately, I could not write my own: I have no records and I do not know when I understood what. I know that Hitler - Mussolini might have escaped our notice as no more than a big-talking man in silly uniforms - had shaken many of us into radicalism, or something we called radicalism, and that our raw, new convictions would, in time, bring schism and ugly fights. But in the early Thirties I don't believe the people I knew had done much more than sign protests, listen to the shocking stories of the few German émigrés who had come to New York or Hollywood, and given money to one cause or another. We were disturbed by the anti-Semitism that was an old story in Germany and some of us had sense enough to see it as more than that. Many people thought of it as not much more than the ignorant ranting of a house painter and his low-down friends, who would certainly be rejected by the Germans, who were for my generation an "advanced," "cultivated" people.
But by 1935 or 1936 what had been only half understood, unsettling, distant stories turned horror-tragic and new assesssments had to be made fast of what one believed and what one was going to do about it. The rebels of the Twenties, the generation before mine, now seemed rebels only in the Scott Fitzgerald sense: they had wasted their blood, blind to the future they could have smelled if the odor of booze hadn't been so strong. Scott knew this about himself, and understandably resented thos old friends who had turned tinto the new radicals.
But the 1920's rebels had always seemed strange to me: without charity I thought most of them were no more than a classy lot of brilliant comics, performing at low fees for the society rich. The new radicalism was that I had always been looking for.
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・・・私はパリへ直行し、小さくて安価な「ホテル・ヤコブ」に宿をとった、そして誰にも会わないようにして過ごした。一日に一回散歩をして、一日に二回、労働者街の食堂で食事をした、おぼつかない知識で、フランス語の新聞や雑誌と格闘した。それらから得られたものはあまりないのだが、それでも、「人民戦線」が結成されたことは、そこで知った。また、その年、ありうべきことだったが、パリでも、ファシストの暴動が発生した。・・・
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... I went directly to Paris, to the small and inexpensive Hotel Jacob, and decided to see nobody. Once a day I went for a walk, twice a day I ate in working-class restaurants, struggling through French newspapers on magazines. They didn't teach me much but I did know about the formation of the Popular Front. There had been, there were to be, Fascist riots in Paris that year. ...
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ジュリアからの連絡は、ちっともなかった。そして、私が電話をしてから二週間後、新聞の一面の記事で、オーストリア政府軍が、地元のナチ党員の支援を受けて、ウィーンフロリズドルフの「カール・マルクス庭園」地区に砲撃を加えたことを知った。その地区を事実上支配していた社会主義的な労働者たちが、防衛しようとしたが、200人におよぶ人が、殺害された。・・・
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I waited but no word came from Julia. Then, two weeks after my phone call, the newspaper headlines said that Austrian government troops, aided by local Nazis, had bombarded the Karl Marx Hof in the Floridsdorf district of Vienna. Socialist workers, who owned the district, had defended it, and two hundred of them had been killed. ...
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男は言った、「まっすぐ改札口を通り抜けてください。改札の所にいる係員に、駅の近くに食堂はないか、尋ねてください。彼が『アルベルツ』を教えてくれたなら、そのままそこへ向かってください。別の店の名前を行ったなら、いったんは、その店をのぞいて、それからまた『アルベルツ』に戻ってきてください、その店は、あなたが今立っているドアのちょうど反対側にあります。」・・・
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The man said, "Go through the gate. Ask the man at the gate if there is a restaurant near the station. Is he says Albert's go to it. If he gives you another name, go to that one, look at it, and turn back to Albert's, which is directly opposite the door you are facing." ...
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私は言った、「どれくらい時間があるの?もう一つの駅はどれくらい遠いの、つまり、私がモスクワ行きの列車に乗る駅は?」
「二時間あるわ、でも、全部一緒にいるわけにはいかないの、あなたを駅に連れてって行ってくれる人と会わなければならないし、その人が今度は、あなたを明朝ワルシャワまで送ってくれることになっている人を探す時間もいるからね。」
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I said, "How long have we got? How far is the other station, the one where I get the train to Moscow?"
"You have two hours, but we haven't that long together because you have to be followed to the station and the ones who follow you must have time to find the man who will be with you on the train until Warsaw in the morning."
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彼女は微笑んで、私の手を軽くたたいてくれた。「いつか、あなたをフロイトに会わせたいわね。あら、私なに言ってんのかしら?、フロイトに二度と会うことは、たぶんできないだろうに――私がヨーロッパで生きることが出来る時間は、そう長くないかもしれない。松葉杖は、目立ちすぎるのでね。あなたを駅まで連れて行ってくれる人が現れたわよ。窓の外、見える?さあ、立ちあがって、もう、行って。通りを渡って、タクシーに乗る、『第二百番駅まで』、って言うのよ。そこにもう一人の人が待っているはず。あなたがちゃんと列車に乗れたかを見届け、明朝ワルシャワに着くまで、同行してくれるわ。彼は、A号車にいる、客室は13番。あなたの切符を見せて。」
