カテゴリ:歴史/考古学/毛人
前回中高瀬観音山遺跡の石鏃を分析したのだが、そもそも出土した271個という石鏃の数は多いのか。戦闘用であることを疑わせる石鏃の割合が一割程度というのは高地性集落にしては少なく見えるがどうなのか。
中高瀬観音山遺跡だけを見ていても分からないので、比較のために同じ富岡市にあり、同じ弥生後期を主とする集落である南蛇井増光寺(なんじゃいぞうこうじ)遺跡C区の石鏃を分析した。まず石鏃が使用された縄文から弥生時代において2つの遺跡がほぼ同じ規模であったことを確認する。 中高瀬観音山遺跡は約8,000㎡が調査され、縄文時代住居址6軒、弥生時代竪穴住居址99軒、掘立柱建物約10軒が確認されている[1]。一方、南蛇井増光寺遺跡C区は7,000㎡が発掘調査され、縄文時代住居祉25軒、弥生時代住居祉117軒が検出されている。 2つの遺跡の規模がほぼ同じであることを確認できたところで、南蛇井増光寺遺跡C区の石鏃を見ていこう。報告書では55個の石鏃が報告されている。それらの中からおぢさんの独断で未製の度合い、欠損の激しいものを除外した48個を分析した。欠損や未製が疑われるものがかなり多く、それらを対象外とすると分析の意味がなくなりそうなので、少々イレギュラーなデータが多くなってしまっていることを了承願いたい。 『南蛇井増光寺遺跡Ⅴ』の報告書から抜粋した南蛇井増光寺遺跡C区の石鏃のデータはこちら。 石鏃の重さがこちら。 石鏃の重さは0.5g以下が一番多く、中高瀬観音山遺跡よりも軽いものが割合的に多いようにもみえるが、欠損品によりデータが引きずられた為かもしれない。はっきりした差はない。 石鏃の長さがこちら。 長さの方は長めの物の割合が僅かに多いようだが、やはりはっきりしない。 両遺跡とも重さ2gを超えるものは稀で、長さも3cm以下が9割であり、その他の点でも目立った差はなく全体的に似通っている。 前回グラフ化した石材についてもグラフ化してみたが、今回は資料数が少なかったため大型の石鏃のグラフを別個に作成はしなかった。 全石鏃の8割が黒曜石製である点も両遺跡共通している。 石鏃の数は中高瀬観音山遺跡が南蛇井増光寺遺跡C区の約5倍ということで圧倒的に多い。中高瀬観音山が狩猟の適地で生業としての依存度が高い場合はこういう結果になるかもしれない。あるいは、矢が消耗品に近く、狩猟と戦闘の兼用であったとすれば中高瀬観音山遺跡の石鏃の数はやはり防御的性格を物語るものとなるかもしれない。長さ大きさで見た傾向としては両遺跡に大差はない。また戦闘用石鏃の目安3cmを超える石鏃の比率は中高瀬観音山遺跡3.6%、南蛇井増光寺遺跡C区4.2%で全体のごく一部であるということも両遺跡で共通している。南蛇井増光寺遺跡C区では磨製石鏃は見つかっていないが中高瀬観音山遺跡でも磨製石鏃は4個しか見つかっていない[2]。 南蛇井増光寺遺跡C区の報告書を見る限り石鏃の形は凸基有茎と凸基無茎1点ずつと平基無茎5点形状不明6点以外は全て凹基無茎である。さらに平基無茎と形状不明のほとんどは完形であれば凹基無茎であったと思われるのでほとんどが凹基無茎石鏃ということになる。中高瀬観音山遺跡の報告書では個々の鏃の形態分類はほとんど示されていない。 両遺跡の石鏃は縄文時代の石鏃を多く含んでいると考えらるが、弥生時代の人々は縄文時代の石鏃を見つけたとしたら「いいものめっけ」と再利用したのではないだろうか? [1] 中高瀬観音山遺跡の石鏃分析には発掘調査の行われた路線区のみのデータを使用した。上記の遺跡規模はその範囲のみで範囲確認調査は含んでいない。 [2] 中高瀬観音山遺跡の範囲確認調査報告書では2個の磨製石鏃が報告されている。 参考文献 富岡市教育委員会 1993『中高瀬観音山遺跡 範囲確認調査報告書』 群馬県埋蔵文化財調査事業団 1995『中高瀬観音山遺跡』 関越自動車道(上越線)地域埋蔵文化財発堀調査報告書 第32集 群馬県埋蔵文化財調査事業団 1997『南蛇井増光寺遺跡Ⅴ』 関越自動車道(上越線)地域埋蔵文化財発堀調査報告書 第44集 にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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