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カテゴリ:日替わり日記
hiyokitiさん
ついつい たまきさんの肩をもってしまうひよです(*^_^*) ここに夢二が居たら喧嘩を売ってしまいそう(笑)です・・・。 誰か止めてください。 竹久夢二の研究者などによると、夢二が真剣に愛した女は、たまきではなく笠井彦乃だというのが定説として言われています。 たまきは性格が強く、夢二にあれこれ口うるさく性格もあわないため、喧嘩ばかりしていました。それにひきかえ、彦乃はひかえめで夢二に安らぎを与える存在であったようです。 そのような理由から、夢二は彦乃へ傾倒してゆき、彦乃の早世ということもあり夢二の絵の儚げと重なり、印象としてたまきに分が悪かったようです。 ここで読んでくださっている人は、どちらかというとたまき擁護派が多いようですが、どのようにスポットを当てるかによってイメーシは変わるものと思われます。僕は、一般の風評とはすこし別の角度から書いてみようと思っただけです…。 笠井彦乃は日本橋の老舗紙問屋の一人娘で、女子美術学校日本画科の生徒でした。 父親は彦乃を可愛がっていましたが、妻を亡くし再婚しています。 子ども時代の彦乃は、父親からはとてもいい子であったようです。女の子を美術学校に入れるなど、裕福な家庭とはいえ当時としては破格の待遇といえましょう。 ちょっと意地悪く考察してみましょう。彦乃が父親にとっていい子であったのは、愛情を継母と争っていたためとも考えられます。 そのため、子どもの頃から父親にとりいる術を身につけていたのではないかと―。 夢二と出会った頃、大人になりかけていた彦乃にとっての関心は父親ではなく、当時一流の人気画家であった夢二への憧れへと向いたのです。 内心、たまきを邪険に思っていた夢二に、頻繁に港屋に訪れる彦乃は不遜ないい方をすれば、猫に鰹節状態だったとも言えましょう。 彦乃が父親の愛情を確保するために身につけた術は夢二に向けられ、夢二にとっても心地の良いものだったにちがいありません。 夢二が、たまきの浮気を疑い嫉妬したというできごとは、結婚後すぐに始まっていますが、港屋に入ってからもしばしば疑っています。 そして最も強く疑ったのが、東郷青児との仲でした。 東郷青児は独特の美人画家として活躍した人ですが、港屋に出入りしていた頃はまだ17歳でした。たまきは東郷青児に目をかけてやり、可愛がっていました。 夢二はこの東郷と妻たまきとの仲を疑ったのです。 たまきとしては、才能のある青年に目をかけたのは事実ですが、夢二が異常に嫉妬深い性格であることは、これまでの行いから知り抜いていたはずです。東郷青児と怪しげな関係になっていたら、どうどうと目をかけるなどということはできなかったはずです。 あくまでも推測ですが、噂の出所は頻繁に港屋に訪れていた彦乃からではなかったかと思われます。事実、このことがより夢二を彦乃に向かわせることになったのです。 東郷青児は、のちに19歳の女性との心中未遂を始め、数々の女性たちと浮き名を流すなどドンファンぶりでも有名ですが、この頃はまだ大人になりきっていない年代です。後には夢二とも親しく交流をもっています。 岸たまき 笠井彦乃 彦乃とは毎日でも会いたい夢二でしたが、彦乃の父親は夢二との交際を固く禁じます。 夢二も、たまきに快く思えない感情を抱いていました。とうとうふたりは駆け落ちを決意します。 大正5年11月、夢二はひとりで京都に行き護王神社横の堀内清方に身を寄せます。 たまきは、京都に行ったまま帰らない夢二に業を煮やし一計を案じます。12月に、子どもの不二彦を京都に送り届けます。子どもが手元にいればたまらなくなって帰るだろうと思ったのでしょう。 ところが、夢二は家を借りそのまま不二彦とともに暮らし始めます。不二彦を連れ室津に旅をしたりしています。 そして、大正6年4月、高台寺に居を移します。転居を重ねた事情は住所を身内のものにわかりにくくしたものと考えられます。 そしてこの年の6月、笠井彦乃が京都に来て一緒に暮らし始めました。 いきなりふたりで駆け落ちするのではなく、周到な準備をして決行したことが窺われます。 不可思議かな、男と女……。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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