函館の旅 3日目-8、日本100名城の五稜郭から四稜郭へ
五稜郭タワーから日本100名城に認定されている五稜郭を散策。10月20日(火) 14:40特別史跡 五稜郭同時期に築城された長野県佐久市の龍岡城も稜堡式城郭で「五稜郭」と呼ばれ、続日本100名城に認定されており、今年の9月14日(月)に登城した。五稜郭入口に立つ説明板特別史跡五稜郭跡 配置図。五稜郭の春は桜とともにやってくる。大正時代から植えられたソメイヨシノなど約1,600本が咲き乱れる。また、秋には紅葉が広がる特別史跡五稜郭跡:昭和27年3月29日指定五稜郭跡は、幕末の箱館開港に伴い設置された箱館奉行所の防御施設で、箱館奉行配下の諸術調所教授役で蘭学者の武田斐三郎成章により、中世ヨーロッパで発達した城塞都市を参考に設計された西洋式土塁です。稜堡とよばれる5つの突角が星形の五角形状に土塁がめぐっていることから五稜郭と呼ばれ、郭内には日本伝統建築の箱館奉行所庁舎とその付属建物20数棟が建てられました。安政4年に築造を開始して7年後の元治元年に竣工、同年6月に奉行所が移転して蝦夷地における政治的中心地となりました。その後、明治維新により明治新政府の役所となりましたが、明治元年10月に榎本武揚率いる旧幕府脱走軍が占拠、翌明治2年5月に終結する箱館戦争の舞台となりました。箱館戦争後は、明治4年に開拓使により郭内建物のほとんどが解体され、大正時代以降は公園として開放されています。五稜郭跡は、築造時の形態がよく残っていて日本城郭史上重要であるとともに、幕末期の洋学採用の一端を示すものとして学術上きわめて価値が高いことから、北海道で唯一の国の特別史跡に指定されています箱館戦争と特別史跡五稜郭跡江戸湾から軍艦8隻と共に脱走した榎本武揚率いる旧幕府脱走軍が箱館に入り、五稜郭を占拠したのは、明治元年(1868)10月。新政府軍との戦いに敗れ、降伏したのはわずか7ヶ月後のことだった。五稜郭は新政府軍に明け渡され、戊辰戦争最後の戦いとなった箱館戦争の終結とともに、長い間続いた封建制度がここで終わりを告げ、日本の新しい時代が始まった。特別史跡五稜郭跡(五稜郭公園) 函館奉行が蝦夷地(北海道)を統治するために、役所を新築する敷地として整備した・・・。榎本武揚 天保7年~明治41年(1836~1908年)。 江戸生れ。オランダ留学後、幕府海軍副総裁。明治元年(1868)旧幕府軍脱走軍を率いて品 川沖を出発し、五稜郭を占領した。土方歳三 天保6年~明治2年(1835~1869年)。 武蔵国(東京都)生れ。近藤勇らとともに新選組を結成。仙台で榎本等と合流し、旧幕府脱走 軍では陸軍奉行並となる。明治2年(1869)5月11日箱館の一本関門(現若松町)付近で戦死。箱館奉行所 当初、箱館奉行所は函館山山麓にあったが、開港後、内陸の亀田(現五稜郭町)に五稜郭を築 き奉行所を移転させた。写真は慶応年間(1865~1868)のもの。一の橋の手前に立つ「特別史跡 五稜郭跡」の石柱左には、箱館奉行所(有料)の看板。 4月~10月:開館 9:00 ~ 閉館 18:00 11月~3月:開館 9:00 ~ 閉館 17:00五稜郭のお濠の周りは春は桜とともにやってくる。大正時代から植えられたソメイヨシノなど約1,600本が咲き乱れる。また、秋には紅葉が広がる正面入口の二の橋今年は紅葉には少し早かったが一の橋を渡ると二の橋の手前にある「半月堡(はんげつほ)」半月堡は、西洋式土塁に特徴的な三角形状の出塁で、馬出塁ともいいます。郭内への出入口を防御するために設置されています。当初の設計では各稜堡間の5か所に配置する予定でしたが、工事規模の縮小などから、実際には正面の1か所だけに造られました。北側中央部の土坂が開口部となっているほかは、刎ね出しのある石垣で囲まれています。※ 刎ね出し:武者返し・忍び返しともよばれ、上から2段目の石が迫り出して積まれているため、 外部からの侵入を防ぐ構造になっています二の橋から「見隠塁」へ二の橋の上から、南西の方向の土塁。低塁、本塁(高い土塁)本塁石垣正面の出入口となる南西側の本塁石垣は、他の場所の石垣よりも高く築かれていて、上部には「刎ね出し」とよばれる防御のための迫り出しがある土塁・石垣五稜郭の土塁は、掘割からの揚げ土を積んだもので、土を層状に突き固める版築という工法で造られています。郭内への出入口となる3か所の本塁は、一部が石垣造りとなっています。特に正面の出入口となる南西側の本塁石垣は、他の場所の石垣よりも高く築かれていて、上部には「刎ね出し」とよばれる防御のための迫り出しがあります。