カテゴリ:新しい生き方を求めて。
写真:私の散歩小径
私の好きなシロワビスケ。 古風な日本間の床の間に活けられたら、ワビスケほどに合う花はない。 茶花として好まれる由縁である。 この地方は、ここ数日、春雨模様の雨の日が続いている。1月末にしては気温も高く、雨も、しとしとと降り続き菜種梅雨のような季節はずれの天候なのである。 ミーシャさんがご自分のブログで作庭暦を綴っておられる。それに刺激されて私も一筆。 私の生家は古い寺である。 私は、幼い時から頻繁に庭師が出入りし、夏になると、日の昇る前から(午前3時ごろから)庭の草取りを地にへばりついて、もくもくとする祖母の姿を見続けてきた。 日本庭園のあの整然とした無駄のない美しいさは、そのような労働によって作られている。 私は、この祖母たちの黙ってもくもく草取りばかりしている姿が嫌いであった。あんな風には生きたくないといのが幼な心に強くあった。 そんな私は、結婚して以来まだ一度も庭のある家に住んだことがない。 マンションの高層階ばかりに住んでいる。現在もそうである。年をとるにつれて、マンション住まいの快適さ、利便性は増すばかり。高齢者にふさわしい住居とさえ最近は思っている。 だがしかし、最近少し考えが変化してきた。 花作りの好きな私であるが、ここ数年は花づくりに情熱を失っている。 現在の棲家はマンションとはいえ、私の能力に適する程よい花作りのスペース、バルコニーはある。バルコニーのガーデニングとかいう類の本さえ多々あるのだから、その気になれば見事な花々を咲かせることもできるであろう。10年ぐらい前までは見事な花々を咲かせていたのだが。 しかし、私は今、その情熱を失っている。 なぜか。 近所の園芸店で買う苗や種では、自分の思い通りの花は咲かないということに気付いたのである。 例えばこのブログの名前でもある日々草、暑い日照りの夏の盛りに、こんもりと大きな草木にして、白やピンクや赤の花々を夏中ずっと咲かせ続けるのが私は好きであった。 それを切花にして毎日部屋に活けるのである。白やピンクはみずみずしく涼しげである。 「これは造花ですか」と来た客に間違えられるほどの完成度の花が咲く。 それが最近の苗はすべて小ぶりで、大きなこんもりとした草木には育たないのである。種から育てても同じである。すべて大きく育たないように品種を改良してあるのだろうか。 要するに、種が私の趣味に合っていない事が判明した。 世間の流行の草花の育て方が、私は嫌いだったのだといことが、ターシャや丸山健二さんのお庭を知って分かったのである。 私が育てたかったのは、こういう花々であったのだ。 しかし、ブログのなかで花作りに情熱を持っておられる人たちに出会って、私にも花作り魂が少し頭をもたげてきた。 種から選ばないと、自分の思う花が咲かないのだということが分かった。 さて、どうする。これからの残されたいのちをどう過ごす。花づくりも加えようか。 でも当分は、私の庭は、私の散歩道の林や池や山々である。 散歩小道からこぼれ落ちてくる生垣のつばきであり、ばらである。 この大地の自然のめぐみそのものが私の庭である。 四季おりおりに変化する花々や草木の営みそのものが私の庭である。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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