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She smiled and patted my hand. "Someday I will tale you to meet Freud. What am I saying? I will probably never see him again - I have only so much longer to last in Europe. The cruches make me too noticiable. The man who will take care of you has just come into the street. Do you see him outside the window? Get up and go now. Walk across the street, get a taxi, take it to Bahnhof 200. Another man will waiting there. He will make sure you get safely on the train and will stay with you until Warsaw tomorrow morning. He is in car A, compartment 13. Let me see your ticket."
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・・・ほどなく、私の客室のドアにノックがあって、私は立ちあがってそれを開けた。英国風のアクセントが、その隙間から聞こえてきた、「おはようございます。お別れの挨拶がしたくて、どうか、よい旅路でありますように。」そして、声を低めて、こう続けた、「あなたのトランクは、ドイツ人が持って行ってしまいました。もう危険はありません、国境は超えましたから。しばらく何時間かは、何もせずじっとしていてください、それからポーランド人の車掌に、トランクについて問い合わせてください。モスクワからお帰りの際は、決してドイツを通らないように、別の経路を使ってください。」ふたたび大きな声に戻って、「ご家族の皆様によろしくお伝えください」、そして、彼は姿を消した。
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... In a minute there was a knock on my door and I rose to open it. An English accent said through the crack, "Good morning. Wanted to say goodbye to you, have a happy trip." And then, very, very softly, "Your trunk was removed by the Germans. You arw in no danger because you are across the border. Do nothing for a few hours and then ask the Polish conductor about the trunk. Don't return from Moscow through Germany, travel another way." In a loud voice he said, "My best regards to your family," and disappeared.
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彼女には、モスクワからも、そして、パリに戻る途中のプラハからも、それに「内戦」中のスペインからニューヨークに戻った後も、彼女に手紙を出した。三か月か四か月後、ジュネーヴの消印のある葉書が届いた。それには、こうあった、「よく、がんばってスペインまで行ったわね。行ってよかった?3月にニューヨークに戻るから、そのとき、お話ししましょう。」
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I wrote to her from Moscow, again from Prague on my way back to Paris, and after I had returned to New York from Spain during the Civil War. Three or four months later I had a card with a Geneva postmark. It said, says, "Good girl to go to Spain. Did it convince you? We'll talk about that when I return to New York in March."
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「ジュリア」リリアン・ヘルマン(「ペンティメント」所収)
Julia/Lillian Hellman
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「ペンティメントPentimento」は、年月を経て退色した絵画に修復をほどこして、元のイメージを浮かび上がらせること、元になったイタリア語の動詞pentirsiは、英語のrepentに当たり、後悔する、悔い改める、の意、もちろん、この表題には、その含意もあるのだろう
・・・
「とても光栄です、ヘルマンさん、あなたに『こんにちは』とごあいさつができて」、「本当に、『こんにちは、こんにちは』」、という奇妙な会話は、その前夜、ジュリアが差し向けてきた使者であるヨハン氏、との間で、この危険な任務、ナチ支配下のベルリンに、レジスタンスのための資金を密かに運び込むこと、を引き受けてくれるなら、ホームですれ違った際に「こんにちは」と言ってください、そんなことはできない、と決断されたら、黙って通り過ぎてください、と約束されていた、という事情があるのだね、思わず二度繰り返したリリアン・ヘルマンの、まだ、困難は先にあるはずなのに、なにか「安堵した」かのような調子が、印象的だった。
帽子の裏側に現金が縫い込まれていたようである、キャンディーの箱にはどんな仕掛けがあったのかは、最後までわからない。
リリアン・ヘルマンは毀誉褒貶が激しい人で、「ジュリア」についても、「作り話だ」とする見解が多いのだが、「実話」とすれば、「私たちが19歳の年」は、1934年、その翌年、ジュリアが、ウィーン大学のフロイトのもとに「弟子入り」する、それが1935年、・・・、コミンテルン第7回大会、デミトロフ演説によって「人民戦線路線」が定式化されるのも同じく、1935年、右翼諸党派がコンコルド広場で暴動を起こした、「2月6日危機Crise du 6 février 1934」は、その前年だから、ちょっとつじつまが合わない気もするが、・・・。
延安の、洞窟の家の扉に貼られていたかもしれないスペイン共和国のポスター、アグネス・スメドレー、「『味方』の戦線内部の『敵』/エネミー・ウィズィン」という話型について、など、「老トロツキスト」の饒舌は続いて
この時期のオーストリアの政情を見ると、第一次大戦後、「オーストリア第一共和国First Austrian Republic/Erste Österreichische Republik」、1933年、イタリアのファシスト党に親近性を有する、エンゲルベルト・ドルフュスEngelbert Dollfussが大統領就任、独裁的体制を確立、当時まだ健在であった「オーストリア社会民主労働者党Social Democratic Party of Austria/Sozialdemokratische Partei Österreichs(SPO)」の民兵組織「共和国防衛同盟Republikanischer Schutzbund」と、政府側との間に、1934年2月、「内戦Austrian Civil War」勃発、その結果、社民党は非合法化、活動家の多くは、亡命を余儀なくされた、同年5月、ドルフュス体制下の唯一合法政党「祖国戦線Fatherland Front/Vaterländische Front(VF)」により新憲法、さらに独裁基盤を固めたに見えたが、早くも同年7月、オーストリア・ナチのクーデター未遂事件のさなかにドルフュスは暗殺され、彼の後継者は、ドイツに融和的な態度を示したものの、独立性維持をめぐる国民投票前夜の1938年3月、ナチによるオーストリア併合「アンシュルスAnschluss」を迎えることになった。フロイトは、最後までウィーンを離れることに難色を示したようで、パリ経由でロンドンに脱出することになるのが、ようやく、1938年の6月、この引用部分の背景、1937年の時点で、ジュリアが、「もう二度と会えない」だろう、ともらすのも当然であった、・・・、その少し前の記述、フロリズドルフFloridsdorfは、プラーター公園から、ダニューブ川をはさんで北方5キロばかりに広がる地区、「カール・マルクス庭園Karl Marx Hof」の方は、そのフロリズドルフ地区の南西端に当たるのだろうか、ダニューブ川の南側に見つかった、すると、ここでの、同地区への「砲撃」は、1934~1935年の出来事と読めるから、この「内戦」の一場面、ということになるだろう、「政府軍」というのが、おそらく「祖国戦線(VF)」、「アンシュルス」以前だから、露骨に、ドイツのナチは登場していない、オーストリア・ナチと、ドルフュス派は、必ずしも良好な関係ではなかったようだが、ここでは、「社民党(SPO)」などの左翼を粉砕するという利害の共通性があったのだろう、この地区に住み着いて活動していたジュリアは、おそらく「社民党(SPO)」の人々と行動を共にしていたのであろう、・・・。
「カフェ・モーツアルト」の「シュラークオーバースSchlagobers」…「ホテル・ニューハンプシャー」、「第三の男」、「ジュリア」のウィーン
二人の「フロイト」、の、ウィーン・・・「ホテル・ニューハンプシャー」を読みなおす、あるいは、「ある晴れた朝one fine morning」、を永久に先送りする衝動、「ギャツビー」の、「アメリカン・ドリーム」資本主義(笑)
下に見るように、リリアン・ヘルマンが、「国際旅団」のプロパガンダ、報道部門の要員として、スペインに滞在したのは、1937年の末、こののち、ジュリアは、フランクフルトの隠れ家にいたところを、ナチの急襲を受けて殺害されることになるから、ニューヨークで、スペインの話をすることは、もちろん、できなかったのだ、・・・。
「わたしに一番言語道断と思われるのは」、・・・、シモーヌ・ヴェイユとスペイン

