ジョン万次郎(中濱万次郎)のお墓
今回東京訪問の目的の一つに以前から行きたかったジョン万次郎さんのお墓参りに行ってきました。有名人が多く眠る雑司が谷霊園にありますジョン万次郎(1827年~1898年・明治31年)高知の土佐清水生まれの漁師14歳の時初めての漁で遭難し無人島(鳥島)に漂着アメリカの捕鯨船に救出されハワイ経由でアメリカ本土に日本人として初めて渡る。救出された船のホイットフィールド船長の支援を受けアメリカで語学(英語)・航海術などを学ぶ。アメリカ本土でお金を貯め、日本への帰国を果たす幕末に帰国後は英語やアメリカの工業技術や航海術など教育を広め日本の近代化に貢献した。雑司が谷霊園に到着池袋から電車で10分霊園内はグーグルマップを頼りにジョン万次郎のお墓までたどり着けました。(令和6年2月訪問)歴史を感じるお墓東京大空襲の影響で少し石が欠けている新しい花が生けてありました。こちらも空襲で壊されている昭和3年には正五位が贈られる以前高知を旅した時にジョン万次郎に関連した場所を訪問した、土佐清水のトンネルを抜けると太平洋が広がる。(令和3年訪問)四国最南端足摺岬にはジョン万次郎の銅像(太平洋側を向いている)室戸岬には中岡慎太郎、桂浜には坂本龍馬の銅像日本帰国後の姿か?髪は洋風、服は和装手に持っているものは?航海に必要なコンパスフリーメイソンの一員ではないかとの説もある地元では「ジョン万次郎」を大河ドラマ実現に向けて色んな運動されているようです足摺岬から見た太平洋の眺め足摺岬から近い万次郎の生まれ故郷中の浜地区に向かいますジョン万次郎=中濱万次郎苗字の中濱は地名の「中の浜」より中の浜は現在も小さな漁師の集落復元されたジョン万次郎の生家があるたぶん明治時代から変わらない道や区画復元された万次郎の小さな生家中も土間の厨房と6畳くらいの部屋1つ裕福な暮らしではなかった「中の浜」の港この日は凪でしたが、太平洋直結なので大きな防波堤がいくつも設置されている「中の浜」は足摺岬から車で15分高知市内から2時間中の浜から20分土佐清水市にある「ジョン万次郎博物館」想像以上に立派な建物万次郎は14歳で初めての漁に出て遭難小さな漁船で1週間さまよい無人島(鳥島)に漂着する小さな無人島なので水の確保が難しく船員たちの小便も岩にためて喉の渇きを潤した。渡り鳥のアホウドリを食料にした、人間に対しての警戒心がなかったため容易に捕まえる事が出来たアメリカの捕鯨船に救出される肉を食べる為に獲るのではなく鯨の油を採取する為に鯨を捕獲、鯨油以外の肉などは廃棄していた。アメリカでは鯨油を工業製品の潤滑油や照明油などに使用、価値があり高値で取引されていた。当時の捕鯨船、万次郎たちは救出され捕鯨を続けながらハワイに下された。アメリカ本土で船長の補助で教育をうけ再度捕鯨船に乗り世界中を航海。ゴールドラッシュに沸くカリフォルニアで金を採掘し資金を貯め日本帰国を決意アメリカから中国行の商業船に搭乗し太平洋を渡り沖縄に向かった、当時は薩摩藩に支配されていた琉球王国ですが、一旦琉球に入国してから日本本土に向かう方が容易なことから沖縄を目指す沖縄近辺からは万次郎が購入した小型船「アドベンチャラ号」で沖縄に上陸沖縄滞在後は鹿児島(薩摩)へ移動藩主の島津斉彬とも面会している斉彬は西郷隆盛や大久保利通が慕っていた殿様西洋の近代技術を積極的に取り入れた。万次郎から話を聞いた斉彬は蒸気船の模型を造らせたという。薩摩藩の次におくられたのが長崎奉行所幕府直轄の奉行所での取り調べ9か月後に無罪放免になりようやく生まれ故郷に帰ることが出来た土佐に戻った万次郎は土佐藩に歓迎され万次郎の経験を聞き取り、河田小龍が「漂巽紀畧」にまとめ藩に提出土佐から中浜に帰り母親と再会する漂流してから11年の歳月がたっっていた万次郎が帰国した翌年に黒船が来航幕府は日本で唯一英語が話せる万次郎に通訳をさせるはずであったがアメリカのスパイ容疑をかけられ実現しなかった。ペリーとの通訳は双方が一旦オランダ語に変換して会談を行った。英語~オランダ語~日本語万次郎が書いたアルファベット(写し)最後の&が?資料館の人に聞くも分からずいまも子供が歌うABCの歌は万次郎の作曲らしい。沖縄の万次郎上陸地点摩文仁の海岸線にある小渡浜(令和3年訪問時)現地にある案内版万次郎は陸側を指差している海岸の浜辺では米軍関係者が大勢サーフィンを楽しんでいた場所は那覇から車で30分摩文仁の平和祈念公園の近く沖縄では現在の豊見城市の民家に滞在地域の人々から歓迎を受けた「ジョン万次郎音頭」まで伝わっている滞在中は訪米時の事情聴衆であったが好待遇で迎えられる滞在した家屋の翁高安家のヒンプン(目隠しの塀)はいまも現存しています。首里城がある那覇の隣町の豊見城市に滞在したこれまで訪問した場所(点)が線で繋がていく、最近ジョン万次郎は坂本龍馬にも大きな影響を与えたのではないかと研究が進んでいる。二人が出会った記録は存在しないが万次郎が訪れた薩摩、長崎、土佐や万次郎が出会った人々と龍馬には深い繋がりがあった。たまたま見た足摺岬のジョン万次郎像からここまで繋がった、機会があればさらに関連した場所(点)や人を訪問する予定。