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今回は、実際の人物を例に挙げながら人の名前について考えていきたいと思います。 本居宣長 もと ま の ちょう 三十五年をかけて『古事記伝』四十四巻を著した他に『玉勝間』『うひ山ふみ』など多数の著作がある。 本を著す知識の裏付けとなったのは豊富な読書量である。『萬葉集』『源氏物語』『日本書紀』などの日本の古典はもちろん、儒学、医学、国学など多くを刊行本で読んだ。宣長は出版の重要性を認識しており本との結びつきは強い。 もともと和歌や『源氏物語』に関心のあった宣長は日本人本来の世界観、価値観つまり本(もと)を究明する為に『古事記』を研究した。宣長が大成したといわれる国学(古学)について宣長はこう述べている。
宣長は歌会のメンバーを対象に定期的に古典の講釈を行っていたほかに紀州藩主にも行っており得意だったようだ。実際に人々を前にして宣るだけでなく。著書の中でもいろいろ宣っている。いや宣りまくっている。例えば『安波礼弁』では「歌道ハアハレノ一言ヨリ外ニ余義ナシ」(歌の道は「あはれ」の一言以外に他の意味はない)と宣っている。 渋沢栄一 はじめ 第一国立銀行設立を主導し、多数の会社の設立・運営に関与し、日本の繁栄の礎を築いた企業家の一人である。 田中正造 な 1890年衆議院議員となる。1891年以来鉱毒問題に関して度々質問を行う。農民の鉱毒抗議の運動は先鋭化していき川俣村で警官隊と衝突する事件(川俣事件)が起こる。この事件を受けて正造は国会で演説(亡國に至るを知らざれば之れ即ち亡國の儀に付質問)を行った。しかし、鉱毒問題への対処が改善されないことに失望した正造は1901年に議員を辞職し、同年12月に天皇へ直訴することを試みたが捕り押さえられた。 その後も鉱毒問題への抗議活動続け。1904年には鉱毒で度々被害を受け貯水池計画のために収用されようとしていた谷中村に移り住み抗議活動を続けた。 1907年には土地収用法が適用され農民の多くが村を出たが正造を含む16戸とともに村に残った。1913年に抗議活動に全てを捧げた正造が亡くなった時に所持品には河川調査の草稿、新約聖書、鼻紙数枚、川海苔、小石、帝国憲法、マタイ伝の合本、日記があった。 端から見ると幸せそうではありませんが、こうとしか生きようのない天命を生きて燃え尽きた人生だったのではないでしょうか。 参考サイト
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Last updated
2015.05.31 00:03:23
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