オーウェル、ボルケナウ、シモーヌ・ヴェイユ、リリアン・ヘルマン、ヘイングウェイ、他、「内戦」期のスペイン、滞在期間
・・・
さて、そもそも、「ジュリア」を読み直したのは、ベルリンの鉄道駅が登場した記憶があったからだな、パリは、ベルリンから見て南西方向、ワルシャワはほぼ真東、・・・、パリもそうだけれど、古典的なヨーロッパの大都市は、行先ごとに出発駅が異なっているようで、ここでも、リリアン・ヘルマンは、パリから到着して、その駅前の「アルベルツ」なるレストランで、ジュリアと何年ぶりかの短い再会を果たしたのち、タクシーで、ワルシャワ、さらにモスクワへ向かう列車が出発する駅、へと向かうのである、・・・、「List of railway stations in the Berlin area」などを参考に、見てみると、まず、「Bahnhof Berlin Südkreuz」、「süd」は「南」、「kreuz」は英語の「cross」だから、「サザンクロス/南十字星」みたいな名前だが、前世紀初頭に開業したときの名前は、「ベルリン・パぺ通り駅Berlin Papestraße」、地下鉄との乗換駅で、国際長距離列車の発着駅ではなさそう、「ハウプト駅Berlin Hauptbahnhof」、かつての名称が「レールター駅Lehrter Bahnhof」、「haupt」は、「主要な」の意味だから、「ベルリン中央駅」か、ハンブルグやスカンジナヴィア向けの列車の発着駅だったらしい、「フリードリッヒ通り駅Berlin Friedrichstraße」、1936年のベルリン・オリンピック時に、地下駅が完成、「冷戦」期には、「西側」諸国への玄関口、とのことだから、パリから到着する駅が、ここである可能性はあるように思える、「ゲスントブリュンネン駅Bahnhof Berlin Gesundbrunnen」、「健康の泉」という意味だ、これも歴史が古く、長距離列車の発着駅であったらしい、戦中には防空壕となった、とも、・・・、という訳で、あまり実りのない探索が続いていたのだが、まさか「アルベルツAlbert's」なんて、いかにもどこにでもありそうな名前の店だから、手掛かりにはならんだろうと、大して期待せずに、G某マップに問い合わせると、おお!駅の改札口を出たら目の前、という記述そのままのようなのが見つかった、「シャルロッテンブルク駅Berlin-Charlottenburg」、アルザス・ロレーヌ地方方面への列車の出発駅、というから、ほぼ間違いなかろう、「アルベルツ・レストランAlbert's Restaurant」は、道をはさんで北側、写真を見ると、そういえば、映画「ジュリア」の中で、ジェーン・フォンダJane Fonda演ずるリリアンが、バネッサ・レッドグレーブVanessa Redgraveのジュリアに再会する劇的な場面として描かれていた店と、似た雰囲気のような気さえしてきた!、・・・、では、ワルシャワ方面へ出発するという「第二百番駅Bahnhof 200」は?、「ベルリン東駅Berlin Ostbahnhof」というのが、ケーニッヒスベルク、サンクト・ペテルスブルク、モスクワ、などへ向かう「東の玄関口」だったらしいことがうかがわれる、だが、残念なことに、それが、そんな呼び方をされていたのかどうかは、つきとめられなかった、・・・。