石垣には函館山麓の立待岬から切り出した安山岩や五稜郭北方の山の石が使われています。※ 刎ね出し:武者返し・忍び返しともよばれ、上から2段目の石が迫り出して積まれているため、 外部からの侵入を防ぐ構造になっています本塁石垣の構造本塁石垣は裏込めの奥に土留めの石垣を据えた二重構造になっています門番所跡(もんばんしょあと)郭内への出入口となる3か所の本塁には門が設置され、その内側には門番所があった事が古文書に記されています。発掘調査により正面入口となる南西側の本塁の間で、古文書の記録と同じ規模の建物跡が発見されました。6畳と5畳半の2部屋と土間・縁側の間取りで、外には便所があったようです門番所跡を入り振り返る。フジの古木が生えていたがいつの時代のものか?五稜郭内に建つ『武田斐三郎先生 顕彰碑』五稜郭築城設計及び監督箱館奉行支配諸術調所教授役『武田斐三郎先生 顕彰碑』五稜郭は我が国はじめての洋式築城で安政4年着工、7年の歳月を費して元治元年(1864)に竣工した。のち旧幕府脱走軍がこの城に拠り箱館戦争の本城となった。築城100年記念に当ってこの碑を建てた。 昭和39年(1964)7月18日 函館市 箱館奉行所所在地:北海道函館市五稜郭町44-3当初、箱館奉行所は函館山山麓にあったが、開港後、内陸の亀田(現五稜郭町)に五稜郭を築き奉行所を移転させた。箱館戦争終結の2年後、明治4年に開拓使により郭内建物のほとんどが解体された。その後の約140年後、4年の歳月をかけて、材料を吟味、最高の技術を駆使して往時の建築を忠実に再現、平成22年(2010)に完成した五稜郭内には小土塁箱館戦争時の大砲か?五稜郭ゆかりの人■ 武田 斐三郎:箱館奉行支配諸術調所教授役■ 清水谷 公考:箱館裁判所総督 箱館府知事■ 杉浦 兵庫頭誠:最後の箱館奉行五稜郭ゆかりの人■ 松平 太郎:蝦夷地仮政権副総裁■ ジュール・ブリュネ:フランス軍士官隊隊長■ 中川 嘉兵衛:「函館氷」の創始者■ 榎本 武揚:蝦夷地仮政権総裁■ 永井 玄蕃:蝦夷共和国の箱館奉行南の方向に五稜郭タワーを見上げる展望台高さは98m(全高)で、展望1階は86m、展望2階は90m、収容人数は約500名箱館奉行所の前には、観光客。箱館奉行所は幕末の開港地箱館に置かれた江戸幕府の役所です。箱館戦争後、解体されましたが、発掘調査や古写真、絵図面、文献資料などを詳細に分析し、可能な限り当時と同じ材料、工法を用い、4年の歳月をかけて平成22年(2010)に復元されました箱館奉行所も入場制限中。館内は、再現ゾーン、歴史発見ゾーン、映像シアター、建築復元ゾーンに分かれ、当時の雰囲気を味わえるとともに、関係する歴史や復元した木造古建築の特徴など、様々な工夫をして紹介しています箱館奉行所の北側から。建物の手前には、地面に部屋割を区画した遺構平面表示により奉行所建物の範囲を表示している箱館奉行所(遺構平面表示)箱館奉行所は、公務を執る役所部分と奥向とよばれる奉行の役宅部分に分かれていて、その総面積は約3,000㎡となっています。このうちの約3分の1の範囲(約1,000㎡)は建物を復元し、残りの約2,000㎡分は地面に部屋割を区画した遺構平面表示により奉行所建物の範囲を表示しました。いずれも発掘調査によって発見された柱の礎石などの建物遺構の真上に復元しています。役所部分は、玄関・大広間などの儀式の部屋、裁判などを行う部屋、奉行とその部下の仕事部屋、炊事部屋などが、奥向には奉行とその家族が住むための部屋などがありました。また、奉行所を囲む板塀や木柵、井戸などの遺構の位置も表示しています本塁の上に立ち五稜郭タワーを望む振り返り本塁の上から箱館奉行所を望む修学旅行生が多く訪れていたHAKODATE おすいマンホール蓋デザインは、旧函館区公会堂15:17約45分の五稜郭散策の後、駐車場近くのレストランで昼食をとる。今回初めて、いくら丼を食した \980 15:30 五稜郭駐車場(一時間)を出て次の香雪園をカーナビでセット。見晴公園、国指定名勝「旧岩船氏庭園(香雪園)」所在地:北海道函館市見晴町56香雪園は元は地元の有力者の庭園で、函館市に寄贈され無料で解放されている。平成13年に文化財保護法に基づく「名勝」の指定を受け、「旧岩船氏庭園(香雪園)」の名で北海道唯一の国指定文化財庭園となっている。到着したが、紅葉にはまだ早いようでスルー。