大宰府政庁跡
大宰府政庁跡7世紀後半から12世紀、大宰府は行政機関として九州を統括し、西に都として役割を果たした日本の外交と防衛の最前線、貿易の窓口として機能した。建物は残っていないが、礎石を見ることができる大宰府天満宮は観光客でにぎわっているが拠点である政庁跡に来る観光客はほぼいない案内板はわかりやすく説明日本は平城京の時代国としての体制が整ったばかりの日本大国「唐」との親交を深め唐の政治や経済など国造りを学び取り入れた。海外からの疫病対策の検疫機能もあったのでは古代山城や土塁で4方面から大宰府を守った山城も大陸の技術によって築かれた大宰府の花「梅」南門の復元図1300年前の建造物とは思えないほど巨大中華風の建物、沖縄の首里城にも似ているサッカー場3個分ぐらいの敷地建物もなく芝生なので子供連に人気のお遊びスポット日本遺産記念碑の後方には大野城(山城)かつて建物があった場所には礎石が残っている山城が築かれた大野城西の都「大宰府」を背後から守った大野城山頂から大宰府方面の眺め古代の官道は大宰府を中心に広がった官道沿いに建てられた古代山城大宰府を守る防衛基地山城には兵士の宿舎、食料の備蓄倉庫などが見つかっている「白村江の戦い」に負けた倭国(日本)古代山城は「唐」や「新羅」からの防衛の為に造られたとされる日本初の対外戦争(日中戦争)国力の差は明らかだったのになぜ戦ったか?西の都「大宰府」は「小水城」「大野城」「基肄城」「阿志岐城」の4つの山城と堀と土塁で守られた「水城」により守りを固めた博多湾に上陸後に大宰府に向かうルートは2つ必ず「水城」の「東門」か「西門」をけ通らなければ大宰府に入れなかった水城に向かいます