Julia(1977)/Fred Zinnemann

Julia(1977)/Fred Zinnemann・ドイツ語吹き替え版

Julia(1977)/Fred Zinnemann・予告編
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ウィーン・拡大

ウィーン広域

ベルリン広域



さる有名大学(笑)、の入学試験に、「三角関数の加法定理を証明せよ」というのが出題された、と、ほんとかどうか知らないけど、そんな話を小耳にはさみ、もう、そんな「職業」から遠く離れて(笑)、十年になんなんとしている、はて、私にもできるかしら?、と、不安になって(笑)、他には何にもやる気のおこらない、なかなか重い「鬱状態」でも、それくらいの、「手仕事」なら、なんとかなりそうなので、やり始めてみた、もちろん、めでたく(笑)、解けたからこそ、得意そうに、ご紹介することにしたのだ。






「七人」のうち、「二人」失格(笑)、「一人」欠席、残り「四人」のうち「三人半」までが、偽物(笑)。

(1)せり、(2)なずな、(3)おぎょう、(4)はこべら、(5)仏の座、(6)すずな、(7)すずしろ、これぞ七草
のうち、(6)「すずな」、カブ(アブラナ科)、および、(7)「すずしろ」、ダイコン(アブラナ科)、は、「栽培植物」だから、「野草」ではないから、ということで(笑)、除外することにして、
(3)「おぎょう」、ホウコグサ(キク科)、毎年、見ることが出来た、「田芋」、これは、サトイモ科サトイモの水耕栽培品であるが、の畑、いや水田が広がる「やんばる」の、ある河口地帯まで、探しに出掛けたのだが、残念なことに見つからず、
(4)「はこべら」、ハコベ(ナデシコ科)、は当地には産しないので、近縁種の、ウシハコベ(ナデシコ科)、が代わりをつとめる、
(2)「なずな」、ナズナ(アブラナ科)、は当地にも生息しているはずだが、なかなか見つからず、これまた、近縁種、マメグンバイナズナ(アブラナ科)、で代用、
そして、(5)「仏の座」は、水を抜いた田圃一面に、黄色い小さな花が雲のように咲き乱れ、その遠景が、仏座を思わせる、というのが由来だそうで、タビラコ(キク科)、を指すのが正しい、とのこと、これまた、当地には産しないので、近縁種、オニタビラコ(キク科)、に登場願ったわけだ、・・・、悩ましいのが、「ホトケノザ」なる名を有する野草がちゃんと存在していて、これ、ホトケノザ(シソ科)、は、その花序自体が、まるで、ろうそくを供えた仏壇、のような形状であるから、という由来だが、「春」の花であることは確かだから、「番外編」として、入っていただくことにした。