以下四枚の写真は、前回訪れた時の写真です(2016年10月29日撮影)園内の面積は 46.1ha あり、野球グラウンドもある園内には、茶室風の園亭、渓流や煉瓦造の温室など多様な意匠からなる庭園空間が広がっている4年前は紅葉が綺麗であった!15:39香雪園をスルーした後、近くにある四稜郭をセットして移動。今まで函館では五稜郭は知っていたが、「四稜郭」は・・・・・・・・・15:47史跡 四稜郭所在地:北海道函館市陣川町59施設は、駐車場(無料)、トイレ、四阿(あずまや)、水飲み場ここにも、函館ゆかりの人大島 圭介(おおとりけいすけ):陸軍奉行 1832~1911年陸軍奉行 大鳥圭介天保3年(1832)、現在の兵庫県播磨国赤穂郡赤松村生まれ。大阪の緒方洪庵の適塾で医学と語学を学び、江戸の坪井塾で塾頭となり西洋学を習得、江川塾に招かれて兵学教授を勤めた。安政5年(1858)に尼崎藩に出仕、その後安政6年に藩書調所へ出仕した。文久元年(1861)に御鉄炮方附蘭書兵書取調出役、開成所教授を兼務。元治2年(1865)に陸軍所へ出仕、富士見御宝蔵番格を歴任し、慶応3年(1867)に伝習隊創設に参加、歩兵隊長となった。戊辰戦争では、旧幕府軍伝習隊を率いて北関東・会津を転戦し、仙台で榎本武揚率いる旧幕府海軍と合流して蝦夷地へ渡った。明治元年(1868)12月3日(旧10月20日)に蝦夷地に上陸後、大島圭介隊は大野・七重の戦闘に勝利し、箱館に進行して12月9日(旧10月26日)に五稜郭を占拠した。蝦夷地平定後に仮政権の陸軍奉行に就任し、五稜郭の軍事的強化の指導にあたった。翌年6月20日(旧5月11日)の新政府軍箱館総攻撃時に、七重浜での戦闘を指揮するも敗北し、五稜郭で降伏した。東京で投獄、明治5年(1872)に釈放され北海道開拓使に出仕後、工部大学校校長、元老院議官、学習院院長兼華族女学校校長、駐清国特命全権公使、枢密顧問官などを歴任した。明治44年(1911)に78歳で没した史跡四稜郭の保存について旧幕府脱走軍の降伏という形で箱館戦争が終結した後、四稜郭はかなり荒廃がすすんでいました。しかし、昭和9年に史跡に指定されて以来、地元の人たちをはじめ、市民の手厚い保護を受けて、今日までその原形を保つことができました。函館市では、この史跡保存に万全を期すため、昭和44年度から47年度にかけて、国・道の補助を受け、土塁の修復等の環境整備工事を実施したところですが、さらに平成2年度において、あずまや等の施設を設置し、この史跡を歴史学習や市民の憩いの場として、広く利用していただけるよう整備いたしました。この貴重な国民的財産である史跡を私たちの手で保存し、後世に伝え残していくために、次のことを守ってください。 一、土塁等に登らないこと。 一、木の枝を折ったり、芝生をいためたりしないこと。 一、自転車、バイク、自動車等を乗り入れないこと。 一、火気を使用しないこと。 一、ゴミは捨てないで持ちかえること。 函館市教育委員会史跡 四稜郭 の説明板史跡 四稜郭 昭和9年1月22日史跡指定明治2年(1869)春、五稜郭にたてこもる旧幕府脱走軍は新政府軍の攻撃に備えて各地に防御陣地を築いたが、五稜郭の背後を固めるため、その北方約3キロの緩斜面台地にも、洋式の台場を急造した。これが四稜郭である。四稜郭は、蝶が羽を広げたような形の稜堡で、周囲に土塁と空壕を巡らし郭内(面積約2,300㎡)には、四隅に砲座を設けたが、建物は造らなかった。なお、地元の言い伝えによると、旧幕府脱走軍は士卒約200名と付近の村民(赤川・神山・鍛冶村)約100名を動員して、昼夜兼行で数日のうちにこの四稜郭を完成させたといわれている。明治2年5月11日、新政府軍は箱館総攻撃を開始した。同日未明、新政府軍の岡山藩・徳山藩の藩兵は赤川村を出発し、四稜郭の攻撃を開始した。松岡四郎次郎率いる旧幕府脱走軍は四稜郭の防御に努めたが、新政府軍には福山藩兵も加わり、さらに長州藩兵が四稜郭と五稜郭の間に位置する権現台場を占領したため、退路を断たれることを恐れた旧幕府脱走軍は五稜郭へと敗走した。5月18日には、五稜郭が開城され、榎本武揚以下が降伏して箱館戦争は終わった史跡 四稜郭土塁の開口部を抜け郭内へ入る土塁に登り郭内を望む。四稜郭は、蝶が羽を広げたような形の堡塁で、東西約100m、南北約70mの範囲に、幅5.4m高さ約3mの土塁が巡り、その周囲には幅2.7m 深さ0.9mの空濠が掘られている。郭内の面積は約2,300㎡東西方向南北方向四隅には砲座が配置されている15:55四稜郭内は雑草も刈り取られ整備されていた。約10分の散策で四稜郭を後にした - 続く -