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おぢさんの覚え書き

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2015.05.03
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カテゴリ:カテゴリ未分類

今回は、実際の人物を例に挙げながら人の名前について考えていきたいと思います。

本居宣長 

  もと   ま     の    ちょう
  して、るに

三十五年をかけて『古事記伝』四十四巻を著した他に『玉勝間』『うひ山ふみ』など多数の著作がある。 を著す知識の裏付けとなったのは豊富な読書量である。『萬葉集』『源氏物語』『日本書紀』などの日本の古典はもちろん、儒学、医学、国学など多くを刊行で読んだ。宣長は出版の重要性を認識しておりとの結びつきは強い。

もともと和歌や『源氏物語』に関心のあった宣長は日来の世界観、価値観つまり(もと)を究明する為に『古事記』を研究した。宣長が大成したといわれる国学(古学)について宣長はこう述べている。

古学とは、すべて後世の説にかかわらず、何事も古書によりて、そのを考え、上代の事をつまびらかに明らむる学問なり。 『うひ山ぶみ』

宣長は歌会のメンバーを対象に定期的に古典の講釈を行っていたほかに紀州藩主にも行っており得意だったようだ。実際に人々を前にしてだけでなく。著書の中でもいろいろっている。いやりまくっている。例えば『安波礼弁』では「歌道ハアハレノ一言ヨリ外ニ余義ナシ」(歌の道は「あはれ」の一言以外に他の意味はない)とっている。

参考サイト
本居宣長記念館 
  「宣長の出版と学問
  「講釈 
 

渋沢栄一

         はじめ
  繁を築く

国立銀行設立を主導し、多数の会社の設立・運営に関与し、日本の繁の礎を築いた企業家の一人である。 

田中正造

                    な
  にあって義をした

1890年衆議院議員となる。1891年以来鉱毒問題に関して度々質問を行う。農民の鉱毒抗議の運動は先鋭化していき川俣村で警官隊と衝突する事件(川俣事件)が起こる。この事件を受けて正造は国会で演説亡國に至るを知らざれば之れ即ち亡國の儀に付質問を行った。しかし、鉱毒問題への対処が改善されないことに失望した正造は1901年に議員を辞職し、同年12月に天皇へ直訴することを試みたが捕り押さえられた。 

その後も鉱毒問題への抗議活動続け。1904年には鉱毒で度々被害を受け貯水池計画のために収用されようとしていた谷中村に移り住み抗議活動を続けた。 1907年には土地収用法が適用され農民の多くが村を出たが正造を含む16戸とともに村に残った。1913年に抗議活動に全てを捧げた正造が亡くなった時に所持品には河川調査の草稿、新約聖書、鼻紙数枚、川海苔、小石、帝国憲法、マタイ伝の合本、日記があった。

端から見ると幸せそうではありませんが、こうとしか生きようのない天命を生きて燃え尽きた人生だったのではないでしょうか。 

参考サイト
田中正造その行動と思想 

 

つづく 






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Last updated  2015.05.31 00:03:23
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おぢさん@ Re[3]:無(03/15) なんだかねさんへ (続き)昔ある人がお…
おぢさん@ Re[3]:無(03/15) なんだかねさんへ お久しぶりです。永ら…
おぢさん@ Re[1]:土器-編年(02/14) 上毛野形名さんへ 長いこと返信もせず失…
なんだかね@ Re[2]:無(03/15) おぢさんさんへ 遅ればせながら「人新世の…
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