「できない」という傲慢さ
「できる!」と思えるときは気が満ちているんです。やっぱりね、「できる!」と思えるときはなんだかうまいことできますね。この「できる!」という感覚は大事で、しかも「!」は外せない。「できる。」じゃなくて「できる!」という感じなんです。「いける気がする」も「できる!」の仲間です。ここでも「気」と言っていますね。ぼくは「できない」というのはとても傲慢な考え方だと思うんですね。どれだけ自分をみくびっているんだと。どれだけ先祖・両親・祖父母をバカにしているんだと。「できない」なんてカンタンにいう人は、どうも世の中を甘く見ている気がする。なぜ分かった気になってしまうのか。「できない」などと、誰が決めたのか。なぜやってもいないのに、はじめるまえから「できない」と言うのか。「やらない」「やりたくない」なら分かるんですよ。人間、嫌いなことや苦手なことはありますから。けれども「できない」とは何事かと、ぼくは思うんです。ただ、気の質を「できない」から「できる!」に変えればいいだけの話です。それができないから苦労しているんだと反論する人もあるかもしれませんが、「できない」を「できる」に変えるのは、ものすごくカンタンなことなんです。それは「できない」を分割することです。乗り越えられそうもない壁があったら、階段を作って、一歩一歩上っていけばいいだけなんです。大きな「できない」は小さな「できる」の集まりなんです。たとえばいきなり「ビーフストロガノフを作れ」と言われたらぼくはできませんが、たぶんレシピを見ながら、ひとつひとつこなしていけば、まぁ、味は別にしてそれなりに完成するでしょう。けれども「ビーフストロガノフをつくれ」と言われたときに、思考したり検討したりする前から、「できません」と言ってしまう人もいるんですね。「○○で××ならできそうですが、□□で△△だとできません」という言い方なら分かるんです。それを「できません」と言ってしまうのはまさに傲慢なんですね。それなら「作りたくありません」のほうがマシです。「作りたくない」のは個人の感情だから、それはそれで仕方がないのです。「できるかできないか」というのは、とても小さな考え方だとぼくは思います。それよりも「やるかやらないか」「やりたいかやりたくないか」を考えたほうが、よっぽど生産的だ。「できるかできないか」なんて、カミサマにすら分かりませんよ。ぼくがカミサマで、誰かが「ぼくはできるでしょうか?」なんて聞かれたら、「知らんがな。まずはやってみてよ」と答えてしまいますね。「できない」ことが多い人というのは視点の切り替えがたぶん下手なのですね。ズームインとかズームアウトができない。「できない」と思うものもズームアウトしていくと、「できること」の集合なんです。最終的に「やれることをやるしかない」のです。人間の一歩はいつだって一歩です。同時に二歩を踏み出すことはできない。朝ごはんと同時に、昼ごはんを食べることはできない。「大きなことができる人」は「小さなことを積み重ねた人」です。だからこそ、「いま、できること」が大事なんです。目の前には「いま、できること」がたくさん転がっています。それをやるかやらないかは、あなた次第です。