カテゴリ:北海道・道東の春
人間の魂をゆさぶる地・知床 (北海道・道東の春 その6) 知床は明治政府による北海道開拓政策によって、 東北や越後の貧しい農民の子弟たちが移住し、 開拓者として農業や漁業を生業として暮らしていた。 アイヌや日本各地からやって来た 開拓者たちだけが知る地であった。 この知床を日本国民が広く知ることになったのは、 ディスカバージャパンのコマーシャルとともに、 国民が旅行するゆとりが生まれた1960年代である。 そのころ加藤登紀子が歌う「知床旅情」が大ヒットした。 まさにこの1960年代は 日本が高度経済成長に向かおうとする 活気あふれた時代であった。 「知床旅情」といえば 森繁久彌の「オホーツクの舟歌」が思い浮かぶ。 これは戸川幸夫原作の東宝映画「地の涯にいきるもの」 (1962年)の主題歌になった歌である。 森繁自身がこの映画ロケのため知床に長期滞在した。 その主人公は、長い冬を知床半島の番屋で過ごした。 厳しい自然のなかで生きる男の孤独。 ただ海鳴りばかりの暗い荒々しい知床の冬の海と その孤独な生涯は響きあい重なり合い、 男の魂の慟哭となる。 森繁久彌・作詞作曲 「オホーツクの舟歌」 (流氷の海から知床半島を望む) オホーツクの海原ただ白く凍てはて 生命あるものは暗い雪の下 春を待つこころ ペチカに燃やそ 哀れ東にオーロラ哀し (流氷の浮かぶ海とオオタカ。) さい涯ての番屋に命の火チロチロ トドの鳴く夜はいとし娘の瞼に 誰に語らんこの淋しさ ランプのほかげに海鳴りばかり (知床の春は海からはじまる。流氷が溶けると、漁師たちは半島の先端にある番屋にむけて 漁に出て行く。秋までその番屋を拠点に漁を続ける) 鈴蘭の緑が雪解けに光れば アイヌの歌声谷間にこだます シレトクの春は汐路にあけて 舟人の腕(かいな)海に輝く (明るいブルーの春のオホーツクと若草を食むエゾシカ) オレオレオオシコイ沖の声舟歌 秋アジだエリャンサ あげる網や大漁 (春のウトロ港は番屋を拠点にして、秋まで漁を続ける漁師たちの漁船が出て行く) かすむクナシリに我がふるさと いつの日か詣でん御親(みおや)の墓に 眠れ静かに ( 知床峠から国後を望む) 森繁自身が歌う「オホーツクの舟歌」 若き日の森繁の歌声です。 You-tubeでどうぞ この森繁さんの「オホーツクの舟歌」の詩は、オホーツクの海を そこで生きる人々の視点から見事に言い尽くしている。 それに比べ同じメロディーの「知床旅情」は あくまで旅人として愛惜の情を歌っている。 知床旅情の歌碑(ウトロ港)。最初の題名は「さらば羅臼」 森繁久彌が映画の長期ロケを終えて、 羅臼の村を去るときに 贈った歌。 さらば羅臼 (残雪のラウス山) 知床の岬にはまなすの咲く頃 思い出しておくれ おれたちのことを 飲んで騒いで丘に登れば はるかクナシリに白夜はあける (硫黄山から斜里岳を望む) 旅の情(なさけ)が酔ふほどに さまよい 浜に出てみれば月は照る波の上 君を今宵こそ抱きしめんと 岩かげによればピリカが笑う (知床峠の這い松) 別れの日は来たラウスの村にも 君は出てゆく峠を越えて 忘れちゃいやだよ気まぐれ鳥(からす)さん 私を泣かすな白いかもめを (知床岬の夏を彩るハマナス) 加藤登紀子さん歌う「知床旅情」は広く世間にしられていますが、 森繁さん若き日の歌声「知床旅情」もまたいい。 これらの歌や歌い手はまさに私たちの青春そのものです。
すこし背伸びして気取っていたあのころ なつかしい歌声です。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2011.07.09 11:50:12
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