海に咲く花(五) 9
葉は、本当に昆布のように長めで、ぬるっとしていて、縁はひらひらとフリルのようだ。全体が茶色で、波に沈むと深緑色になり、浮かんできた瞬間は、オリーブ色だった。花は、二枚の葉の上で守られるように、咲いている。二枚の葉はまるで父さんと母さんみたいで、花は大切な子どものようだった。ぼくはそれを見て、気持ちが、ふうっと緩んだ。何だかとても、嬉しくなっていた。花がとても、幸せそうに映ったからだ。 ぼくは、ふとイケの様子が気になった。さっきまで、あんなに大きな声ではしゃいでいたのに今は静か過ぎる。イケが、目を赤くしていた!ぼくは、はっとした。ぼくは、イケの気持ちが分かったような気がした。あのイケの目は、海水で赤くなったのではないって。「イケ、唇、紫になってるよ。(陸に)あがってから、見ようよ。風邪ひいちゃうよ」「やだよ。寒くなんか、ないって」「寒くなくたって、紫だよ。それなら、ぼくは?ぼくも、紫になってるハズだよ」「なってないって。お前は、先にあがりな。オレは、まだあがらない。オレさ。オレ、マジ、この花、ノジにも見せたかった!ノジさ、ずうーっと悔しかったと思うよ。でもな、転校してよかったんだ。もう、いじめられてないと、思うしよ。オレ。ノジの分までしっかり見ておくからよ。今度、いつかノジに会えたらよ。この、花の話、してやりたいからよ。あいつ、この話しても、信じてくれるかどうか、分からないけど、よ。オレだって、最初信じなかったし、な」 ぼくも、イケのその言葉で、野島さんに見せてあげたいと思った。野島さんは、どうしているのだろう。転校してからは、うまくいってるのだろうか。笑っていた頃の野島さんを思い出した。心の隅っこに、微かに揺れるような痛みを感じた。「きっと、野島さん、信じてくれるよ!」「お前、そう思うか。でもよ、オレが言ったって信じてくれないぜ。お前なら、別かもしれないけどよ」「別?そんなこと、ないよッ」「お前、ノジのこと、好きなんだろ?はっきりしろよ!」「はっきりしろったって、よく、分からないよ。何で、はっきりする必要があるんだよ!」「必要?必要があるから、訊いてんだよ。お前も分からねぇ奴だよな。でも、まいっか。オレは、ノジのこと、好きだ。誰が何て言ったって、ノジのこと好きだァ!」 イケはそう叫んだ。その声は、波にさらわれて消えて行った。その想いは、やがてイケの胸の奥に、大切にしまい込まれていったようだった。(イケはその後ずっと、野島さんの話をしなくなったのだ。)ぼくは、人の気持ちの深さと切なさを、思った。 海に咲く二つの花は、白く輝きながら、ぼくたちの側で波に揺られていた。また旅立って、もう会えなくなっても、生涯の友だちだよと言ってるみたいに。ぼくは、もう何も言えなかった。イケも無言だった。ぼくとイケは、これからずうーっと、生涯の友だちだとぼくは思った。たとえ、何があっても!ぼくは、そう決めて前へ進むことを、伝説の花に教えてもらったと思った。ぼくたちは、掛け替えのない友だちなのだ。「ぼくたち、マジ、凄いことに遭遇してるよね?誰も見てないことに、出会えてる。何だか、これから、どんなことがあっても負けないでいられそうな気がする。頑張れそうな気がするよ!」「うん、そうだな。お前、たまには、いいこと言うじゃんか」「たまにじゃ、ないよ。ぼく、いつだって言ってるじゃん。イケが気がつかないだけだよ」「あはは、あはは。ところでよ、寒いよー、母ちゃーん」「ぼくも、寒いよー。母ちゃーん」 ぼくもイケも、あがると、くしゃみの連続だった。むしろ、海の中の方があったかかった。「こんな濡鼠で、(二人で)歩いていたら、怪しい奴と思われるよ。ヤバイよね?ぼく、片っぽの靴もないしさ」「そんじゃ、近道するか?誰にも見られないぜ。ただしィー。山あり谷ありーィ」「いいよ。山あり谷ありだって。急いで、帰ろう!」「ルイ、行ッくぞォー!」「おッうー」 何処を通っているのか、分からなかった。イケの言ったように、本当に山あり谷ありだった。ぼくはもう、何も言う元気がなくなっていたから、ただ、ただ登ったり下りたりした。 時々、イケが何かを言ったけれど、聞き返す力が残っていなかった。うん、うん、ぼくはそれしか言えなかった。 どうやって家に辿り着いたのか、ぼくは覚えていない。 牧野先生が、ぼくの家に来ていて、何か叫んだみたいだった。 イケが、がっくりとヒザをついて、倒れこんだみたいだった。 ぼくは、それからどうしたのか、何も覚えていない。 つづく