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カテゴリ:日替わり日記
敬愛するそが逸郎さんから次のようなメールが届いております。
ぼくもこの考え方に同意し、賛同するものです。 たぶん、思慮の浅い人の中には国旗に敬意を払わない行為として不快に感じる人もいるでしょう。 本当の愛国心とは、政府に無条件に従われることではなく、政府の方針が正しくないと思うときには勇気を持って異議を唱えることだと思います。もちろん、正しいと思うことには賛同する。 そういう自立した生き方を持つ人々が増えることが、良い国家をつくってゆくことだと思っております。 以下引用********* 2021年 憲法記念日の前日に わたしが国旗に一礼しないわけ 中川村村長の時、「国旗に一礼しない村長」として話題になりました。村議会の一般質問で、こんな質問を受けたのです。 「入学式や卒業式などの式典で壇上に上がる際、国旗に一礼しないようだが、それはなぜか?」 理由は、日本を、誇りにできる国、外国の人たちからも尊敬され愛される国にしたいからです。 国旗や国歌へ敬意を頭ごなしに強制することは、国をよくしていこうとする意欲を押さえつけることになります。 当時、大阪で維新の橋下府政による国旗・国歌の強要が議論を呼んでいました。その背景があったので、もともと感じていた、国旗・国歌を強制する空気は嫌だという思いが一層強くありました。 なんであれよくしていこうと思うなら、現状を客観的に分析して、あるべき理想と引き比べ、現状を理想に近づけていく方策を考えなければなりません。では、日本が国として目指すべき理想とはなんでしょうか。国民一人一人、いろいろな考えがあるかもしれません。しかし、それは、既に明解に文章化され定められています。 日本国憲法前文です。 憲法前文の末尾は、「日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓う」と高らかに謳っています。 「崇高な理想と目的」の内容については、是非原文にあたってください。短い文章です。わたしなりに要約すれば、自分の国のことだけではなく、すべての人々が苦しみを免れて平和に暮らせる世界にするために、世界中のみんなとともに努力する、という誓いです。 虚心に日本の現状をみて、この理想を実現しているでしょうか。 たとえば、核兵器廃絶や気候変動対策への姿勢は、理想とは正反対だと言わざるを得ません。貧困や差別もほったらかしです。格差はますます広がっています。 理想に向けて日本が克服すべき問題を課題として捉えることを、国旗国歌に黙って敬意を示せ、という空気は押さえつけることになります。 「そんな理想など夢物語だ。厳しい客観情勢を見よ。もっと現実的になれ!」 そういう声が聞こえます。しかし、現実に妥協的な「現実主義」は、現実をさらに悪化させます。 理想の実現は簡単ではありません。しかし、理想を目指して努力することはできます。理想を実現していなくとも、日本が理想の世界のために真摯に努力することを明確に宣言し、言葉どおりに行動するなら、国民は国を誇りに思えるし、世界中の人々も日本を敬愛してくれるでしょう。 目先の損得や都合に妥協せず、歯を食いしばって理想ににじり寄る方策を模索すべきです。 国家は力をもっています。それを良い方向にも、悪い方向にも使うことができます。人々を救うことも、苦しめることもできます。人々の苦しみを増す国は悪い国であり、減らす国は良い国だと言えるでしょう。 日本を誇りにできる良い国、世界から苦を減らす国にするために、現状を理想に近づけていきたいと思います。 ところが、国旗や国歌を強要する空気は、国の現状を客観的、批判的に見ることを抑制します。 小さな村の学校の式典にまで、残念ながらそういう空気は拡散しています。 わたしが「国旗に一礼しない村長」として話題になった時、日本中からたくさんの葉書やメールが届きました。いくつかは、こんな主張でした。 「村長たるもの、心の中で舌を出していてもいい。外見上では、国家への敬意を示せ。」 心の中で舌を出しながら、外見だけの敬意を示すとは、何と失礼なふるまいでしょうか。 わたしは、心から誇りにできる国にしたうえで、その誇りを示したいと思います。そもそも空気の圧力に服従させられるのは、気持ちのいいことではありません。 外見だけの服従を要求する人たちは、国を良くしようとは考えておらず、ただ、人にいうことを聞かせたいだけなのです。 空気の圧力に屈することは、憲法12条が国民に要求する「国民の不断の努力」を放棄することでもあります。 従わせようという空気のあるうちは、国旗に一礼しないでいようと思います。「国旗に一礼しない総支部長」と呼んで頂ければと存じます。 縄文のヴィーナス
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国旗に一礼しない、というのは、国旗が掲揚されている、まだ、理解できます。一礼してもしなくても。
私、半世紀以上前ですが、国旗さえない、演壇? に 敬礼、一礼する方が続出しているのを見て、驚いたことを覚えております。これ、日本でです。 場 に対する礼? 国旗がない演壇で、礼した方向にどなたもいらっしゃらない場合でも、 日本でなくても、なさる方がいらっしゃるんですよ。 ほんと不思議、 思い出させていただきました、 ニュースで、欧米のでも、何もないのにその方向に礼する、っての 今でも時々ありますよ、 念の為、十字架もないのです。野原での場合でも。礼しているのはその国の方々。 どなたか解釈、解説くだされば、私の長年の疑問が解消するのですが。 (2021.05.04 09:28:39)
国会でも、学校などでも壇上に向かって礼をする習慣はよくある光景です。
国旗が有る無しにかかわらず登壇する前に礼をすることがありますが、元々は上座(権力者または象徴)への敬意という意味で行われてきたものでしょう。 昨今では、深い意味は意識せずに一種の儀礼、形式として行われているケースも多いのではないかと思います。 寺社の前で手を合わすと同様な意識だろうと感じます。 なかには、日の丸への深い敬意をもって頭を垂れる人もいるのかも知れません。それらは、ひとり一人の心の持ちようですから、自分の信念に基づいて行えば良いことですが、誰もがそうすべきだと押しつけたがる人もいるから面倒です。 心の中は本来自由であるべきですから、形だけ頭を下げさせても意味の無いことだとぼくは思います。 ボンボさんは、国外で育っているから、神社仏閣の前で手を合わせる習慣がないのかも知れませんね。 (2021.05.04 20:23:12)
msk222さんへ
他者の宗教心への敬意は表します。どの宗教であれ、そこの信者のなさる行為はいたします。 ですから、国旗が掲揚されていれば、壇上にどなたかがいらっしゃって、周囲の方がなさるなら いたしておりました。 国旗国歌が半強制みたいになってからは、いたしておりません。 でね、壇上に何もなくても礼をするのって、日本だけじゃないんです。 だから不思議。 一神教の方が多い国でも、野外でもある。誰に、何に向かってしている? 一神教でもかつての自然崇拝が残している礼儀? 不思議、でしょ? (2021.05.05 09:17:37)
ポンボさんへ
壇上=上座=権威=頭を下げる、という図式でしょう。 個より“和をもって貴し”としてきた日本人ならではの行動様式でしょう。 今でも、権力や権威には無条件で従うといった意識をもつ人も少なくないと思っています。反権力=非国民といった認識です。 あれほどヒドイ体たらくの安倍政権でも盲目的に擁護する人々がいたくらいですから、無人の壇上に頭を下げるくらいどうってことない、と考える人がいても不思議ではないと思います。 但し、日本では。 (2021.05.05 23:18:56) |