みなさま私よりご高齢。
その他などと一括りにして申しわけございませんが
こちらも
寄る年波で
記憶の引き出しが
あまりにありすぎて
どこにどんな引き出しがあるのか
それすら検索かけられなくて
一度開けば
引き出しの中は
カラフルな宝石の山々
記憶はすぐに甦って参りますので
ここまで5人様のご発言
書けました。
それぞれ
強烈な印象でした。
今でも
その場の光景、背景が目に浮かびます。
引き出しですらどこにあるか不明ですから
海外で戦争を語られた方々のご発言
まだまだしまわれてるのかもしれないのですが、
今はここまで。
短編にもならないような
断片的な
戦争関連発言を
まとめて記しておきます。
ご存命なら百歳前後の方
ノルマンディー上陸作戦に
一兵卒として参加したこと
夜明け前、足元で水飛沫
銃を構えて
死に物狂い前に進む
周りで戦友が倒れて行く。
この後、しばらく黙して語らず。
New Yorkに戻ってきて、
凱旋パレードに出て
誇らしかった
で
終わった話でした。
「ノルマンディーが日本だったなら
日本人のあなたには語らなかった」って。
「あら、あなた日本人なの?
素敵な日本人がいらしたのよ、
お名前忘れたけれど、
戦争中に私の同胞をたくさん逃してくれたの、ビザ出して」
話された当時、
私は存じませんでした。
杉浦千畝さんのことでした。
とても喜んでいらした。
ご存命なら、現在80歳前後でしょうか。
彼女が直接体験したことではなくとも
ユダヤ人コミュニティーでは
よく知られ語り継がれていたようです。
似たような話で
戦争中?戦争前?
ユダヤ人ではなくて
トルコから逃げる途中で
日本に寄港できたことを
日本が寄港を認めてくれたからと、
喜んで語るトルコの方々がいらっしゃいました。
ご存命なら110歳前後のご夫婦。
そのご当人にもお目にかかりましたが
私が直接知っていたのは、そのご夫婦の末子。
「日本のお陰で
私たちは子孫共々生き延びられた」って。
枢軸国側でも連合国側でもなかった
中立というか曖昧国の観光地で
偶然
当時60歳代のドイツ人と
当時40歳代のイタリア人と
当時20代の私が出会って
お二人が
「日独伊三国同盟だ」って
「いつの話?
私、生まれてもいなかった」
と私が混ぜ返したのですが、
お二人は
黙り込んで、
遠くの大西洋を眺めていましたっけ。
杉浦千畝さんに感謝してらした方に出会った
同じ国で
「日本ってどこにあるんだ? アフリカか?」
と言われました。
ユダヤ人で、ドイツから逃げてらした老夫婦。
ご存命なら120歳代。
「ドイツは嫌いだ、日本はドイツの仲間だった」
とおっしゃっりながら。
日本は戦争の時にひどいことしたけれど
私はひどいことされていないし
日本人は嫌いだけど
この国の人はキムチを買ってくれないけれど
あなた(私のこと)は
私のキムチを買ってくれるいい日本人だ
っておっしゃってた
街角の無愛想なオモニ。
私はその国でキムチを知ったのでした。
今、魚醤の韓国産キムチが苦手ですから
あの頃はまっていた彼女手作りのキムチは
魚醤は使っていなかった、のかなぁ。
大日本帝国海軍少佐だった方
商社員
敗戦後、外国の港沖で係留されたまま
でも、寝食には不自由なく
二ヶ月間、軍艦上で待機させられた
退屈だったけれど楽だった、そうです。
軍歌は反戦歌
一緒にたくさん歌いました。
アカペラで、寮歌も。
苦笑いする奥様の横で。
ご存命なら百歳超えられてる。
ノルマンディーの方と
この方、
お二方とも
語り初めは明るく
でも
途中で黙り込んで遠くを見つめてらした。
以上でございます。
まだまだ
あるのでしょう。
けれど
引き出しのありかがわからなくて。
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Last updated
Aug 27, 2021 04:40:05 PM
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