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今回の豪雨の災害で、多くの子供が亡くなりました。
親より先に子が死ぬことほどストレスフルなことはありません。 それは、”種の保存の本能”とかなんとかより、それまで慈しんで育てた時間と労力と喜び、そして将来の楽しみを、一瞬で根こそぎ持ってかれるような感じです。 「絶望」とは、子供を失った親以外は使ってはいけないような言葉だと思っています。 しかし、そんな親の希望となるものがひとつだけあります。 それは、その親も早かれ遅かれ死ぬということ。 「死ぬことが”希望”だなんて・・・」と思う人もいるかもしれませんが、死ぬことを”不幸”としか捉えていない人ほど、浅はかな人生を送っていると断言できます。 この世に生きている人が、必ず最後にたどり着くのが”死”ということを考えれば、この世で起きていることなんて、すべてVRなんだなと実感するのです。 子を亡くして悲しむ感情も、いつか自分の死によって雲散霧消するのが現実です。 いや、”現実”というものすら存在していないというのが真実なのかもしれません。 死んだ子は戻ってきませんが、その子が生きた証は、親の記憶から消えることはありません。 記憶にあるということは、VRの世界では”存在している”ことに等しいことなのです。 死んだ子は、もう傷付くことも苦しむこともない、一番安全な場所に移動しただけで、いずれ再会できるのだから、その時を落ち着いて待てばいいのです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2018年07月17日 20時04分18秒
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