「萵苣」なんて漢字を見せられても、もちろん、読むことさえできないんだけどね。

キク科のアキノノゲシ属は、その学名を「ラクティカLactuca」と言い、「乳糖/ラクトースLactose」、「カフェラッテCaffè Latte」の「ラッテLatte」、「カフェオーレcafé au lait」の「レlait」、などと同根の、「乳」を表す言葉、この植物の茎を折ると、白い乳液状のものが流れ出ることからの命名、とのこと、で、サラダに用いる「レタスlettuce」は、このキク科「ラクティカ」に属する植物で、あまり原形をとどめていないようにも思えるが、やはり、ラテン語「乳/lac」に由来する言葉であるらしい、その和名が、「チシャ/萵苣」、「萵苣/莴苣」は本来、「カキョ」と読み、おそらく漢名なのであろう、ピンイン表記が「wōjù」のようだから、「ちさ」の方が和名で、これを、この二つの漢字どちらにも、単独で、訓読みとして与えたのだと思われる、・・・、そして、分類上はほとんど縁がないともいえるゴマノハグサ科のこの植物が「カワジシャ/川・萵苣」と呼ばれるのは、若葉が食用になることから、「川べりに生えるレタスだ」という連想によるらしい、たしかにここは、海岸だが、湧き出した淡水が、注ぎ込む河口の「川べり」なのだ。
萵/莴カ、ワ、wō
キョ、たいまつ、ちさ、ちしゃ、jù

アシナガグモ(アシナガグモ科)、カワジシャ(ゴマノハグサ科)









カワジシャ(ゴマノハグサ科)


画面の中で波が押し寄せてきただけで、撮影者の方がおびえて、手が震えてしまってるよ(笑)?


カワウ(ウ科)

ハシビロガモ(カモ科)・メス

オナガガモ(カモ科)・メス



オナガガモ(カモ科)・オス



ハシビロガモ(カモ科)、まだ、「婚姻色」ががはっきりしないからなのかな、オスのようにも、メスのようにも、見える


首を少し傾けてみせるところなんか、・・・。














コチドリ(チドリ科)


お名前だけは、かねてから伺っておりましたので(笑)、・・・。






チャバネセセリ(セセリチョウ科)、タチアワユキセンダングサ(キク科)


この、「八重葎」って草は、万葉集にも出てくるって話を聞いたぞ、もちろん、読んだことないけど(笑)。






マメグンバイナズナ(アブラナ科)

ルリハコベ(サクラソウ科)

ノゲイトウ(ヒユ科)

マツバゼリ(セリ科)

ホトケノザ(シソ科)

ウシハコベ(ナデシコ科)

ホトケノザ(シソ科)

ヤエムグラ(アカネ科)



ウシハコベ(ナデシコ科)

ヤエムグラ(アカネ科)

ヒヨドリ(ヒヨドリ科)
・・・

そんなに一度にたくさん出てきてくださると、どちらにカメラを向けてよいのやら、目移りしてしまいます(笑)・・・その1:「黄鶺鴒」、相変わらずお尻を激しく振る(笑)。








キセキレイ(セキレイ科)


そんなに一度にたくさん出てきてくださると、どちらにカメラを向けてよいのやら、目移りしてしまいます(笑)・・・その2:「磯鴫」、その、大きく頷くような仕草は。




イソシギ(シギ科)


ハンカチを忘れた子供が、お手々をぱたぱた振って乾かしてるみたいな感じ、それと、無関係な、しかし、気になる隣人(笑)。










カワウ(ウ科)





アオサギ(サギ科)、カワウ(ウ科)

アオサギ(サギ科)


おや?、あなたたち、いつの間に「入れ替わった」のですか(笑)?


シロガシラ(ヒヨドリ科)、ギンネム(マメ科)

ヒヨドリ(ヒヨドリ科)、ギンネム(マメ科)



カワジシャ(ゴマノハグサ科)

コチドリ(チドリ科)

チャバネセセリ(セセリチョウ科)、タチアワユキセンダングサ(キク科)

ウシハコベ(ナデシコ科)





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Last updated  2024.04.17 17:56:00



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