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カテゴリ:・古典
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【blog記事】疑いは心を狂わす/列子 ある人が鉞(まさかり)を無くした。どうやら隣人の息子が怪しいようだ。その息子を観察していると、歩き方や表情に、言っている事やっている事など、一つ一つの動きが怪しく見え、こいつが鉞を盗んだのではないかと疑った。 後日、谷で作業をしていたら、無くなっていた鉞が出てきた。 鉞が見つかってからも隣人の息子の様子を観察していたが、一つ一つの動きに怪しい所など無く、とても盗みを働いたようには見えなかった。 ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■ …数年前に、blogの題材にした古典『列子』の話。俺が好きな寓話だ。人は、疑い始めると、自分本意でしか物事を考えられなくなる。視野が狭まるのだ。だから、一方的に感情的に疑ってしまうと、事実からかけ離れた、ありもしない妄想に駆られてしまうのだ。これは、日常でもよく見られる光景だ。自分だけの視野・思考に囚われてしまうと、ありもしない妄想に苦しめられ、勝手に悩み続けていく。物事は捉え方しだいで大きく変わるが、それに気付いている人は、案外すくない。もっとポジティブに、都合の良いように捉えればいいのに。それが出来ない人が多いな。そこで、物事を見定める方法として、論語にある『視・観・察』の考えを紹介したい↓。 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【blog記事】視・観・察で見抜く/論語 其の以(もっ)てする所を視、 其の由(よ)る所を観、 其の安んずる所を察す 「実際に起きた事を視て、何故そうなったか観て、 そこからどうすれば宜しいかを察する」 「そうやって人や物事を見ていく事によって『人焉んぞ隠さんや』つまり、隠れる事なく見抜く事が出来る」 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ …要は「現在を視たら、なぜそうなったか過去を観て、今後どうしたら良いか察する」のが、物事を知るのに必要だということだ。『現在、過去、未来』の順に見て考えていく、ということだ。 もちろん、これは言葉でいうほど簡単なことではない。だが、これを意識して行うことで、相手を理解し、相手を正しい方向へ導けるかもしれない。ただ、その"視観察"を行う人にも、その人なりの都合がある。その人は、その人の都合が良い方向に進むことを望んでいる。自分と相手で方向性がどう異なるか。それを見抜くことも大事なのだろう。相手の望みが、自分にとっては都合が良くないことかもしれない。自分にとって都合が良いことが、相手は望んでいないかもしれない。自分の都合と相手の望み、その合致はなかなかに大変だ。それでも、もし簡単に離散ができない状況であるなら、一旦は双方の"妥協点"を見出だすことが必要だろう。 もし、自分が"疑心暗鬼"に陥っているなと思ったなら、一旦は『視観察』のスリーステップで状況を見極めよう。そして、お互いに妥協点はあるか、見定めよう。だが、無理する必要はない。無理に相手に合わせる必要はない。選択肢は無限大にあるんだ。逃げ出したっていい。相手がどう出るかなんて関係ない。他人をコントロールするより、自分自身をコントロールする方が、明らかに簡単だ。捉え方。それが大切だ。捉え方しだいで、物事の見え方は大きく変わる。感情的ではなく、冷静に、客観的に、そして望みは何か?それさえ見抜けば、"人焉んぞ隠さんや"だ。見抜いた上で、手を打つんだ。 P.S.参考にした過去の記事2つ 【列子】蟠りや疑心暗鬼 ~情報や洞察~ 中国の思想(6) 老子・列子(改訂版)【電子書籍】[ 松枝茂夫 ] 【論語】視・観・察 ~事実/原因/要求を見抜く~ 中国の思想(9) 論語(改訂版)【電子書籍】[ 松枝茂夫 ] お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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