カテゴリ:歴史/考古学/毛人
今まで鏑川流域の鏃を追ってきた。鏃に注目したのは軍事的側面からヤマト襲来を考察したいという思いからだった。これは、これからも継続していく。
最近になって信仰・宗教の面からもヤマト襲来を考えたいと思った。当時の信仰を知るのは難しいが、信仰に関わる可能性があると思われる遺物を見ていきたい。特に基準は設けずに、信仰に関わると思ったものを取り上げていく。 今回は阿曾岡・権現堂遺跡の祭器・装身具を見ていく。阿曽岡地点では前方後方墳2基(1・2号墳)と方形周溝墓1基、さらに前方後円墳1基(3号墳)が検出されている。 以下シートに祭器・装身具をまとめた。 阿曽岡・権現堂エリア―祭器/装身具(おぢさん) 阿曽岡・権現堂遺跡の鏃について: 鏑川流域(阿曾岡・権現堂エリア)の鏃分析―①(おぢさん) 時期区分について: 鏑川上中流域弥生後期土器編年(おぢさん) 毛野の弥生後期後葉~古墳時代前期の土器編年と時代区分と並行関係(おぢさん) エリア区分について: 鏑川上中流域の弥生集落分布(おぢさん) 勾玉というと翡翠などの宝石で作られたものを思い浮かべるかもしれないが、鏑川流域の弥生から古墳前期にかけての時期によく目につくのは土製の勾玉だ。中央の勾玉は滑石製。滑石というと古墳時代中期のものという印象を持っているが、弥生時代にも使われていたのだろうか。 滑石製勾玉が出土した62号住居は11.5m×7.1mの大型住居で、他にミニチュア土器、磨製石鏃、刺突の施された紡錘車が出土しており興味深い。 左から 阿曽岡地点45号住居出土勾玉(土製、弥生後期2期) 阿曽岡地点62号住居出土勾玉(滑石製、弥生時代後期3期(4期?)) 阿曽岡地点84号住居出土勾玉(土製、弥生後期3期) 次は古墳時代前期。 左上は勾玉ではないが土製勾玉と似た目的の遺物と判断して掲載した。依然土製勾玉が多く、弥生時代後期と変わった点は特にみられない。サイズも3センチ程度のものが多い点も変わっていない。勾玉は住居跡や墳墓で単独で出土し、多数の勾玉が集中しているケースはこの遺跡では見られない。1号墳出土土製品と勾玉には赤彩痕があるという。土製では見栄えしないと思ったが他の土製勾玉も恐らく塗彩されていたのだろう。 左上:阿曽岡地点1号墳出土土製品(土製、古墳前期前半?) 右上:阿曽岡地点1号墳出土勾玉(土製、古墳前期前半) 左下:阿曽岡地点2号墳出土勾玉(滑石製、古墳前期後半) 右下:権現堂地点141号住居出土勾玉(土製、古墳前期前半) 弥生時代のミニチュア土器。62号住居と92号住居からミニチュア土器が2点づつ出土している。 3:阿曽岡地点62号住居出土ミニチュア土器 甕(弥生後期3期(4期)) 4:阿曽岡地点62号住居出土ミニチュア土器 鉢(弥生後期3期(4期)) 古墳時代のミニチュア土器は同じ方形周溝墓から3点が出土している。勾玉と違って集中する傾向があるようだ。 3:阿曽岡地点方形周溝墓出土ミニチュア土器 器台(古墳前期後半) 4:阿曽岡地点方形周溝墓出土ミニチュア土器 高坏(古墳前期後半) 5:阿曽岡地点方形周溝墓出土ミニチュア土器 甕(古墳前期後半) 権現堂地点の古墳時代後期住居Ⅱ区134号住居の埋土から石釧が出土している。報告書では阿曽岡地点の方形周溝墓の副葬品が何らかの原因で紛れ込んだものと推定している。そうであるとすれば古墳時代前期のものとなる。 報告書では2号墳と方形周溝墓が古く、その後1号墳が築造されたと推測[1]しているが、おぢさんとしてはこの順番には疑問を持っている。理由としては、1号墳の多くの土器にハケが多用されているのに対して、2号墳と方形周溝墓の土器にはハケは見られず、むしろヘラ削りが多用される傾向にある。1号墳からは北陸系の甕が2点出土しているが、北陸系が顕著にみられるのは成塚向山の1期[2]であり、おぢさんの年代観では弥生後期末の樽式4期となる。一方、成塚向山の3期を中心に盛行する二重口縁壺が2号墳では主体的な器種となり4点出土しているのに対して、1号墳では1点のみの出土となっている。以上の理由から1号墳が2号墳と方形周溝墓に先行すると考える。しかし、成塚向山は太田地域ということで隔たりもあるのでそのまま適用できるのかは分からない。いずれにしても、鏑川上中流域の弥生後期末(樽式4期)から古墳前期後半までの土器はもう一度見直したい。 [1] p.245 富岡市教育員会『東八木遺跡、阿曽岡・権現堂遺跡』 [2] p.460 深澤敦仁「太田地域における古墳時代前期の土器編年試案」『成塚向山古墳群』群埋文 にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2018.01.08 08:45:22
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