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先ずお手数ですが『日高パーティー』で検索をお願いします。
私達の仲人である海洋学者の日高孝次先生と奥様の艶子さんの白黒の小さな写真がすぐ出てきます、 (ネットの写真には著作権があり勝手に使用できないそうですので) 敗戦後の日本で健全な男女の交際機関が必要との観点から東大教授を退官なさった後自宅を改造して 大きなパーティー会場をつくり、毎週水曜日にパーティーを開いておられました。 日高先生の最初の奥様は娘さんを残して病気で亡くなり、艶子さんは二人目です。 艶子さんは戦前ニューヨークに留学なさった程その時代の先端を走っていた独立した女性でした。 奥様を失しない失意の日高先生との出会いはニューヨーク行きの船の上で何とロマンティック 船旅だったことでしょう。艶子さんは一つ年上でした。 偶然の事から入会させて’頂い’たのは私が26才の時。その頃の日本は貧乏で一般人の海外物見遊山 禁止でした。それが解禁されたのが東京オリンピックの年、1964年でした。 日高先生は64年の秋頃、ロックフェラー財団の援助でハワイ大学に研究のために6か月の予定で ホノルルに渡られて、パーティーはお休みでした。処が、65年の冬に日高夫人からお手紙を 頂いたのです。長年私が日本脱出の夢を語っていたのを覚えていらしたお二人が『男性を見つくろい 用意するからホノルルに来ませんか』という有難いお誘い。わーい! わーい! いくぞー!と張り切ってJTBに’飛んで行ったら『ダメダメ、若い女性の一人旅は絶対にビザが 下りない。ハズバンドを探しに行くんだから』と云うではないか。実際そうなんですがね。 『じゃーいいわよー、自分でやるから』とアメリカ大使館に乗り込んだ。『私達はこの後シカゴ大学 へ行くので、今すぐ来れば2週間程度アパートに泊めてあげられる』という手紙を見せたら 『良い旅行を・・・』と云ってビザをくれたのです。ハワイ大学とかシカゴ大学の効果抜群だ。 『ビザ貰ったわよー』とJTBへ行ったら、目を丸くしてびっくり。 私の日本脱出病が始まったのは10代の頃から。明治男の父の振る舞い。どれ程姑のいびりに耐え てきたのかと云う母の愚痴100万回。こりゃ日本で女として生きるのは損だ。我慢しない人生 男の経済力に頼らない人生をお目指すと決めた。バカだからそんな発想ができた。 父に相談したら『大賛成だ。これからの日本人は外に出るべきだ』と云ってくれた。 新宿で偶然入った映画館で観たフランスのバレエ映画では、ハンサムでエレガントな男性ダンサーが バレリーナを恭しく尊敬しているではないか。『これだーっ』こんな世界があったのかと有頂天に なって乗り込んだホノルルですが、そんな白人は見あたらない。当時は人口の25%は日系人。 あとチャイニース、フィリピン人、ハワイアンなど。白人は少数派だった。 見合いの相手は日系人ばかり。人がいいのは分かる。でもなんとなく物足りない。そんな時現れた のが番外のパンスキー。『あれも嫌、これも’ダメ。しかたないわねー、じゃーあのおにいちゃんに しときー』でパンスキーに決めた。28才で3軒長屋を買い、お酒もタバコものまない働き者。 そろばん’ははじかなかった。直観で決めた。私は32才だった。 実際パンスキーは掘り出しものだった。商売」も上手いし機転も利いた、不動産を買い足し、 株を買い投資を始めて、バックアップ・システィムを構築していった。日本よりアメリカの方が 投資は進んでいる。移民になってみてつくずく思った。アメリカは学歴社会。世界中そうですが。 移民となったからには働くしかない。ギフトショップをオープンして逆立ちして働いた。 私もパンスキーも年を取り体力も落ちた。来月で結婚57年になる。子供はない。 今になって両親には親不孝をして申し訳ないと思う。そして赤の他人の私に親切にして下さった 日高先生ご夫妻には大いなる感謝を捧げたい。 生物学者の何とかと云う方が云っておられます。『人生は振り幅と残高だ』何のこっちゃと思ったら 何もせずに銀行に大きな残高を残して’死ぬのは最低だ。なる程なー。 戦争が早く終わって欲しい。 プーチンは核で脅しをかけてくる。プーチンの脳は時代遅れの ソ連脳だ。脳みそが古くなっているのに気ずいてない。脳ミソだってアップデートする必要がある。 日本だってそう、古い脳ミソを使い回している自民党に任せておいたから貧乏になっていく。 脳みそを磨く必要があると思う。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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