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カテゴリ:源氏物語つれづれ
源氏物語の現代語訳をはじめたのが2009年の末だったが、 10年近くになってやっと宇治十帖に入った。我ながら感慨深い。 匂宮、紅梅、竹河の三巻は、光源氏亡き後の子や孫のお話である。 紅梅の巻は髭黒の娘・真木柱の後妻としての悩みが、 竹河は髭黒の北の方・玉鬘の気苦労が描かれる。 「夫が生きていれば、こんな扱いは受けなかったのに」という嘆きだ。 それが切実なだけに可哀そうだった。 宇治十帖の橋姫に入ると薫を中心として違った方向に物語が動いていくのだが、 さりげなくこんな文章が出てくるのは興味深い。 ~~~~~~~~~~ あやしき舟どもに 柴刈り積み、 おのおの何となき世のいとなみどもに 行きかふさまどもの はかなき水の上に浮かびたる、 『たれも、思へばおなじごとなる 世の常なさなり。 われは浮かばず、玉のうてなに静けき身と思ふべき世かは』と、思ひ続けらる。 ★ 粗末な舟に刈った柴を積みなどして、 それぞれの暮らし向きのために宇治川を行き来している様子が、 頼りない水の上に浮かんでいます。 『考えてみれば、誰でも人はみなあの舟と同じように 無常な人生を生きているのだ。 自分だけは不安がなくて、 玉の御殿に安穏とした身で生きているといえるだろうか』 と思い続けられます。 ~~~~~~~~~~ このあたりの心理描写はなかなか鋭く、読む者の胸を打つ。 宇治十帖は作者が夫・藤原宣孝の死後に書かれたといわれる所以だろう。 源氏物語は古典の官能小説だと評する人は、
こういった場面を読んでいないのだと思う。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
April 8, 2019 10:03:58 PM
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