テーマ:戦争反対(1185)
カテゴリ:平和
8月6日、広島原爆忌
仕事しながら、気持ちの中で黙祷した。 夜のニュース。 アメリカの駐日大使が、式典後、献花もしないで帰ったという報道と、それに対する諸々の意見が放映されていた。 謝罪をするべきだ。 参加したことで前進があった。云々 原爆を落とすことにより100万の米国の若者の命を救った。原爆は必要だった。 たった一人だけの米国の若者の命を救っただけでも良かった。戦争を始めたのは日本なのだから。 謝罪などすべきでなく、ホッとした。云々 という従来からの意見の他に、 原爆投下は必要だったという意見が米国では「60パーセント」にまで減ってきた。 その理由は、同時多発テロで、テロリストが核を使って米国を攻撃するかもしれないという不安が9・11以後増加して、核の怖さを見直す人達が増えた。 のだそうだ。 うーん、自分の身に降り懸かるからか…とも思いつつ、でも核の恐怖を知る人達が増えたことは良かったのではないか。 自分の身に受けた壮絶な後遺症を、自らたくさんの目に曝して、訴えた被爆者の方々の力は大きかったろう。 戦争のあらゆる面で、自らの口で語ることのできる証言者の存在はものすごく大きい。 本で読むよりも、映像を見るよりも、ご本人の口から直にお聞きするその事実に、心が震えることが何度もあった。 けれど、その存在は、残念なことに間もなく消えざるを得ない。 今後は戦争を語るのは「ヒトからモノへ」の時代に入ると言われているが、 「モノ」が直接語るわけにはいかず、それはあくまでも「ヒト」の口を借りて「モノ」が語るのだ。 その「ヒト」の立ち位置によって、「モノ」の訴えは180度違ってしまうことも多々ある。 私の関わっている松代大本営地下壕群でも、今、種々な動きが姿を現わしつつあり… この件については、しばらく後に。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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